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中原昌也 『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』 (河出文庫、2000年)
意味だの教訓だの結末だの現実だの論理だのとは無縁なところで作品をつむぐポストモダン小説。 12本の超短篇を収録している。
次元というか、世界というか、を次々飛び越えて行って、パタリ、と終わる小説の爽快さと無意味さ( あるいは自由さ )よ。
ただ、この手の、支離滅裂な(、それでいてそれだけに止まらないところを持ち合わせている )小説群は、すでに色々存在していて( ウィリアム・バロウズやキャシー・アッカーなど )、特段目新しいということはない。 (中原昌也もポストモダン小説の書き手としてはそこそこセンスはあるにしても。)
未だ人に知られていない、気の利いたユーモラスな話。人々は無意識のうちに、そういった物を求めている筈だ。
その時、ピンキーが急ブレーキをかけたせいで、文庫本と同じように俺の体も勢いよく車内から外へと飛び出た。
バイバイ。
(p87、p118より)
唐十郎 『佐川君からの手紙 〈完全版〉』 (河出文庫、2009年)
日本人の青年がパリでオランダ人女子学生を殺害し、その人肉を食した「パリ人肉事件」を基にした1982年の小説「佐川君からの手紙」などを収録している。 表題作は芥川賞受賞作。
この事件に関する人々の関心は圧倒的に「人肉食」のところに向くけれど、この小説では、「その相手が白人女性だった」ところに注目している。
そして、「白人女性」の「白」を様々な形で象徴的に用い、「色の着いている」日本人女性をそれとの対比で登場させている。
「白」は、純白で無垢な色であり、さらに無色なだけに人々の勝手な妄想や憧れの余地を与えてしまう。 それに対して、「色の着いた」日本人女性は、その妄想や憧れを現実へと引き戻す役割を果たしている。
しかし、その日本人女性が彼の前から立ち去ったとき、彼を現実へと引き戻すものはなくなってしまう。 そして、その妄想や憧れの極致が殺害であり食肉であった。
もちろん、究極点としての殺害や食肉は特殊であるにしても、日本人の西洋人への憧れやコンプレックスは(特に昔は)強固なものである。 その点、特殊な事件を題材に普遍的な事象を文学的に描いている小説だと言える。
そして、その文学的な表現はそこそこ見事。 人肉食の用い方に関しては肩透かしを喰らうけれど。
ちなみに、表題作以外は冗長で退屈。
尾崎士郎 『人生劇場〈青春篇〉』 (新潮文庫、2000年)
1933年に新聞に連載され、その後、川端康成の書評をきっかけにベストセラーになった小説。
学生が大きな顔をして歩いていた時代の、バンカラ学生とその周辺の人たちの波乱万丈な生き方を描いている。
その生き様は、勇ましくも無謀で義理と人情に流されすぎて暑苦しくも爽やかである。
この「青春篇」では、主人公の青成瓢吉よりも、侠客・吉良常や青成の同級・夏村大蔵の方がいいキャラをしていて目立っている。
ちなみに、その熱血漢・夏村大蔵はこんなことも言っていたのであります。
「 女のことでくよくよするやつに天下はとれんぞ! 」(p299)
「 ――女にほれられるようなやつに天下はとれんぞ、おれを見ろ! 女にほれられたことが一ぺんでもあるか? 」(p301)
この小説は、確かに、最後まで飽きることなく読み通せるだけの物語上のおもしろさはあるのだけれど、「大小説」(川端康成)とか「大河教養小説」(関川夏央)とか言うほどではない。 今となっては、かつての時代を味わう以上の意味はない。
村上春樹 『アフターダーク』 (講談社文庫、2006年)
ある日の深夜から夜明けまでの、いろいろな人々の姿を描いている小説。
夜、刻一刻と時が過ぎていく様は、あたかも“闇と光の攻防”であるかのように見える。
そして、その“闇と光の攻防”は人々の中でも繰り広げられている。
その闘いの結果は人それぞれだ。
光を見出せず闇へと落ちて行く人、闇へと落ちて行っていることに気づいてさえいない人、闇の中で生きていくことを受け入れている人、(闇の中を)闇からひたすら逃げ続けることを選んだ人、光を見出し闇から抜け出し始めた人・・・・。
外にも内にも闇だらけの世界にあって、光として提示されているのは、過去の記憶、だ。
もはや今という現実の中には(、あるいは未来には)光はないとも言えるが、「記憶」という燃料を燃やすことで照らし出される今という現実は、光に満ちているとも言える。
ただ、いずれにせよ、なんとも心許ない光しか存在しない世界を描いていることに変わりはない。
とするならば、「アフターダーク」というタイトルや「マリ」の結末といった個別の情報から想起されるところより、作品全体から感じる暗い雰囲気の方が、この小説の内容を適切に表していると言える。
しかし、闇の象徴としてやくざ・マフィアを用いていて「闇」の描写が単純すぎたり、「光」の描写が簡単すぎて説得力に欠けたり、作品としては凡作。
5月2日
・ 連休中何しようかと考えてるときがやはり楽しいんだけど、読みたい本、やりたいことがいっぱいありすぎて、逆にできないことの多さに何か残念な気持ちになる今日この頃。
・ キック・ザ・カン・クルーが好きだというのとKREVAはキックより劣る・・・、というのはいつか書いたけど、KREVAのライブ映像を見てちょっと評価を変えた。 KREVAのライブパフォーマンスのクオリティ、ギザ高ス。 溢れんばかりの天才的な才能がまぶしい。
・ ようやく「★記事タイトル一覧」のリンクを旧ブログのものから新ブログのものに直し終わった。。。