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by ST25
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 開高健 『パニック・裸の王様(新潮文庫、1960年)
 
 
 1950年代後半に書かれた、今に通じる現代社会の病理を捉えた4つの中篇小説からなる。
 
 
 大衆社会と組織社会(官僚制化)。この現代社会の特徴を、個々別々にこまごまと追究するのではなく、「大衆vs.大衆」、「大衆vs.官僚組織」という対決の形(それはネズミの大群と人間たちとの対決という形でなされる)でダイナミックに描き出すという独創的なアイディアが光る『パニック』は傑作。この作品では、大衆たるネズミの大群が最終的に迎える結末、大衆たる一般市民たちの迷走、役人たちのネズミの大群問題への取り組み姿勢や対処法など、どこを取っても大衆的、組織的行動のオンパレードで、現代社会を隠喩的に見事に凝縮した小説になっている。滑稽で(ちょっぴり刺激的で)おもしろい。
 
 
 始皇帝による秦国建設という壮大な歴史的事業を、歴史モノさながらの雄大な筆致で描きながら、組織社会・官僚制化の特徴や弱点を浮き彫りにした『流亡記』も傑作。
 
 
 社会によって成型された大人と自由な感性を内に秘めた子供との静かな闘いを描いた『裸の王様』は、平凡だし、理想論により過ぎている。
 
 
 会社組織やそこで行われる競争の病理や虚しさを描いた『巨人と玩具』は、平凡でありきたり。現実そのまま過ぎて面白みがない。
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 アルフレッド・ベスター 『虎よ、虎よ!(中田耕治訳/ハヤカワ文庫SF、2008年)
 
 
 人類がテレポーテイション(瞬間移動)の能力を手に入れ、また、人類による惑星間戦争が勃発している未来における、一人の男の復讐と最終秘密兵器(みたいなもの)の行方を描いた1956年のSF小説の新装版。

 SF的な小ネタは随所に散りばめられていても、シンプルなストーリーの復讐話でしかなく、話にぐいぐい引き込まれはするけど「 まさかこのまま終わるのか!?」と、心配しながら読み進めていたら、最後が圧巻。

 大仕掛けが重なり合い、刺激的でイメージ豊かな世界に連れて行ってくれる。

 そこで描かれる(新たに突入したばかりだった)“核の時代”を意識した描写も、その現実の本質や緊張感を鋭く捉えていて見事。

 全体の評価としては、まあ、終わりよければすべてよし、といったところ。
 
 
 ちなみに、同じ著者の後の作品『ゴーレム100』(国書刊行会)は、その圧巻な迫力で最初から最後まで(やや強引ながら)駆け抜けていて、そちらを先に読んでいると、本作に(必要以上に)物足りなさを感じることになる。『虎よ、虎よ!』を読んでから『ゴーレム100』を読めば、両作とも文句なしに楽しめたのかもしれないけど。


 バナナ学園純情乙女組・ヤリ逃げ公演 『 アタシだけ怒られた 』 ( 脚本:中屋敷法仁/演出:二階堂瞳子/2008年5月2日~5日/@桜美林大学徳望館小劇場 )
 
 
 「柿喰う客」主宰の中屋敷法仁が脚本を書き、それを学生(を中心とする人たち)が演出し演じた芝居。

 放課後の教室でだべってる(頭が悪くて、まだお互いぎこちない)女子高生たちを2時間ほど見せられた感じ。( 実際は部室の中学生たちだけど。)

 テンポは悪いし、脱線ばかりで話は進まないし、一言 or 一場面ずつが切れてて会話 or 一つの作品として成立してないし、内容はここの「あらすじ」で述べられてる以上のものは(ほとんど)ないし、それぞれが色々勝手にボケても突っ込みが下手でボケが生かされないし、そもそもボケもありきたりすぎたり荒っぽかったりしつこかったり・・・・。(どれも全てがというわけではないにしても。)

 ともかく、散漫で密度が薄い。

 (一つの作品としての)凝集性が全くない。

 色々詰め込みすぎて全体としても個々としてもつまらなくなってしまったのかもしれない。あるいは、木を見て森を見ず、だったのかもしれない。( これはラノベ的な“キャラ萌え”を楽しめる人にとっては別にいいのかもしれないけど・・・。) あるいは、演出家のまじめな側面と壊れキャラ的な側面(と柿喰う客の呪縛と?)が中途半端に作用しあってどっちつかずになってしまったのかもしれない。
 
 
 が、結局、何がしたかったんだろう?と思ってしまう。
 
 
 
 ところで、ここから先は余談だけど、自分は、「特別公演」の回である4日の15時半からの公演を観る予定だったのに、降りるべきバス停で降りないという失態をやらかし、開演時間に間に合わなくなり、次の19時からの回を観ることになってしまった。

 その問題点1。15時半の回を観ると伝えて、終演後に挨拶する予定だった女の子を待ちぼうけさせてしまったこと。何してんだか・・・。慙愧に耐えない・・・。申し訳さなすぎる・・・。しかも、こういうの、(別の子ではあるけど)これで前科2犯目だったりする・・・。

 その問題点2。(観るはずだった)「特別公演」のお楽しみとして、終演後に、出演者たちによるアキバ系のライブをやったみたいなんだけど、3曲(?)あるうちの1曲はアキバ系の二次元(=アニメ)の代表、『ハレ晴れユカイ』(ハルヒダンス)。これは誰でも知ってる(べき)。そして、残りの2曲はアキバ系の三次元(=アイドル)ということで、ちょっとマイナーなこれ(youtube動画)とこれ(youtube動画)なんだけど・・・・、これ、どっちも知ってるーっ!!! ていうか、かなりよく知ってるーっ!!! ああー、これは行かなければいけなかったなぁ・・・・。行くのが義務でさえあったなぁ・・・・。これ、その場にいていきなりこんな曲が流れてきたら、卒倒してたかもしれないなぁ・・・・。卒倒できるほど楽しいことなんてめったにないだろうに・・・・。あー・・・・。それにしても、ちょう楽しそぅ・・・・。

 それにしても、こんなアキバ系の歌だの踊りだのをせっかく覚えて( 特に菊池佳南と二階堂瞳子の2人の踊りは軸がぶれなくてうまい。この2人は演技でも存在感があって良かった。)、アキバで(ハルヒの)動画まで撮ったりしてるのに、これらが本編と(ほとんど)何も関係ないというのはどうなんだろう・・・。何かしら生かせば良かったのに。資源の有効活用にもなるわけだし。( 生で見れなかったひがみで言ってるわけではない、ときっと思う。)

 ところで、この「アキバでの(ハルヒの)動画」、途中、郵便ポストの上に乗って踊ってるシーンが出てくるんだけど、皆が使うものに土足で乗っかるというのは、不快。( 数十万人いる郵政公社の職員たちにとってはより一層不快だろう。) 他に使う人がいそうもない電話ボックスの中でちょっと撮ったりというくらいなら(迷惑云々言い出す人はいるだろうけど実際迷惑をかけてないわけだから)問題ないと思うけど、(必然性もないのに)ポストに乗るというのは、公の場を利用させてもらうにしては悪ノリがすぎる。というか、こういう見た人がどういう感情や思考を催すかというのを考えるのは、芸術に関わる人なら習慣的に持っているべき振る舞いだと思うんだけど。

 と、まあ、ともかく、この余談の要点は、返す返すも特別公演に行けなかったのが、悔やまれる/懺悔すべしということ。

 ちなみに、バス停で降りすごすなんていう失態がどういう(自分の大きな愚かさ以外の)メカニズムで起こったかというと、ここの行き方の説明文中の 市バス淵野辺駅北口バスロータリーから1番乗り場、小山田桜台行、町田バスセンター行、神奈中多摩車庫行、にご乗車になり、桜美林学園でお降り下さい というのを読んで、それに従って、淵野辺駅北口の市バス1番乗り場で町田バスセンター行〈忠生高校経由〉というバスに乗り、「桜美林学園」に着くのを待っていたらいつまで経っても着かず、町田駅近くに行きそうな雰囲気がしてきておそらく間違っていたらしいことに気づいて降りて引き返したけど時すでに遅しだった、という次第。どうやら町田バスセンター行でも、忠生高校経由の場合は「矢部八幡前」というところで降りなければならず、桜美林学園前・根岸だったなら「桜美林学園前」に行ったらしい。ドンマイっ。

 みんなで怒られればけっこう清々(すがすが)しかったりするものだ。

※ 日々感じたこと考えたことを本記事とは別に、この記事の一番上に足していく形で不定期に書き連ねていきます。

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5月26日
問題集から長文消えるっていう産経新聞の記事読んで怒り心頭。谷川俊太郎の詩を読みたくて問題集や赤本を買ったり、塾や予備校のホームページを見たりした人なんて、今までに一人でもいたのだろうか? まずいないだろう。で、あるなら、谷川俊太郎たちの、一体どんな利益が損なわれたというのだ? しかも、問題集や赤本や塾とかのHPが、子供たちの教育目的のものであることに疑いはない。あるいは、それらによって子供たちが勉学上の利益を得ていることも疑いがない。(その派生的な結果として問題集出版社などが稼ぎを得ていたとしても。) 逆に、過去問題集に実際の文章が掲載されないことで、子供たちへの不利益は確実に発生する。と考えてくると、えっ、何、谷川俊太郎たちは純粋にお金がほしいの・・・? ショック・・・。子供たちの勉学上の成長より自分たちの金か・・・? (谷川俊太郎の言い分が載ってるけど、何を守りたいのか全く意味不明。さすが詩人。)
 ちなみに、このJVCAっていう団体、名誉顧問は海部俊樹。てめぇ、文部大臣まで務めた文教族だろうが・・・、いったい、何やってんだよ・・・。それから、350人ほどの会員(ほとんどが知らない人)の中には、法哲学者の井上達夫大先生の名前が・・・! さらには、驚くなかれ、武田鉄矢の名前まで・・・!

・ 上の話とも関連して、著作権法を少しでも勉強すると分かるけど、著作権法では、あたかも、というか実際、「 著作権は絶対で、表現の自由の実践や教育目的の利用は例外 」というスタンスで書かれている。あるいは、憲法学者が読んだら屈辱的に感じるのではないだろうか。それくらい、倒錯的で筋の悪い法律になっている。
  その影響か、本や雑誌や新聞で、無断での引用を禁じる注意書きでは、論評といった表現の自由の行使の場合など(著作権法上の例外規定)では、引用も当然に許されている(というか憲法上推奨される)ことについて、全く言及がなかったりするのだ。これでは、法律を知らない普通の人が読んだら、引用は全くしてはいけないと思ってしまうだろう。
  岡本薫とかいう文化庁の役人は「著作権は民主主義の学校」(JVCA
のHP)とか言ってて、民主主義の理解がなってなさすぎるけど、まあ、ほんの一理はあるのは確かなのだけど、そんなことより、どう考えたって、著作権による制限を厳しくしすぎると民主主義が空洞化していつの間にか内部崩壊を来たしてしまうことにも注意を払うべきことをこそ、肝に命じておくべきなのだ。分かったか、井上達夫よ。そして、教育目的を積極的に認めないと、多くの子供たちは面倒くさがって勉強せず、せいぜい金持ちしか勉強できないような格差社会を助長することになるのだ。分かったか、海部俊樹よ。

5月17日
・ 自分は、断じて、中国からパンダを1億円で借りることに賛成。いくら自然の中ではないとはいっても、やっぱり生の本物は違う。その感動は他のもので代用できるものではない。映像とか写真とかを通して持ってるイメージを、実物を見ることでチューンナップする作業は(特に子供にとって)とても大切。生き物に対する愛着は実物を見てこそ増すものである。パンダは、(多くの人間から見て)かわいらしい、つまり子供が興味を持ちやすい動物である。パンダは日本におらず、日本の自然を見ていたのではその生態や生体を想像しにくい。そんなパンダを少しでも多くの子供たちに見せるのに日本国民が1人1円の出費するくらいなら全く惜しくない。(なんなら、日本国民の1割から1人10円ずつ寄付を集めてもよい。) 友好の印とはいえ、貸与に1億円というお金を払うルールを決めたのは先進国自ら。対価を払い、相手に恩義を感じさせないのは外交上優位な立場に立つための基本。(タダより高いものはない。)
  ところで、上野動物園の、あの厚いガラスを隔てた遠いところにパンダがいるってみたいな展示方法はもうちょっとなんとかならないものかと思う。

5月14日
・ 福田さん、ただでさえ自分がきつい状況なのに、国民の反発を買う政策の正当化論拠がいろいろと強引過ぎる。地方の財源云々とか。
 というのとは別に、総理が発表した「道路関連法案・税制の取り扱いについて」という7項目の要旨がなんだかおかしい。項目3で 道路特定財源制度は今年の税制抜本改正時に廃止し21年度から一般財源化 と言ってるのに、項目4では 暫定税率分も含めた税率は、環境問題への国際的な取組み、地方の道路整備の必要性、国・地方の厳しい財政状況を踏まえて検討 って、なんで一般財源化するのに(暫定税率分も含めた)税率決めるのに地方の道路整備の必要性を考慮する必要があるんだよ? 純粋に論理的に矛盾してるよ。

5月11日
・ 本屋でなんかの本の著者の肩書きを見て知ったこと。明治大学に国際日本学部なる学部が新設されてたこと。なんて頭の悪い(流行に乗っただけの安易な)名前。痛すぎる。しかも、明治みたいな伝統も知名度もある難関大学がこんなことをするなんて。(マイナーな大学には以前からおかしなのがけっこうある。) 国際日本学部の学生・(将来の)卒業生は、「どこの学部ですか?」とか聞かれるたびに苦労し(て)そう。ちなみに、カリキュラムなんかを見た感じ、どうやら、“日本文化学部”らしい。

・ R-25の器の小さい男云々という記事を見て思い出した事ども。
 結婚式とかで、その演出とかにいちいち難癖をつけて自分の価値観の「正しさ」を口に出し他者に承認してもらわずにはいられないガキんちょ。
 「セクハラとか言う/される女は自意識過剰/自分が悪い」とか言ってる無知で自己中で大人のくせに自分の性欲を扱いきれないことにビクビクしてるバカ。
 こんなグチを適当な記事にかこつけて、こんな公の場に書いてすっきりせずにはいられなかった自分。あーあ・・・・。

5月6日
スーパーアグリのF1撤退、純国産で、しかも、結構弱小チームにしては(本家のホンダより早かったりw)頑張ってただけに、そりゃ残念なんだけど、それより、契約不履行した(=スポンサー料を一度も払わなかった)SS UNITED GROUP、Wikipediaによると「実体のない企業」だったらしいけど、実体のない企業が(F1マシンに会社のロゴを貼ったりして)会社を世界中に宣伝して、一体何がしたかったんだろう・・・? ただの目立ちたがり???


 パール・バック 『神の火を制御せよ――原爆をつくった人びと(丸田浩監修、小林政子訳/径書房、2007年)
 
 
 ノーベル賞作家パール・バックが、史実を参考にしながら原爆を作った科学者たちを描いた1959年の小説。

 実際の原爆製造までの過程、原爆の技術的・科学的なメカニズム、科学者たちの間の人間模様、科学者たちの家族の話、科学者と日系アメリカ人との関わり、個々の科学者の内的葛藤/正当化過程など、さまざまな視点が取り入れられている。

 「科学者に対する製造責任を問う!」みたいな浅はかで単純な内容にはなっていない。

 科学者の家族の話にしても、その妻たちが原爆のような兵器を純粋に恐れつつも何も知らされていない一般世間を代表するような役割を小説上負わされていたりして、安易な家族愛や恋愛みたいな話にはなっていない。

 そんなわけで、原爆製造に関わった科学者たちも決して(分かりやすく)愚かには描かれていない。それぞれがそれぞれなりの理屈や価値観をもって行動している。(もちろん、一部はやや過激で滑稽ではあるけれど。)

 そんな科学者たちの中心的人物による、原爆を投下し戦争が終わった後の次の発言は、科学者たちの姿を端的に表しているように思う。結果から見ると、ただただ虚しい。

いいか、モリー(妻)。新聞にも出てるだろう、戦争は終わったんだ。ティム(息子)は無事に帰ってくる。ピーター(同じく息子)は戦争に行かなくていい。二度と戦争は起こらんだろう。たぶん、戦争のために死ぬことも、悲しむことも、失うことも、みんな永久になくなる (p362)

 
 
 この小説を読んで、「やっぱり原爆は駄目だ」「戦争は駄目だ」で留まっていてはいけない。それではきっと、ここで描かれる科学者たちと同じ道を歩むことになる。いくら一人が良心を持ったところで原爆は作られてしまうのだ。さて、人類はどうすべきなのだろうか。

 てなことを考えたら、やはり、シェリングの『紛争の戦略』(剄草書房)あたりに読み進むべきなのだろう。(もちろん解決策が語られているわけではないにしても。) とはいえ、数学とか値段の問題もあって躊躇ってしまうのだ。

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