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 古屋兎丸 『ライチ☆光クラブ(太田出版、2006年)


 1980年代の演劇を基にした漫画。

 9人の中学生の少年たちが廃墟に秘密基地を作り、一人のリーダーを崇拝する秘密結社のような組織を築いている。そして、汚れた大人を嫌う彼らは、純潔な少女を捕獲するためのロボットを完成させ、一人の少女をさらってきて匿(かくま)うことになる。しかし、裏切り、猜疑心、偏執的な愛、ロボットと少女との交流などのために、組織はバラバラになり、ついに破滅を迎える。


 秘密基地、秘密結社というと、欲望の赴くまま極悪非道な行いをし、その果てに破滅へと進んでいくストーリーをまずイメージする。けれど、この漫画では、「汚れなき少女」という最高の目的の達成においては男子中学生らしい妙な倫理観や抑制が効いていて、基地や組織やロボットを作り上げたにもかかわらず、結局それによって何かを成し遂げることなく破滅を迎えている。その慎ましさともどかしさに、自分自身の中学生時代を思い起こさせるような懐かしさを含んだリアリティと、強烈な儚さを感じる。

 描写はかなりグロかったりもするけれど、その表面的な激しさが逆に、全てが終わった後の儚さや少年たちの脆さと対照的になっていて、作品の核心をより強く印象付けてくれる。


 ちなみに、汚れた大人を嫌った少年たちが結局残虐な行いに走り、彼らが作ったロボットだけが純潔なる少女と心を通わせることができるというのは、少しありきたりな感じがして、ロボットの存在はあまり読後まで強くは印象には残らなかった。

 

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 池井戸潤 『オレたちバブル入行組(文春文庫、2007年)


 バブル期に大手都市銀に入り、今や課長となったやり手の銀行員が、理不尽な組織の論理や腹黒い上司たちに敢然と立ち向かう経済小説。

 分かりやすい勧善懲悪な話であり、ミステリー的な要素もあり、エンターテインメントとしては十分楽しめた。

 ただ、「バブル入行組」というと、圧倒的な売り手市場で就活をして内定後も歓待された楽して入ってきた世代という印象があるだけに、このタイトルでバブル入行組の行員が実力もあって大活躍するというのはいかがなものか、と思った。

 ちなみに、高杉良の経済小説と主人公のキャラクターとか似ているところもあった。比べると、高杉良の小説の方が登場人物の描写が緻密でかっこよかったりする。ただ、池井戸潤の小説は、ミステリー的な要素が高杉良のものよりおもしろい。


 

 司馬遼太郎 『坂の上の雲(一)(文春文庫、1999年)


 言わずと知れた、維新後の秋山兄弟と正岡子規を描いた作品。

 「いつか読んでおかないと」と思っていたものを1巻だけ読んでみた。

 社会制度が一新され、何もない状態から自らの信念で道を拓いていける「自由さ」にはいいなあと思った。(もちろん、道がないゆえの苦労も大きいだろうけど。)

 ただ、とりあえず一冊読み通させるだけの筆力はさすがとは思いつつも、あと7巻も続きを読もうと思うほど内容的に感じるところはなかった。

 

 佐々木紀彦 『米国製エリートは本当にすごいのか?(東洋経済新報社、2011年)


 『週刊東洋経済』誌の記者である著者が、休職してスタンフォードの大学院で修士号を得た2年間の留学経験をもとに、アメリカの大学教育から、留学生の生態、各国の人々の特徴、歴史を学ぶ意義、国際政治、現代の日本人論と、さまざまなことを語り尽くしている本。

 話題は多岐に渡っているけれど、その基本はあくまで留学中の体験であって地に足が着いており、さらに、著者の論理的な分析と大胆な抽象化、記者としての文章の巧みさによって、読み応えのある面白い本になっている。

 アメリカの大学・大学院(おそらく上位レベルの学校だけな気はするが)は、事前に大量のリーディングの課題を課した上で、授業では議論を積極的に行う。著者によると、アメリカでは、学部生でも最低480冊は本(といってももちろん学問に関連するもの)を読まされる。

 大量のインプットと大量のアウトプットが「米国製エリート」の知的能力を押し上げている。自分の経験からも、この方法は、(やってる最中はかなりキツイけど、)かなり効果的だと思う。そして、この学習法が身に付くと、その後の人生において、自分なりの課題や興味を発見次第、自分自身で勝手に勉強することが可能にもなる。これこそが、一生役立つ、大学で身につけるべき能力だと思える。

 翻って日本の教育では、大学入学までは受験勉強という、「“教科書”という聖典があって、それをひたすらインプット(というか丸暗記)する」という学習を行う。

 思うに、このやり方の問題点は2つある。(もちろんメリットもあるけれど。) 1つは、インプットしなければいけないものがあらかじめ与えられていること。そのため、何をインプットするべきか自分で考えたり探したりする必要がなく、また、常に何かしらの「教科書」のような「正解」があると錯覚してしまう。

 2つ目の問題点は、「テストによって暗記したかを確認する」という意味ではなく、「頭に入れた知識を活用する」という意味でのアウトプットの機会がないこと。そのため、頭に詰め込んだ大量の知識が後々に活かされることがなく、また、活かす場がないことにより、知識が有機的に体系化されずに個々別々のものとしてしか存在しえなくなってしまっている。(「トリビア」だとか「雑学」だとかがやたら持てはやされ、入試でもそのようなことを訊いてくるのは、そんな知識しか持てていない日本人の具体例かもしれない。)

 著者の言うとおり、日本は大学受験まで必死に勉強させられるから大学では遊び、逆にアメリカでは高校の時に遊んで大学では必死に勉強するという違いがあるという面もあるのだろう。そして、これは、受験する人が多く、皆が勉強することになり、その結果平均的な学力が高くなる日本と、大学に行くエリートだけが勉強し、エリート層の知力は優れているアメリカという違いを生んでいるのかもしれない。

 ただ、日本の政界や財界やマスコミなどの人々を見るにつけ、日本の大学教育もアメリカに見習うべきところは見習ってほしいと願わずにいられない。

 

 井上靖 『あすなろ物語(新潮文庫、1958年)


 様々な人々と出会い、色々なことを経験し、成長し、そして、大人になり、という一人の少年の成長を描いた教養小説。作者自身と重ね合わされているところもあり、戦中から戦後にかけての時代が舞台になっている。

 題名にもなっている「あすなろ(翌檜)」とは、 あすは檜になろう、あすは檜になろうと一生懸命考えている木 (p47)のことで、何事かを成し遂げようとしている人間に重ね合わされている。

 とはいえ、主人公の少年が常に「あすなろ」で居続けるわけではなく、むしろ、その逆で、自身の不甲斐なさに常に葛藤しながら、周囲の「あすなろ」な人々に影響を受け、思考し、何とか克己しよう、ということを繰り返している。

 そうして少年も成長し、それなりの仕事をこなす新聞記者として働くようにはなる。しかし、周囲の活きのいい「あすなろ」な人々と比べると、どうも人間的な不甲斐なさは拭いきれていない。戦後間もない苦境の中、皆が生きるために「あすなろ」にならざるを得ないような状況でもそれは変わらない。

 そうして、物語は終わる。


 実は、「あすなろ」の説明には続きがあり、 あすは檜になろう、あすは檜になろうと一生懸命考えている木よ。でも、永久に檜にはなれないんだって! (p47)となっている。

 そういう意味では、まさにパッとしないままの主人公は「あすなろ」である。

 ただ、物語の後半、決して檜にはなれなくても、檜になろうとする人々は肯定的に描かれるようになっている。そして、その考え方は、主人公も自然と受け入れるようになっている。

 この「檜にはなれないあすなろ」の解釈に、作者のメッセージが込められているのだろう。

 

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