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by ST25
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 久しぶりに総合雑誌(あるいは論壇誌)を買った。『論座』(朝日新聞社)の2005年4月号。買った理由はおもしろそうな記事(論文)がいくつか(3つ以上)あったから。読み終わって(もちろん全ての記事を読んだ訳ではない)思うのは「なかなかおもしろかった」ということ。珍しく買って成功だった。
 
 
 ちなみに、この号の特集は「創刊10周年記念特集 日本の言論」。
 
 
 以下では、いろいろな意味で重要だと思われる文を抜き出してコメントしていく。ただ、かなり個人的なメモのようなものになっている。その結果、無理に付した感のあるコメントも自戒の念が多い。
 
 
 ちなみに、引用を多用し、かなり内容に触れているため、自分で実際に読むのを楽しみにしている方は読まない方が良いです。
 
 

 まずは特集の最初の記事「各紙『論壇時評』担当者座談会 情緒頼みの『右』とホンネ語らぬ『左』」。各新聞で「論壇時評」を担当している参加者である金子勝、宮崎哲弥、斎藤環の三人が「論壇への期待と不満」を語るという企画。金子勝と宮崎哲弥は“論壇”の中でも特に信頼の置ける二人であり、実際、興味深くて鋭い話が各所に出てくる。いくつか抜き出してみる。
 
 

 論壇が成り立つ条件、そしてその条件がなぜ失われてしまったのかを考えないといけません。(金子、p10)

 この問題提起の後、まず書き手側について論じられ、その後に読者について話が進む。

 従来の言論誌の主たる読者層だった地方公務員や教師がもはや支え手ではなくなってしまった。(宮崎、p10)

 数十万部を売り上げていた以前からすると、総合誌の現在の状況は芳しくない。これはもちろん論壇(と呼ばれる言論空間)にも当てはまることだろう。言論の軽視・無視が拡大する状況は野蛮である。イデオローグたちの“自己満足”ではない真っ当な言論空間に関する“マーケティング”は考える必要がある。
 
 

 理念の対立軸がなくなった(中略)。いまだに構造改革派対抵抗勢力とか、社会主義対資本主義とか、ありもしない対立軸を唱える論壇誌が多いのですが、それは新しい座標軸を見つける努力をしないからです。書き手が保守化する一方で、公務員やサラリーマンも、自分たちに関係する各論になったら反対する。(金子、p10)

 「新しい座標軸(対立軸)」も考えなければならない。現状の枠組みでものを語ることの多い自分への自戒。
 
 

 つまり不幸というのは、金子勝に「これはぜひ反論しなければならない」と思わせるような、おなじくらい広い視圏を収めながら、なお見解を異にする論者が出てないことだろうね。戦後言論の最盛期には、そういう関係性っていくらでもあったわけでしょうね。(宮崎、p15)

 この後で話はグランドセオリーやピースミール・ソーシャルエンジニアリングに及ぶ。この点でも自戒。細かい点での批判なども必要であり重要だが、その背後の広い土台の構築も常に意識しなければならない。
 
 

 ホリエモンは(中略)フジサンケイグループに対し「新聞がワーワーいったり、新しい教科書を作ったりしても、世の中、変わりません」なんて身も蓋もない批判をする。中途半端なホンネ主義の保守派は、もっと突き抜けた、ラディカルなホンネ主義の挑戦を受けている!(宮崎、p22)

 左翼は、もう少し大衆のホンネの部分にアピールするレトリックを考えたほうがいい。故青木雄二氏や宮崎学氏には学ぶところ大でしょう。遠い外国の話はやめよう。大事だけどいまは胸の奥にしまっておこう。足下をこそ問題にしよう。(宮崎、pp22-23)

 これは言論における戦略の問題。先に書いた「マーケティング」とも関連する。これも常に意識、思考しなければ。
 
 

 もしかしたらサラリーマンは、月刊誌を読む代わりに、新書で世の中を知ろうとしているんじゃないか。(金子、p24)

 月刊誌から新書へというのはおもしろい。
 
 
 さて、「各紙『論壇時評』担当者座談会」からの抜き出しは以上だ。今から見るとなぜ線を引いたのか分からないところが多い・・・。しかし、要は社会に対して発言する際の戦略(およびマーケティング)の重要性をより意識化しなければならないということ。常に一段高い位置から冷静に自分の主張を見つめておきたい。
 
 
 
 
 次は、「私もひとこと言いたい」という「日本の言論界に何を思うか」について各界の言論人43人が1頁で書くという企画。43人は全体としてはやはり“左”が多いが“右”の人もきちんといる。ここでもおもしろいものを取り上げていく。
 
 
 
 まずは佐伯啓思。彼の主張は全体がおもしろいため、論の流れを要約しながら追っていく。ちなみに、引用は全てp60から

 最初に現状認識。

 「言論界」などというものは、すでにほとんど崩壊してしまった、という感が強い。

 そして、その理由について。

 ひとつは、冷戦以降の思想状況、もうひとつは現代のポストモダン的状況だ。

 より具体的には、

 第一に、社会主義の崩壊によって、これまで「論壇」を作ってきた保守・革新の対立は崩れた。(中略)リベラル・デモクラシーや公正な競争的市場経済といった基本線においては、ほとんど対立がなくなってしまったのである。

 第二に、ポストモダン的状況では、「大きな物語」は不可能と見なされ、問題を「総合的に」捉えることができない。その結果、断片化され、分割された多様な問題だけが次々と生み出され、個別問題に対する「専門家」が次々と登場する。しかも多くの場合、複数の「専門家」の見解は分かれ、調停することはできない。

 こうして彼は「時代の必然」としての「論壇の死」を宣告する。

 しかし、このあとの文が見事なのである。

 私自身のささやかな抵抗は、こうした「時代」の不条理と欺瞞をいわば「文明論」として見据えるところにある。時事的な論題といえど、われわれの生きている「現代文明」の亀裂や矛盾の表出だと思うからである。

 と。・・・華麗なる自己論破! 最後に書かれる“自己の営み”を否定するためにその前の文章を書いていたのか!
 
 
 続いては一水会顧問の鈴木邦男。彼の文章は(佐伯啓思に対するのとは異なり素直な意味で)正鵠を得たものだ。その冒頭を少々長いが引用する。

 自分は好き勝手なことを言いたい。でも批判されるのは嫌だ。又、違う意見、反対な意見は聞きたくない。読みたくない。出来るなら潰したい。・・・・・それが「言論の自由」だと思っている人が多い。冗談じゃない。そんなのは単なるエゴイズムだ。皆、誤解している。
 「言論の自由」は我慢がいるものだ。痩せ我慢だ。嫌いな者、許せない者、軽蔑すべき者の考えを認め、発表する自由を保障してやる。それが「言論の自由」だ。(中略)
民主主義は、「君の意見には反対だ。だがそれを言う自由は命をかけて守る」という言葉に表れているという。(p67)

 民主主義を多数決と曲解したり、逆に自己の表現の自由の保持だと曲解したりする浅薄な民主主義理解が広まっている。実際に自己満足の言論・報道が蔓延している。引きこもり少年を問題にする前に、社会のコミュニケーション不全をどうにかすべきだ。
 
 
 
 次は民主党政調会長の仙谷由人。政治家にしては珍しく真っ当なことを言っている。

 NHKの番組内容の改変問題は、本来ならメディアの死活にかかわる重大な問題だ。ゆえにメディアは連携して、「政治家の圧力」とされるものがあったのかどうかを検証し、あったとすれば徹底的に抗するのが当たり前だと思うが、そのような態度はまったく見られない。(p68)

 政治家というものは、言葉によって人々に自らの考えを伝え、同調を得なければならない。言葉の力を否定した瞬間に成り立たなくなる仕事だから、そこは信じていくしかない。政治こそ言葉を武器に、論理のバトルをするべきなのだ。(p68)

 社会の原理的な事柄に対する適切な理解である。この種の自覚を持つ人が増えることは重要なことだ。民主主義にとっても、コミュニケーションにとっても。
 
 
 
 次の企画に移る。「対談 憲法を撮る。」という映画作家の森達也と映画監督の是枝裕和の対談。二人はそれぞれ憲法1条と9条をテーマにドキュメンタリーを撮ることになっている。フジテレビの「NONFIX」という番組の企画である。

 ※しかし放送予定である3月9日午前2時28分には違う番組の再放送がテレビ欄には書かれている。どうやら森達也が恐れていた通り、天皇への取材が問題ありのようで放送は先延ばしされたのであろう。

 さて、この対談は二人の視点・観点が(肯定的な意味で)ジャーナリスティックな内容である。一ヶ所だけ抜き出そう。

 国家の価値観と個の感覚がこれほどに近似してしまう背景には、主語の変質がある。これもオウム以降だと思うんだけど、「被害者」が主語になって、被害者の悲しみをみんなが共有したかのような気持ちになった。でも被害者の辛さなんて、共有できません。だから加害者への憎悪ばかりを共有することになる。そして今度は「我々」、その延長で「国家」が主語になってしまう。そういった集合抽象名詞を使えば楽なんですよね。だから述語が簡単に暴走する。「許せない」というのが典型です。(森、p103)

 集合抽象名詞である主語が延長していくという見方はなかなか現状をうまく捉えているように思える。つまり、近代国家は「私」と「公」を分けている。しかし、今の日本では数多くの「私」が「国家」という単位を主語として思考しているのである。自分が国家君主にでもなったつもりで語る人のなんと多いことか。まさしく「朕は国家なり」状態。稚拙だ。
 
 
 
 次の企画は「枝野幸男民主党憲法調査会長に聞く 自民党こそ究極の護憲政党だ」というインタビュー。この中には鋭い指摘が多々見られる。以下では全て枝野幸男の発言から引用する。

 政治家はあらゆるテーマについて、国民から「どう考えるのか」「どうやって解決するんだ」と聞かれる。その際に具体的な解決策を持ち合わせていなければ、憲法のせいにするのが一番簡単だ。教育をどうするのかと言われた時、やっぱり憲法に教育をしっかりすると書かなきゃいかんと言えば、何か解決策を出しているかのような印象を与えることができる。きちんと勉強していない人ほど憲法改正を言いたがる傾向があると思う。(p108)

 見事な森前首相批判(笑) 同じことは憲法以外に、教育でも言えるだろう。思えば、森前首相はライブドアの堀江社長について「これが戦後教育の成果か」と言っていた(笑)
 

 今までの自民党型利己主義(Stud.注:選挙区への利益誘導のこと)は、自分のためと言わないで自分たちのためということでやってきた。ムラのため、会社のため・・・・。自分よりも一段大括りの組織を隠れ蓑にした利己主義の横行こそ、自民党が作ってきた今の社会の姿だ。それを変えていくためには、個人の責任をはっきりさせていかなければならない。個人が組織を隠れ蓑にしてごまかすことができないようにしていくことのほうが、モラル回復には必要だと思う。国家主義が強まれば、国のためという隠れ蓑の中で利己主義に陥る。国家を強調することは、明らかに時代に逆行している。(p109)

 先の森達也の発言と近いことも言っている。どうやら右派の魂胆はかなり暴かれてきているようだ。(そして、ここではその魂胆を見抜くに止まらずその弊害までが指摘されている。)
 

 「(三分の二を国会で形成して改正しようという気がないということを表す)自民党らしさ(Stud.注:国家や伝統の押し出し)を強調した憲法の議論を進める人たちは一番の護憲派だと、僕はそのことを徹底して言い続けますよ。旧社会党だけが憲法を変えなかった当事者ではない。彼らを巻き込むような改憲の議論をしなかったこれまでの自民党こそがむしろ主犯だと思っている。(p112)

 冷静な指摘である。と共に、民主党が憲法論議でキャスティングボードを握っていくことへの意思が感じられる政治的な発言だ。
 

 最初の国民投票でもし否決されれば、また五十年間、憲法の議論ができなくなる。投票率が確実に50%を超え、7割以上の人が賛成するという国民投票を目指さなければいけない。(p113)

 これまた冷静な指摘である。逆に言えば、この数値が無理なら国民の総意としては憲法改正は必要ないということだろう。
 
 
 
 次に移る。次は政治学者・藤原帰一による連載「映画の中のアメリカ」。第7回である今回のタイトルは「観客の逆説」。一ヶ所だけ引用する。

 安全を保証された現実は、映画を見るという、潜在的には危険な行為を観客に受け入れさせるために欠かせない条件である。
 というのも、映画は、少なくとも潜在的には観客から自由と安全を奪う芸術だからだ。映画の観客は、スクリーンに映し出される「事件」を知ることはできても、自分の手で変えることはできないからだ。観客とは、当事者として行動する自由を奪われた、ただ見るだけの存在に他ならない。
 これはつらい。目の前で人が殺されても、家が燃え上がっても、船が沈んでも、観客はなにもできない。(p222)

 藤原帰一はここからアカデミー賞の受賞作の特質を導いている。つまり、「傍観者でしかあり得ない観客の無力を操るかのような監督の悪意を見ることができる」作品(キューブリック監督『時計じかけのオレンジ』など)は選に漏れるということだ。この構図は先に述べた“「朕は国家なり」現象”と近いかもしれない。
 
 
 
 以上で終りである。最初に書いたように、「論座」今号を読み終えておもしろく、勉強になったと思ったため、いち早くメモしておこうと思ったところから書き始めたのがこの記事である。そのため、自己の主張は少なく、自戒の念が多い。この点はご了承いただきたい。
 
 
 また、思えば、金子勝・宮崎哲弥の発言に触発されて言説に戦略を持たせようと意を決したばかりではあるが、今回はそれとは無縁のものになってしまった・・・。
 

 このブログの記事では「論理」に主張の機軸を置いているものが多い。一つには読書感想文の体のものが多いからである。しかし、これは「論理を徹底させるとリベラルになる」という自分の信念に基づく一つの戦略(と呼べるほどのものか?)であるのだ。

 しかし、最近の論壇にはしっかりした方法論を持った“学問”の素養のある人が増えてきている。(金子勝、宮台真司など。ただ彼らの主張が常にその方法に則っているかは疑わしいが。また、このブログでも取り上げた小谷野敦『評論家入門』はこの観点から過去の論壇を斬ることを意図した著作である。)

 そこで、できればこれからはもう一歩先に進めたい。(ただし、考え付いたらの話だが・・・)

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 パオロ・マッツァリーノ 『反社会学講座』 (イースト・プレス、2004年)


 この本はかなりおもしろい。最初から最後までバテることなく大爆笑。


 この本では世間で流布している社会学的俗説をきちんとしたデータや反証例をもって論破している。そうして導かれる結論(著者が露わにする事実)は当然型破りなものとなる。そのような結論のおもしろさを引き出す著者の学才に、文才と笑才が相まって、完成度の高い“知的エンターテイメント”が作り出されている。


 この本を読んで思うのは、いかに世間の常識や通説が自分勝手なカタルシスによって作り上げられているかということ。多くの場合、悪者に仕立て上げられるのは若者で、お手本にされるのは今の大人たちの子供の頃や西洋。この本の中では、この構図を完全に覆してしまっている。したがって、学力が低く、勤労意欲がなく、忍耐力がないとされて、散々自尊心を傷つけられてきた日本の若者に読ませてあげたいと思ってしまう。


 ここで、各章の最後に付されている「今回のまとめ」から、著者の刺激的な主張をいくつか列挙しておこう。

「戦後最もキレやすかったのは、昭和35年の17歳です。」
「社会に出ると面倒くさいルールが多いので、ひきこもっていましょう。」
「痴漢はふれあいを求めています。」
「アメリカ人はイラクやアルカイダと戦う前に、妻や夫とも戦わねばなりません。」
「日本より欧米各国のほうが、若者のフリーター率が高くなっています。」
「勉強してもしなくても、テロリストになることがあります。」
「世の中が悪くなったのは、オレ以外の誰かのせいだ。」
「ブックオフの店員のあいさつはやかましいので、なんとかしてください。」
「自己破産のご利用は計画的に。」

 随分たくさん書いたが、本書にはもっとたくさんのおもしろいネタがあるため、これだけ書いてもまだまだ十分楽しめる。


 そして、上の引用を見ても分かるとおり本書で取り上げられるテーマは、少年犯罪、フリーター、少子化、学力低下など、近年世間で問題視されることの多い問題のほとんどを網羅している。そのため、本書の主張を知っておくと大抵の社会派の世間話には対応できる。したがって、もちろんテレビ・新聞や国会などの議論にも簡単に適用可能となっている。


 さて、本書の主張には一つの考えが通底しているように思える。それは、著者自身の言葉でいうところの「人間いいかげん史観」である。この考え方は現実的で妥当な認識だ。今vs昔、子供vs大人、日本vs西洋という枠組みで善悪を区切る思考方法は結局、往々にして自分に都合の良いように個人個人が勝手に使ってしまっている。筆者がこの言葉を使って切り捨てているように、「新しい歴史教科書」問題はその端的な例だ。


 今まで、この本の主張に乗って話を進めてきた。しかし、この本に書かれているものが事実であるかどうかは確信できるほどではない。こういう場合、反証がなされるまでは仮に正しいものとして考えておくのが適当な態度だろう。本書の主張からすると、保守的・右的な人は本書に反発を感じるはずである。そこで、是非とも保守的・右的な人たちには自分たちの主張を正当化するためにも反証を頑張ってほしいものだ。(そんな簡単に反論できるとは思えないけど。これは今まで感情論・感覚論に依存しすぎた保守・右にとってのツケだ。)

 長山靖生 『「人間嫌い」の言い分』 (光文社新書、2004年)

 本書のタイトルは、この本を読む読者層に対する印象をネガティブに作り上げる。したがって、本書の感想を書くことはそのようなリスクを伴う。しかし、ここは読者の理解力を信じてこの本の感想を書いてみよう。

 本書の、現代社会の欺瞞に対する冷淡でありながら痛快で気持ちのいい語り口は、シュール系の笑いで笑える人や日々何かに苛立っている人には最適な一冊である。ただ、本書は前半の切れ味が後半では完全にではないけれど、(扱うテーマの問題なのかもしれないが)衰えているように思える。前半がおもしろいだけに残念だ。

 さて、まずは誤解を与えかねない「人間嫌い」なる言葉から説明しよう。この言葉は本文中において様々に定義されていて、中には矛盾するように思えるものもある。(そのためか、本書を読み進めていると、自分のうっぷんを見事なまでに皮肉っぽく代弁してくれていて感動しつつ爆笑したと思うと、今度は自分が攻撃対象側の立場になっていたりと起伏が激しい。)しかし、もっとも大きな枠組みで捉えるなら、「人間嫌い」とは、共同体圧力や付和雷同に対するところの「近代的個人」である。それをあえて筆者は現代のダメな時代状況に合わせて「人間嫌い」と呼んでいるのだ。その他にも、「人間嫌い」vs.「つるみ系」という対立図式も使われている。このように見てくると、「人間嫌い」という言葉は肯定的なものに思えるが、もちろん問題点もあるのは言うまでもないし、「人間嫌い」なる言葉が適切かどうかも分からない。しかし、本書の位置付けからして、そういう堅いことは気にするべきではない。

 そして本書の具体的な内容だが、「はじめに」から引用しながら述べると、「イヤな世の中がイヤになるのは、正当なことだ。イヤな世の中にあって厭世的にならないのは悪人くらいのものである」。そういうわけだから、「すさんだ俗世間との交渉を一切断ち切って、自分一人の世界にひきこもって暮らしたいと考えるようになったとしても、あながち精神に問題があるとはいえないだろう」。「ひきこもり」や「ニート」や「中高年者などの鬱病」が「増える理由も分からなくはない。本来、取り除くべきは人間をそのような状況に追い込む社会病理の方で」ある。彼らのような「繊細でまともな神経の持ち主にとって、「人間嫌い」で生きてゆくという道は、救いとなることもあるかもしれない」。つまり、「人間嫌い」は「問題」ではなく「解答」であるというスタンスだ。そして、このスタンスで日本文学の登場人物や実際の作家の生き様を交えながら、無責任に現代社会を斬っていく。その切れ味は、ギター侍・波○陽区より断然鋭くおもしろい。

 この種のカタルシス系の役割を持つ本は、事実の一端を捉えていて私的な領域に留まっている限りにおいて存在していいと思うし、むしろ有意義だろう。しかしながら、自己の個人的私的不満を「天皇万歳!」だの、「国家万歳!」だのと、公的な問題に同一化して解消する行為は公私混同で自己チューの上、実害もあるし、迷惑千万極まりない。私的な問題は私的に処理してほしいものだ。その点、本書で楽しめる人(実践する人では残念ながらない。)は、ケジメの付けられる健全な近代的市民であり、したがって近代国民国家の存在意義を理解できるがゆえに、真の愛国者足り得る。

 斎藤槙 『社会起業家』 (岩波新書、2004年)

 前回の記事から1週間以上も開いてしまいました。最近、忙しくてあまり本を読んでいないためというのもありますが、読んだ本の内容のためというのもあります。というのも、自分の中では、感想文を書くからには「おもしろい」・「おもしろくない」という2つの基準にあてはめたときに、どんなにわずかであっても「おもしろい」の方に分類される本を取り上げようと決めているのです。その基準に満たないような本にここのところ何冊か当たってしまったからネタ切れだったのです。(読書感想文以外を書けばいいという指摘はスルー。)さて、言い訳はこのぐらいにして本書ですが、本書はかろうじて「おもしろい」に分類できます。

 この本は、営利だけを追求するのでもなく、かと言ってボランティアでもない、社会をよくするという観点に重きを置いてビジネスを行う人たちである社会起業家についていくつもの実例を挙げながら、その新しい潮流を紹介しています。その要点は、章題にもなっている「NPOのような企業、企業のようなNPO」、あるいは「ビジネスの社会化、NPOのビジネス化」に端的に表現されています。思えば、豊かで安定した社会を永続させようと思えば企業の社会責任は当然要求されることになるし、強くて活気ある市民社会を創出しようと思えばNPOなどのビジネス化は必要不可欠となります。このことから考えると、企業が引き起こす公害問題が認識さえされていなかった時代や、市民の公共的な活動というとボランティアがイメージされていた時代を経て、ようやく、政府・市場・市民社会という“3つ”の領域を基本の枠組みとした社会へと向かって、時代が動き出したことを表しているように思えます。

 ところで、「ようやく、~動き出した」という表現からも分かるとおり、私としては上で述べたような方向性については既に必要性や現実を認識していたので、その分、本書のおもしろさや新しさはいまいちだったのです。

 さて、そんな中でも、明日使える豆知識としておもしろいと思ったものを一つ紹介しましょう。一部の政治的な人から「帝国・アメリカ資本の手先」や、「豆の生産で途上国から搾取している」とも思われがちな、「スター・バックス」。しかし、スタバはNPOとパートナーシップを結ぶなどして、コーヒー・紅茶生産国で行われるケア活動を支援したり、環境や生産農家に配慮したコーヒー栽培を実践したり、フェア・トレードを推進したりと、極めて先進的な試みを実行しているのです。この効果は、自社のイメージや製品の質を高めるだけでなく、提携したNPOの強化にもなっています。同社のこれらの試みを進めているのはハワード・シュルツCEO自身で、彼の言葉がまた強力なソフト・パワーを持っています。
「日雇い労働者の父を持った私の家族はお金にとても苦労しました。安定した仕事を持つことがどれほど重要か子どものときに理解しました」
 愛国者である前に、地球に住む一人の人間である私は、明日、乱立する国賊企業を尻目に、スタバに入ろうと思います。

 宮川公男、大守隆編 『ソーシャル・キャピタル』 (東洋経済新報社、2004年)

 本書は、ソーシャル・キャピタル(以下、SC)に関わる論争を巻き起こした第一人者であるロバート・パットナムが、近年のアメリカでテレビの影響等によりSCが衰退していると論じた著名な論文「Bowling Alone」の他、数名の学者によるSCに関する論文が所収されている。具体的には、SC論の流れや、SCの経済学的分析や、信頼についての分析等で、各々別々の学者による論稿だが、この一冊でSCについて包括的に学ぶことができるようになっており、優れた編著書である。


 SCは、「広く人々が作る社会的ネットワーク(=構造的次元)、そして、その中で生まれる、共有された規範、価値、理解、信頼(=文化的次元)を含むものであり、そのネットワークに属する人々の間の協力を推進し、共通の目的と相互の利益を実現するために貢献するもの」と定義される。SC論の議論を巻き起こしたのは、パットナムの1993年の著書『Making Democracy Work』(邦訳『哲学する民主主義』)で、そこでは、イタリアの南部と北部の比較からSCの存在の有無が民主主義のパフォーマンスに影響を与えると論じられている。このような抽象的で文化的な概念の存在を学問的に実証できるかは疑問が残るが、“科学化”が進んだ政治学の中で、影響力を有する数少ないリベラルな(含意を大いに含む)概念だけに砂漠の中のオアシスのごとく人々の関心が集まっている。そして、SCが経済パフォーマンスにも好影響を与えるとする主張も提出されている。

 本書の個々の論文の中では、興味深い分析や視点がたくさん出されている。例えば、アスレイナー論文での信頼の分類(普遍化信頼・特定化信頼など)は、山岸俊男『信頼の構造』(東大出版会)と併せて読むとおもしろそうだ。しかし、ここではSC全体について一つだけ触れるに止めておこう。

 SCは前回の記事で取り上げたソフト・パワーと同様、規範的にはリベラルな概念だと思われることが多い。しかし、SCは共同性や規範の重視など、コミュニタリアニズム(共同体主義)と近い特徴を持っている。それでもSCをリベラルな概念だと捉えるなら、両者の違いはどこにあるのだろうか。その答えは、一般的に言われるように、自分で選択したか否かという点に求められる。つまり、リベラルな概念としてのSCを構成する社会的ネットワークや組織は自発的に入ったものであり、他方、コミュニタリアニズムで重視されるのは地域共同体や家族など非自発的な集団である。ここから、SCの特徴的で本質的な一つの側面が明らかになる。
 SCはその存在場所を考えると多数の人を巻き込む社会的で集合的な概念としてイメージされる。それは、直訳すれば「社会資本」となるその名前にも表れている。しかし、コミュニタリアニズムとの比較で見たように、SCの前提であり要点は、やや極論すれば、個人の内実にこそ存在している。詳しく述べると、SCは社会の中で複数の人々の間での相互の関係性の中で初めて成り立つものだと考えられることが多いし、定義からしても複数の人々の間で成り立つものだという前提がある。つまり、ここでは社会全体のみに焦点を当て、社会総体での信頼や規範やネットワーク等の量が想定されている。しかし、それでは信頼や規範を支える要因(自律的な個人なのか、共同体の圧力なのか)が明らかではない。したがって、これらから個人に基礎を置いてSCを再考すると、法やルールや規範の遵守等を身に付けた近代的な人間の合計の量こそがSCだと言えるのではないだろうか。そして、このように捉えなければリベラルな概念としてのSCという考えは成立し得ないように思えるのである。

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