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アマルティア・セン 『人間の安全保障』 (東郷えりか訳/集英社新書、2006年)
新聞用のエッセイや講演用の原稿など8本の小論を集めた本。芸のないあからさまなタイトルから予想はしていたけれど、あまりおもしろくはなかった。
扱われている内容は、人間の安全保障、基礎教育、人権の理論、インドの核開発などだが、主張に目新しさはないようだし、短文だけに個々の論点・主張に対する突っ込みも浅い。インドの核について何を語るかは興味を惹かれたけれど、無難な内容だった。また、訳もかなり初心者向けであるという印象を受けた。したがって、大学受験生が小論文勉強用にとりあえず読むには役に立つかもしれない。
内容で特に強調されているのは、理性や人権といった西洋的概念と思われがちなものの普遍性や意義について。例えば、教育では、イスラム原理主義の勢力拡大に神学校が果たした役割が大きいことを指摘し、基礎教育における子供たちの視野を広げることの意義が強調されている。
「 基礎教育はただ技術を身につけさせる(それも大切ですが)ための制度ではありません。それはまた、世界の本質を、その多様性と豊かさを含めて認識することであり、自由と論理的な思考および友情の大切さを理解することなのです。 」(p19)
このことから、「アイデンティティに先行する理性」という主張も展開される。
「 彼(リベラルなブレア首相)ですら、イスラム教徒であることが、かならずしもすべてを凌駕するアイデンティティではないということを、認識していないようでした。
カリキュラムを開放的なものにし、理性のおよぶ範囲を広げるという課題は、〈人間の安全保障〉の促進における教育の役割を考える際に、きわめて重要なものとなるでしょう。学校が子供に「狭量さを押しつけ」て、その役割をはたすことに失敗すれば、広く学ぶことができるという彼らの基本的な〈人権〉を侵害するだけでなく、世界を必要以上に危険な場所に変えることにもなります。 」(p34)
個人的には、「アイデンティティに先行する理性」という主張には賛同する。けれど、理性の優位を認めるだけでは偏狭な宗教的過激主義などをなくすことはできないだろう。この本だけでは分からないけれど、センは、理性があれば偏狭な思考に至らないと信じきっているようである。そこでは、「理性」や「理性的思考の結果」について一定の“内容”が無意識・暗黙のうちに含み込まされて語られているように思える。したがって、センの主張をより完成度の高いものにするには、理性的思考の結果としての人権などのリベラルな制度についてまでセットで語らなければならないと思う。
ただ、人権の理論などについては人間の安全保障を論じるのとは別の章で多少論じられてはいるが。
本田由紀、内藤朝雄、後藤和智 『「ニート」って言うな!』 (光文社新書、2006年)
ライブドアの錬金術をここぞとばかりに非難している大人たちの“錬悪術”を冷静に葬り去る良書。
本書の問題意識は「はじめに」で以下のような演説調の文で“宣言”されている。
「 「ニート」言説という靄が2000年代半ばの日本社会を覆い、視界を不透明にしている。この靄の中で日本社会は誤った方向に舵を切ろうとしている。「ニート」言説は、1990年代半ば以降、ほぼ10年間の長きにわたり悪化の一途をたどった若年雇用問題の咎を、労働需要側や日本の若年労働市場の特殊性にではなく若者自身とその家族に負わせ、若者に対する治療・矯正に問題解決の道を求めている。「ニート」は、忌むべき存在、醜く堕落した存在、病んだ弱い存在として丹念に描き出される。「ニート」は、可能な限り水増しされ、互いに異質な存在をすべて放り込んだ形でその人口規模が推計される。「ニート」は、若者全般に対する違和感や不安をおどろおどろしく煽り立てるための、格好の言葉として用いられる。「ニート」はやがて、本来の定義を離れてあらゆる「駄目なもの」を象徴する言葉として社会に蔓延する。
こうした「ニート」言説のせいで、冷静で客観的な現状分析と、真に有効な対策の構想は立ち遅れている。もはやこうした事態を放置することはできない。靄は払われなければならない。開けた視界のもとで、海図に照らして社会の進路を見定めなければならない時がきている。もう我々を惑わす「ニート」という言葉は使うべきでない。「ニート」って言うな! 」(pp3-4)
そんな本書は三部構成になっている。現実を数値などを用いて分かりやすく説明する第一部、「ニート」言説が蔓延する社会の憎悪メカニズムを解明する第二部、本、新聞、雑誌などの「ニート」言説を検証する第三部である。特に、重要かつおもしろいのは本田由紀が執筆している第一部である。(他は読まなくても良いかもしれない。)
そんなわけで、第一部の「ニート」の現実についての分析を箇条書きで簡単に振り返ってみる。
・日本で「ニート」は次のように定義される。「15~34歳の若者の中で学生でない未婚者で、かつ働いておらず、求職行動もとっていない人」(p21)。しかし、「ニート」の母国・イギリスでは、その定義は失業者も含む16~18歳で、しかも、本来は、貧困や人種的マイノリティなどによる社会的排除の問題と緊密に結びついていた。
・「ニート」は、働く気のない「非希望型」と、働きたいけれどとりあえず働いていない「非求職型」に分けられ、その数は半々。
・非求職型の人たちが求職行動をとらない理由は、「病気・けが」、「探したが見つからなかった」、「急いで仕事につく必要がない」など。(p35)
・1992~2002年で1.27倍という「ニート」の増加分を担っているのは非求職型「ニート」であって、非希望型「ニート」は増えていない。
・非求職型「ニート」と比較にならないほど増えているのは、若年失業者(92年:64万人→02年:129万人)とフリーター(92年:101万人→04年:213万人)。
・つまり、世間でイメージされる「働く気のない人」という意味での「ニート」(非希望型)は増えておらず、90年代半ば以降の若年失業者・フリーターの増加とともに増えているのが「働く気はある」非求職型の「ニート」。要は、「ニート」の増加は労働需要側(企業)の問題。
・その具体的なメカニズムは次のようなもの。すなわち、90年代半ば以降、「これまで新規学卒者の多くを覆っていた「学校経由の就職」が、そのしくみはそのままに規模だけを縮小させ、その空いた部分に大量の「不安定層(失業者、フリーター、非求職型ニート)」が生み出された。」(p76)
・これに、日本の学校教育の「教育の職業的意義の希薄さ」が相まって、「「学校経由の就職」ルートに乗れなかった若者の多くは、とても選抜性の高くなった労働市場の中で、自分のキャリアを構想し実現に移してゆく手段を欠いたまま放置され続けている」(p77)という状態がもたらされた。
・したがって、「学校経由の就職」の特権的有利さと、「職業的意義」の低い学校教育を変える必要。
・解決策:学校を離れた後で、まずいったん大半の若者が非典型雇用(非正規社員)やある程度の時間をかけた求職行動、あるいは、正社員の職をいくつか移動するような模索期間に入り、そして徐々に、かなり安定して長期に働きうる正社員の仕事へと移行していったり、あるいは非正規雇用のままでも生きていくことが可能だったりするというモデル。(p82)
非常に説得力のある分析である。
もちろん、解決策として提示されているモデルは、個人的にはとても魅力的だと思うが、かなりの理想像であって、その状態へ至る道筋や方法が明示されておらず、実現性に乏しい。それに、いわゆる「自分にあった仕事」が見つかる人がどれだけいるのか、肝心な企業側がどこまでこのモデルにメリットを感じられるかなどについて疑問もある。
ただ、客観的で根拠のある現状分析から導かれた解決策だけに、説得力は高い。
さて、第二部と第三部についても簡単にコメントを書いておく。
まず第二部は、青少年が凶悪化したという方向と、青少年が情けなくなったという二つの方向でマス・メディアが煽ると人々が飛びつくことについて、問題にされる少年たちより飛びつく人々の方がむしろ危険だと問題提起する。そして、「自分の醜い面と似たところを持つ他者を見ると憎悪に満ちた感情が喚起される」という理論でそれを説明している。
確かに、この近親憎悪的な構造になっているものや、この種の指摘はしばしば見かける。しかし、「なぜ憎悪が喚起されるのか?」について、多少の説明はなされているが、よく分からない。
なお、この第二部では、著者自身が取材を受けたNHKの教育特集の番組の制作においても「煽り」があった事実や、佐世保の女児による殺害事件の家裁の処遇の「決定要旨」にも煽り的な論理が見られる事実が指摘されている。興味深い事実である。
それから、第三部は、自分が見ることがないであろう雑誌や新聞の投稿欄などまで渉猟されていてありがたいのだが、整理・評価するスタンスが中途半端なような気がした。つまり、著者自身の主観を排した資料的価値の高い整理やまとめにするのか、あるいは、自分の価値観から徹底的に批判するのか、というどちらかに傾斜せずに、評価や批判がないかと言えばそうでもなく、だからといって批判していても生温いという状態になっているのである。
さて、そもそも日本に「ニート」という概念を輸入するのに大きく貢献したのは東大助教授の玄田有史だとされる。それに対して、同じ学者の中からそれに真っ向から反論・論破する動きが出てきたわけである。(ちなみに著者の一人である本田由紀と玄田有史は同僚でもあり、面識もあるとのことである。) 今後は、マスコミの中に「ニート」概念をいたずらに弄んだことに対する自己反省の弁が出てくるか否か、見物である。
また、「ニート」問題を解決したいらしい杉村太蔵はこの本によってその存在意義を消滅させられたわけである。速やかに政治の世界から退場していただきたい。(個人的には彼は嫌いではないのだけれど。)
大竹文雄 『経済学的思考のセンス』 (中公新書、2005年)
「女性が背の高い男性を好む理由」、「イイ男は結婚しているか」、「プロ野球の監督の能力」といった身近な俗っぽい問題から、「年功賃金と成果主義」、「所得格差と再分配」といった時事的な経済の問題までを経済学的に理解することを試みながら、経済学的な思考法(特に、インセンティブと因果関係)を身に付けさせることを目指した本。
この著者は、『日本の不平等』という「格差問題」を冷静に論じた非常に評価の高い書物の著者でもある。『日本の不平等』を読まなければと思いつつも、手軽な新書を先に手に取ってしまった。
さて、この本を読んでまず感じたのは、経済学の裾野の広さである。
例えば、身長による賃金格差(身長プレミアム)を分析し、その源泉を「身長が高いと青年期における運動部への加入率を高め、それが組織を運営する能力の形成に役立つ」(p12)という結論を提示する研究がある。
また、他にも、「美男美女度」が賃金に与える影響を計量経済学的に分析する研究や、オリンピックの国別のメダル獲得数を分析してその予想までもする研究などが、この本では紹介されている。
著者もこれらに連なる研究をいくつか行っている。その中の一つに、プロ野球の監督の能力を測定しようと試みたものがある。それは「勝率引き上げ能力=同一戦力で達成できる予測勝率」として表されるものである。これは具体的には、
「チーム勝率=定数項+平均打率+本塁打数+防御率+監督効果」
というモデルによって導出される。これを、2シーズン以上監督を務めた108人に当てはめ、順位付けを行っている。上位20位のランキング内の順位は統計的に有意ではないが、上位には、最近の監督では、原辰徳(5位)、伊原春樹(9位)、梨田昌孝(12位)、森祗晶(16位)といった人の名が見られる。
しかし、モデルを見ると、選手の個人成績とは別に監督効果が想定されており、おそらくは、監督効果とは「采配」のことを意図しているのであろうが、“個人成績とは別の監督効果=采配”とは一体いかなるものか想像し難い。実際のところを考えると、単純な個人成績の関数からは外れて勝率に寄与する要因とは、効率的な攻撃と守りから生じるものであると考えられるから、これを監督効果と言ってしまうのは無理があると思う。例えば、得点圏打率とかの方が効率的な勝率の上昇には寄与していそうなものである。
また、細かいことではあるが、個人成績に打率と防御率とともに「本塁打」を入れているのも納得し難い。勝率に寄与する要因としては、本塁打よりも「打点」の方がより重要かつ直接的であるように思える。
したがって、結局のところ監督の能力の測定の試みは成功していないように思える。ただ、オリジナルの論文(Ohtake、Ohkusa“Testing the Matching Hypothesis: The Case of Proffessional Baseball in Japan with Comparisons to the U.S.”, 1994)にはこれらの点について言及されている可能性はあるが。
とはいえ、この本は、このような考えやすい身近な問題に始まって、後半では、年功賃金などの「日本的雇用慣行」と所得格差の問題についての経済学的な簡潔なまとめがなされているのである。興味の持ちやすい問題に始まって、日本的雇用慣行と所得格差についての簡単なまとめと来れば、このまま、この著者による『日本の不平等』へとステップアップするのが自然の流れというものだ。そんなわけで、この本は『日本の不平等』への丁度いい橋渡しになった。近々、『日本の不平等』を読むつもりである。
森岡孝二 『働きすぎの時代』 (岩波新書、2005年)
「働きすぎ」の惨状について、世界の現状、情報技術の影響、消費資本主義の影響、フリーター資本主義、ライフスタイル、といった様々な視点から包括的に描き出している。おもしろく、かつ、勉強になった。
読んでいる最中は、何度となく、左翼-マルクス主義用語を叫びたくなった。いや、心の中で叫んだ。
ただ、総務省の調査によると、日本の年間労働時間は「役員」が2408時間、「一般常雇い」が2304時間だという。また、アメリカでも、管理的・専門的・技術的職業従事者、大学卒業者、白人、といった条件を満たす人が最も労働時間が長いという。
だがそもそも、「働きすぎ」を単純に時間の関数だけで考えることはできない。職場環境や職務内容なども本来は考慮すべき関数である。
とはいえ、これを言い出したら、本人の性格や体力などあらゆる個性を考慮しなければならなくなり、何事も言えなくなってしまう。したがって、本書のように「時間」に還元するのは一つの分析の戦略としてはやむを得ないところだ。
しかし、兎にも角にも、労働者の「働きすぎ」の問題は、サービス残業、有給休暇の低取得率、無意味な労働基準法、過労死、うつ病、自殺、労働時間の二極分化、男女の役割分化などなど、様々な形であらゆる場所で実際に顕在化しているのである。
そこで思うに、結局のところ、過重労働問題の根源は、本書の中で多様な働き方に合わせた「労働の個人化」の流れを批判する文脈で述べられていることに尽きるように思える。以下の文である。
「産業や企業の別を問わず一般的に、労働時間を1週40時間、1日8時間というように制限することを「労働時間の標準化」というなら、「労働時間の個人化」というのは、文字どおりには、労働時間の基準とそれに基づく規制を緩和・撤廃して、1日あるいは1週に何時間働くかを個人の自由な意思決定に委ねることである。
しかし、文字どおりの意味での労働時間の個人化は、そもそも「一定の雇用関係のもとで労働者が使用者の指揮命令下におかれる時間」を意味する労働時間の概念とは相容れない。労働契約においては、労働者は使用者の指揮命令下で一定時間以上働くことが前提とされているので、いったん労働契約を結んだ後では、何時間働くかは決して個人の自由だとはいえない。」(pp137-138)
つまるところ、雇用者(より正確には「会社」)とその下で働く労働者(役員等を含めてもいい)との間には絶対的な権力関係が存在するということだ。このことを自覚しないままに、いくら「労働者に“権利”は与えられている」と言ったところで全く無意味なのだ。
とはいえ、資本家・経営者の搾取の問題だと単純に片付けられないのは、自ら積極的に会社や金や利益の奴隷に成り下がる“会社人間”がいるからである。この、会社にしか自分の存在意義を見出せないお寒い人たちのために周りの人たちは迷惑を被ることになる。第一に、こういう人の周り、あるいは、こういう人が作る雰囲気の中で働く非会社人間の人は有給などの権利を行使しにくくされてしまう。また、こういう会社にしか生きがいを見出せない人が、よりによって結婚し、子供を持ったりしていると、また色々な人に迷惑がかかる。
一元的な帰属はあまりに脆い生き方であるし、一つの組織の中の文化や価値に染まりすぎるのはその人自身の、そして社会の、生き方や可能性を狭めることになるし、やはり、社会の中には労働力や時間を使うべき場所は会社以外にもたくさんある。
しかし、そんな惨状に対して、筆者自身も本の最後に「試論的私見」として「働きすぎ」に対抗するための労働者、労組、企業、法律・制度のあり方を述べている。
しかし、「残業はできるだけせず、労働が過重な場合は労働組合や会社に是正を求める」というように、実現可能性が全く考慮されていないものばかりである。そして実際、筆者自身も「働きすぎ」でこの本を作ったことを「あとがき」で告白している。
ただ、本文中で紹介されている新しい試みは一つの解決策へのヒントになり得る。フルタイムとパートタイムの賃金格差を減らし、ワークシェアリングを導入するなどした「オランダ・モデル」や、クリントン政権時に労働長官だったロバート・ライシュが提案している、育児や介護を会社が負担する育児休暇などの「有給」で行うだけでなく、政府が負担することになる「税控除」でも行うというやり方などである。これらは望ましい方向性をもったアイディアであるように思える。
しかし、やはり現実的に考えて、企業の自主努力や労働者の自主救済に任せていては実効的な行いは期待できない。また、本来は労働組合が機能するのが望ましいのだが、現在の労組の組織率などを考えるとこれもあまり期待できない。
そこで、労組以外を使った解決策として、期待を込めて二つほど挙げてみたい。
一つは、労働者がどうせ有給を“取れない”ならば、いっそのこと国が祝日を増やすことである。特に、連続しての休日が正月や盆でもせいぜい3~4日である惨状を考えるなら、ゴールデンウィークを文字通り実現することは重要だ。つまり、4月29日から5月5日までを休みにすることだ。また、冗談ではなく「シルバーウィーク」(老人週間ではない)を創設することを考えてもいい。
もう一つの策は、実現可能性は高くないが実現すれば素晴らしいものである。アメリカでは、市民団体がNIKEなどの途上国での搾取の現実を暴き、不買運動などを行い、改善させるまでこぎ着けた。企業の利益最大化という選好を利用するだけに、運動が盛り上がりさえすれば効果は期待できる。
ところで、本書の欠点の一つとしては、労働時間を制限・軽減することによる企業の競争力の低下や経営難といった問題への言及が全くないことがある。もちろん、本書を読むと「働きすぎ」の問題が人の生命にまで及んでいることが明らかにされているから、筆者からすれば言うまでもないことなのかもしれない。しかし、過労死やうつ病にまで至るほどの過重労働の制限と、平均的な労働時間の増加とは、本書では一緒に議論されているがより意識的に分けて考えなければならない問題であり、労働時間の標準化を求めるのであれば企業の競争力という問題への応答は不可欠である。
しかし、兎にも角にも、「働きすぎ」のひどい惨状とその解決の困難性という現実をここまで見せつけられると、最近よく目にする、「フリーターという選択がいかに正常な感覚をもった人間によるものであるか」を思わずにはいられない。
なにせ企業とは、飛行機の突っ込んだワールドトレードセンタービルで「従業員は仕事に戻れ」という館内放送をするようなところなのだから。
ロナルド・ドーア 『働くということ ――グローバル化と労働の新しい意味』 (石塚雅彦訳、中公新書、2005年)
今回の本は前回の記事で取り上げた『企業福祉の終焉』と同じ中公新書で、同時に発売されたもの。しかもテーマが「労働」ということで類似している。“抱き合わせ販売”の新しい形だと思えてしまう。
だが、そんな出版社の戦略に乗せられて両方一緒に買ってしまった。せっかくだから2冊とも買ったことを活かして2冊を連続して取り上げることにした。
労働について、前回の『企業福祉の終焉』がマクロ的、経済学的、政策的な観点から論じているのに対して、本書『働くということ』はよりミクロ的、哲学的、批判(規範)的に書かれている。しかし、だからといって抽象的な議論を展開しているわけではない。
本書『働くということ』での筆者の基本的な主張は、雇用機会、賃金、労働法規、労働組合、グローバリゼーション(本書では、=アメリカニゼーション)などの中の(筆者の用語法で言うところの)「市場個人主義」的な要素を「社会的連帯」の観点から批判するというもの。
政治哲学的に単純化するなら、労働に関係する対象を中心に、「リベラリズム(特に経済分野における)をコミュニタリアニズムの観点から批判する」と言い換えられるかもしれない。ただ、筆者が依って立つ「共同性」は地域であり国であり地球でありと多様である。
この「共同性」の多様さは本書が欠落しているものと結び付いている。すなわち、本書では批判が中心であってそれに替わるオルタナティブが全く提示されていない。だからこそ、筆者の規範的立場や前提が論じる対象によって変化しているように思えてしまうのだ。(もちろん、筆者の中では体系付けられ、一貫しているのかもしれないが。)
もちろん言うまでもなく、必ずしも批判に代替案や政策が伴わなくてはならないとは思わない。しかし、本書で筆者が批判の対象にする問題は一企業内から一国内、さらには世界規模までと、とても幅広く、かつ普遍的制度・価値(と思われているもの)にまで及ぶ。そのため、そこまで現在の世界(主に先進国)で受け入れられている価値や制度を全面的に批判するのなら、別の可能な世界像を提示してくれと言いたくもなる。
ただ、「“労働(労働機会や賃金)における不平等”を批判する」という点においてのブレのなさには感心する。つまり、“労働における不平等”を企業文化や労働法規、成果主義といったミクロなものから、一国の福祉・雇用政策、グローバル化による影響といったマクロなものまで、問題が存在すると思われるあらゆる箇所を批判しているのだ。
その過程では前回取り上げた『企業福祉の終焉』で主張されていることも批判されている。例えば、企業が人員整理しやすい環境を整えていると批判する文脈において年金制度について以下のような記述が見られる。
「各国政府が進めてきた、そして今なお進めている制度的変更は、圧倒的に外部的柔軟性(引用者注:内部的柔軟性が生産過程の効率性を意味するのに対し、外部的柔軟性は資源配分の効率性に寄与する柔軟性を指す)の促進という方向に傾いているようです。多くの場合、一昔前に経営者が従業員の定着を図るために作った制度も犠牲にされています。たとえば、企業年金を「持ち出し可能」にして、職を変えたら損をするようになっていた制度を変えて、損をしないようにしました。」(p87)
筆者は資源配分(人員整理など)における柔軟性を指向する変化に対して労働者保護とは逆方向だとして批判しているのだ。『企業福祉の終焉』では(筆者=ドーアがまさに批判の対象とする)個人主義の観点から労働市場の柔軟性を肯定的に受け入れていたのとは対照的だ。
確かに、労働市場の柔軟性は、個人主義という理念や企業のニーズのある供給主体(=労働者)からすると望ましいものだが、解雇をしやすくするという「意図せざる結果」を招く可能性も考慮しなければならない。
ここでは見事に2冊の本が議論を補完しあっていると言える。つまり、マクロな方向性を『企業福祉の終焉』が提示し、そのミクロなレベルでの副作用を『働くということ』が指摘するという関係だ。
2冊の本がお互いを直接意識しているわけではないため、直接的に対応する記述が出てくるわけではないが、注意すると上記のような補完関係が他にも見い出せる。
これでこそ2冊を同時に購入した甲斐があったと言える。
ただ、本書『働くということ』は先に述べたようにオルタナティブが提示されていないために、望ましい制度の基準として現在の制度か過去に存在していた制度を想定していることが多い。それゆえ、主張や批判が保守的・守旧的・現状維持的な印象になってしまい、『企業福祉の終焉』の主張と比較したときの説得力の弱さ、魅力の低さは明らかだ。
そしてやはり、『企業福祉の終焉』の議論の方向性に共感するという点での自分の考えに変更は起こらなかった。