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 仲正昌樹 『日本とドイツ 二つの戦後思想」(光文社新書、2005年)

 「戦後責任」・「国のかたち(constitution)」・「マルクス主義」・「ポストモダン」という4つの問題における日本とドイツの間の戦後思想における異同を社会状況と関連付けながら論じた好著。思想と現実社会との結びつき、日本とドイツで差異が生まれた理由がよく分かる。

 最近、新たに盛り上がっている「戦争責任」の議論に関心を持って本書を読んだこともあり、特に「戦後責任」と「国のかたち」の章はとても勉強になったし、とてもおもしろかった。以下では、「戦争責任」に関係するところに絞って紹介していく。

 まず、この本の中で自分にとって「つかみ」になったのが下の文。東京裁判について筆者は、敗者を有罪にするために事後的な法で裁くのはフェアではないとしつつも、論理的にさらなる考察を進めていく。

「実力行使で勝った者の論理の押し付けとしてできた法はインチキであり、認められない」という態度を徹底していくと、現存するほとんどすべての国の国家主権と法体系は、程度の差こそあれ、もともと強い者たちによる既得権益保持のために作り出されたものであるから、「国家」の存在自体がインチキだということになってしまう。(pp22-23)

 筆者自身は、予想外の大問題が生じてしまった場合にはそこに適応すべき「法」を事後的に再構成するのは仕方がない(p24)から、それがもたらす効果を時間をかけて観察するしかないと考える。そして結果から見ると、日本とドイツに事後的に作られた「法」はポジティブに機能していると評価する。

 東京裁判についての自分の考えは筆者の考えと近い。

 平時と異常時とは分けて考える必要がある。

 まず、平常時における法の適用についてイラク攻撃を例に考える。(「自衛のための戦争」という無理なこじ付けは試みはしたが実質的に)国際法を破ったアメリカのイラク攻撃を支持する日本の保守系の人たちが、こと東京裁判に関してはそれが無効な論拠として当事の国際法を持ち出すことに違和感を感じている。イラク攻撃は国際法を破ってまで行うべき事態での行為だったとは到底思えない。

 また他方、異常時については究極的な対立の場面を想定する。リベラリズムとデモクラシーの対立というような問題に対しては、そもそも法や人権といったリベラリズム的な概念や制度は民主主義的な支持や正当性に裏付けられて初めて意味をなすものであると考えている。この見方は、究極的な場面における現実主義的な認識に基づいている。結局のところ、力を握っているものの価値観や正義が強いということだ。

 これらの観点から、残念ながら法的制度の整っていない大戦争後においては勝者の裁きは受け入れざるを得ない。

 以上のような東京裁判の議論は本書の本筋からはやや逸れる最初の導入のようなものとして触れられている。この本ではさらに踏み込んだ「戦争責任」に関する議論が日本とドイツを比較しながら紹介されている。

 両国の違いとしてはまず、「人道に対する罪」の責任を負わされたか否かの違いが挙げられている。ドイツではナチスの行為に対して「人道に対する罪」が適用され、それを前提にした国家が創設されたため、「人道に対する罪」をフィクションだと全否定することは難しかった。しかし、日本ではそれが適用されなかったために「人道に対する罪」を日本が犯したのかどうかが対外的にも国内的にも曖昧のまま戦後をスタートさせた。そのため、両国の違いを筆者は批判を承知で以下のように“分かりやすく”例える。

極めてはっきりした大悪事を犯したために周りから徹底的に追及されたせいで事の善/悪をよく理解するようになった元大悪人Aと、Aと比べるとそれほどはっきりしない中途半端な悪事を働いたため周りから中途半端に責められて、やはり中途半端な善/悪の基準しか持っていない元中悪人Bという感じになる(p35)

 次に、「国民の戦争責任」についてヤスパース(が行った議論)の存在の有無を両国の違いとして挙げる。ドイツでは哲学者ヤスパースが1946年の講演でこの問題について、現在に至るまで影響を与え続けている基本的な考え方を提示した。

「国民」という抽象的な集合体がまとまって罪を負っているかのような語り方をすれば、国民を構成する各個人がそれぞれ異なった仕方で、異なった重さで負っているはずの罪の具体的な中身がかえって曖昧なものになってしまう。各個人が、自分の罪について主体的に考えるべきだというのが、ヤスパースの議論の大前提である。(p37)

 その上で、ヤスパースは各人が負っている可能性がある罪を、①刑法上の罪、②政治上の罪、③道徳上の罪、④形而上学的な罪、の4つに分類する。そしてこれにより、法や政治の場で公式的に清算することが可能な①②の罪と、自分自身でどこまでも追及し続けるしかない③④の罪とを分けて考えることが可能になる。

 それに対し、ヤスパースを欠いていた日本では戦争責任についての細かい議論は行われず、一般国民の被害者性を強調して為政者の責任だけを追及する議論がまかり通ってしまった。そして、この一般国民=被害者という定式は外部(アジア諸国)の人たちに対する加害者性を隠避する作用をも持ったとされる。

 以上が「戦争責任」についての本書の議論の簡単な内容だ。国家の責任と個人の責任の分離なんて今聞けば当然のことのように思えるが、日本で行われ続けている議論の惨状を思い出すなら、いかに議論が深化していなかったのかが分かる。やはり、右派も左派も「過去の戦争」をその時その時の“政争の具”や“個人的なカタルシスの道具”にしていただけと思わざるを得ない。

 本書の議論を参考にして考えれば、このようになってしまったのは、その余地を与えた欧米戦勝国の、攻め込まれたアジア諸国を軽視したがための失敗であるとも言える。この点、攻め込まれたフランスやソ連が戦勝国となって戦後政策に関わったドイツとは異なる。

 このような分析を導けるのも、本書が「戦争責任」について今まで行われてきた議論とその議論が行われた理由をも解明しているからである。この種の本が、独善的になりがちな歴史に関する“議論”に実質的な“議論”をもたらしてくれることを願いたいが・・・。

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 手嶋豊 『医事法入門(有斐閣アルマ、2005年)
 
 民法(不法行為法)の専門家による新しい分野の教科書。前半では総論や医療体制といった全体的、制度的な面について書かれ、後半では生殖補助医療、遺伝子、医学研究、医療事故、脳死、終末期医療といった個別の論点について書かれている。

 筆者も指摘している通り「医事法は新しい法領域」であることもあってか、本書を読んでも、いまいち法と医療とが掛け橋されているようには思えなかった。そのため、単純に医療に関係する法規を紹介しただけという感覚が残る。これなら、(例えば)民法総論を習得してあれば十分足りてしまうように思える。特に、前半の医療体制や医師制度などの制度的な部分では常識的な事実が根拠法とともに簡単に紹介されているだけであって物足りなさを感じた。また、後半の個別の論点のところも、これらは細かく考えていくとおもしろい問題なのだが、基本的な内容が紹介されているだけで、中途半端な観が否めない。「入門」の教科書だからこれでいいという考えも成り立つだろうが。ただ、驚いたことに、その割には参考文献などが全く紹介されていない点は不満だ。

 しかし、そんな中、9章の「医療事故をめぐる問題」だけは、他の章と比べて異質なくらいに質も量も増している。この章だけ、分量は約2倍だし、民法学上と思しき専門的なやや難解な用語も使われている。ただ、確かに「医事法」と言われて最も一般的に思いつくであろう問題は医療事故であるから、これも当然のことだろう。(むしろ他のところが深化が未だ浅いのだと思う。)

 それでも、個人的におもしろいと思うのは、やはり個別の論点を紹介している後半の生命倫理に関わる問題だ。この分野の論点は本当に難しい。考えて答えを導く際には、哲学的な抽象的な話としてではなく、現実的・具体的な話として「人間とは?」とか「人間の尊厳とは?」とか「人間の死とは?」という問題への認識が問われる。この本にもその種の論点がいくつか出てきている。以下では、安楽死やヒトクローンの禁止などの一般的なもの以外で本書に出てきた重い問題を列挙しておこう。
 
 
・非配偶者間人工授精が話題になったが、そもそも不妊は「治療の対象」なのか?あるいは、子を持つ権利(?)はそこまでして保障されるべきものなのか?

遺伝子解析の伸展の結果、新たに生じたのが、疾病とは何か、という「疾病の定義」の問題である。アメリカでは、遺伝子診断で乳がん・卵巣がんの家系と判明した「患者」が、将来、乳がんまたは卵巣がんを発病するリスクが、そうでない女性に比べて35倍高いと評価されたため、未だ発病前の段階で生殖器の切除手術を実施したことに対して、医療保険会社が給付を拒否したことが契約違反として訴訟となった。(中略)疾病に該当するかどうかで、遺伝情報を根拠として実施される行為が医療行為と認められるか否かについて、結論が変わることになる(pp105-106)

・人体組織の帰属はどうなるのか?人体組織に所有権(とそれに伴う諸権利)は成立するのか?認められるとするなら、臓器売買や人間の尊厳の問題にも発展する。

・死体からの臓器提供において提供先を指定することは認められるか?最近の国会等での議論では認められる方向で進んでいるが、臓器提供を待つ子を持つ親が、提供臓器が現れないことに絶望し、(中略)(自殺して)その臓器を子に移植する(ような)ことが認められるのか(p181)?
 
 
 以上、簡単に列挙してきたが、本書の中では個々の論点を詳細に論じることが目的とはされていないためにこの本を読んだだけでは情報や認識不足であるものがあるかもしれない。けれど、どれも人間の生・死やモノとしての人間に関わるもので難問だ。もちろん、生命倫理に関わる分野ではこれら以上の難問がいっぱいあるわけだが。

 話が医事法からは逸れてしまったが、上で挙げたような問題は医学界にその解決を独占させておくべきものではない。今までは、医師会や医学会などの団体が自己規制をしてきていたが、強制力はなく、これだけ社会にとっても個人にとっても重大な問題を扱うには危うすぎる。実際に、着床前診断による産み分けが起こっている。また、医学界では、医学・薬学の進歩や医師の地位といった医学界寄りのバイアスが全くかからないとは言い難い。したがって、本書のような医事を法や社会と結びつける試みは重要だし、積極的に応援したい。

 特に医療技術の進歩と人権の範囲の拡大とが相まって、社会的・法的・政治的に解決や判断をしなければならない問題は増えていく。こういうことは法学などの社会科学を学んでいる人より、医学・楽学などに関わっている人にもっと理解を拡げていかなければならないと思われる。

 本書を読んだ物足りなさからそんな結論を導き出してみた。

 高田里恵子 『グロテスクな教養(ちくま新書、2005年)
 
 
 この本は、教養の中身ではなく教養をめぐる言説(≒教養論)の方に主に焦点を当ててその歴史を大雑把に辿っている。その際のスタンスは批判的というより冷笑的だ。

 本書での筆者の「主張」は、まとまりがなく右往左往していて焦点が定まっていないように思えてしまった。そんなわけで、教養論を扱う本で重要なのはやはり「教養をどう捉えるか」であるので、以下ではその点について書いていく。

 いきなりだが、いくつかおもしろい記述を抜き出していこう。 

「二重戦略」とは、よくある現象に即して説明すると、エリートを自認しながら、あるいはエリートという自己認識をもっているからこそ、大衆文化にも馴染んでいて、秀才なのになかなか話の分かる奴との評判をとろうとする態度である。これを、われわれの例の台詞で言いなおせば、難解な哲学書を読むふりをすることは受験勝者の仲間内で、僕はたんなる受験秀才じゃないを誇示しあう方法であり、難解な哲学書なんか知らないふりをすることは、外部の世間にたいして、ぼかぁ冷たい優等生じゃありませんよと媚びる態度であった、となろう。(pp37-38)

 
 

「戦前はサラリーマンの就労人口に占める割合は10%を越えなかった。その限りサラリーマンは近代的セクターの職業として憧れの職業だった。サラリーマンの別名は「インテリ」や「知識階級」であり、都会のハイカラ階級だった」と竹内洋は説明している。/ところが、この日本の「知識階級」が、旧制高校や大学で教養の洗礼を受けているにもかかわらず、サラリーマンになってしまうと奇妙に反知性主義的な態度を取るということが問題なのである。これは、本当によく批判されることで、内容じたいよりも、指摘の頻度のほうが日本的特徴となっているくらいだ。丸山真男も「卒業とともに普遍的な教養からも急速に「卒業」してしまう。つまり職場の技術的な知識への関心に埋没する傾向があるのです」と嘆いている。(p97)

 
 

教養主義が批判されるとき、すでに見たように、ブルジョア的視点からは、身のほど知らずの上昇志向の落ち着きのなさが馬鹿にされ、庶民的存在には、自分たちを置き去りにする裏切り者のエゴイズムが非難されるのだが、マルクス主義者や全共闘学生からは、反対に、ヌクヌク自足しきって動かないことが糾弾された。(p205)

 
 
 これらはどれも教養や教養人に対して発せられる一般的な批判であろう。そして、これらはどれも教養を身に付けようとする人の行動の裏に見え隠れする卑しい内面を暴露するものでもある。

 しかし、この種のイデオロギー暴露的な批判は(本書が対象とする1970年代くらいまでの)教養の定義からして避けられない性質のものであるように思われる。本書でも教養の定義に関して以下のような記述が見られる。

われわれの教養の定義にとって重要なのは、自分自身を作りあげるのは、ほかならぬ自分自身だ。いかに生くべきかを考え、いかに生きるかを決めるのは自分自身だ、という認識である。(p17)


 つまり、「いかに生くべきか」=実存的な目的のためのものが教養であるという理解である。

 筆者も書いているように、このような自己の人格形成のための教養は現代では流行らないだろう。第一、そんな個人の内面の悩みに答えてくれる知識が、必要かつ有用なものだとして(大学の「教養過程」という名前に見られるように)“社会的にも”受け入れられるというのは異常な事態だ。

 しかし、今では教養といえば、前者の実存的側面を削ぎ落として後者の社会的有用性が前面に出るようになっている。これを端的に表す現象が哲学の没落と科学(的方法)の隆盛だ。今どきカントやらニーチェやらは専門家のみが理解できる対象だという認識が広まっているし、他の分野の本などで言及されることもあまりなくなってきたように思う。他方で、科学的な手法や分析は論壇人の前提知識となっているし、特に「教養としての経済学」という考えは世間一般でも受け入れられているように思える。

 また、個人の内面のレベルでも、実存的な悩みを解決するために教養を身に付けようとするのではなく、純粋におもしろいから教養を身に付けようという態度が一般的になってきたように思う。この転換によって、最初に引用した教養(の裏に存する卑しい精神)に対する一般的な批判はなされなくなる。

 もちろん、以上で述べてきたような「社会的に有用な科学的手法をおもしろいから身に付ける」という“新しい教養”には問題もある。

 例えば、教養をおもしろいと感じない人は、教養は身に付けるべきものだという世間的な圧力を感じることもないために、昔のように教養を身に付けようと背伸びや無理をする必要がなくなる。こうして、教養は一部の愛好家の中だけのものになってしまうのだ。これがもたらし得る問題としては、出版不況、階層固定化、民主主義の劣化、エリート主義の伸長、デマゴーグの跋扈などが考えられる。

 しかし、それでもこの“新しい教養”の方がさわやかで好ましいように思える。昔の教養本とかに見られる精神論や教訓は独りよがりでドロドロしすぎていて他人が読むと疲れるような内容になっているからだ。

 筆者も、こんなことを書いている。

自分自身で自分自身を作りあげる、と教養を定義したように、教養は、自分自身をどう見るか、他者にどう見られたいか、他者をどう見るか、ということと結びついている。そこから生まれうる、間違った自己理解と他者理解の錯綜した滑稽さは、わたしにとって、考察対象というよりも、毎日の生活のなかで直面している問題なのだ。(p233)

 自分が言いたいことと筆者がここで言わんとしていることが同じかどうかは分からないが、「滑稽さ」という表現は現代から以前の教養(的な本や言説)を見たときの適切かつ一般的な感想であることに間違いはないだろう。

 内田隆三 『社会学を学ぶ(ちくま新書、2005年)
 
 
 すみませんが、ほとんど何を言っているのか分かりません。
 
 最初の方(3章くらいまで)は著者の読書遍歴に関連付けられながら社会学の古典的な著作や学者について説明がされているのだが、いつの間にか何の断りもなく著者の個人史とは無関係に話が進みだしている。
 
 タイトルからも分かるとおり、本書は「社会学入門」的な本である。実際、本書で取り上げられているのは、マルクスの物象化論、構造主義、フーコー、パーソンズなど重要な社会学者たちである。しかし、その一方で、最後の2章で柳田国男、ベンヤミンが取り上げられている。

 そんな訳で、本書は一般的な「社会学の入門書」と「筆者の主張」が無自覚に(?)混同されているのだ。しかし、この混ざり具合を積極的に表現すると、帯の宣伝文句の通り「血の通った入門書」となるようだ。
 
 それで、なぜこの本をこんなに分かりにくいと感じたのかについて2つの点から解明を試みてみたい。

 一つは、その抽象性にあると思われる。つまり、様々な学者や理論が取り上げられるのだが、その主張が現実の問題とどう関連しているのかに注意が払われていないのだ。「“机上の空論”とはこういうもののことを言うのか!」と実感した。と同時に、本書で述べられる理論の現実有意性を疑わずにはいられなくなってしまう。好意的に特徴付けると、「哲学的理論」とでもなるだろうか。(これはあくまで「社会学」のはずだが。)

 そしてもう一つは、筆者の表現(あるいは主張も?)が独善的なものであることだ。引用してみる。

 以下では柳田国男について書かれた第7章の最後の2段落をかなり長いが全文抜き出す。

 柳田の見据えた課題は、社会学の言葉でいえば、さまざまな地域の習俗を含み込みながら、この国の社会性はどのようなかたちで分節されているのかを明らかにすることであった。習俗はそのままでは多様性のなかに拡散したままであり、ひとつの社会を構成しているとは言いがたい。習俗の場が社会的な秩序に組み込まれているとき、一体何が追補され、何が省略されているのかが明らかにされねばならない。
 全体は部分の総和より以上のものであり、仮想的な統合の次元を追補されている。だがこの統合の効果として、全体は部分の総和より以下のものとなり、たんなる総和よりもはるかに複雑性を縮減したエコノミーを成立させるだろう。深部の習俗から見れば、この仮想的な統合の次元に、山人の共同幻覚が、伊勢の信仰が、そして近代天皇制の文化技術が追補され、それぞれ異なるエコノミーを成立させる。つまり日本という場がさまざまな仕方で成立し、葛藤をはらみながら折り重ねられていく。習俗を成立させている小さな力の場は決して自律しているのではなく、こうした抽象的な場と干渉しながら持続しているのである。(pp210-211)

 ほとんど言葉遊びだ。「それで結局、何?」と問いたくなる。何かを主張や論証しようという気があるのか疑いたくなってくる。それに、どこまでが柳田国男の主張で、どこからが筆者の解釈なのかが分かりにくい。さらに言えば、全てを正しいこととして無批判に論証なしに進めすぎだ。
 
 
 
 
 さて、実は筆者がこのような分かりにくい独善的とも思える内容の本を書き上げた理由が垣間見える文章が最後の「エピローグ」に出てくる。

 私は今も先生の言葉を思い出す。本質的なことが大事なんだよという言葉である。私がその言葉にどれほど誠実であったのかはわからない。だが、私が自分の出会う学生に言えるのは、やはりこの言葉しかない。そして本質的なこととは何かを自分で考えることである。(p236)

 二点コメントしておきたい。

 一つは、「何が本質的なことか?」という問いには答え(模範解答)がない。一つの解答を作るためには本文中にも出てくる批判のように、「超越的な存在」を前提にしなければならない。他方、「本質とは何か?」に答えるもう一つの道は自分で解答を作ることだ。

 まさにここに筆者が独善に陥った原因が見て取れる。つまり、「本質」について筆者なりの基準を示すことなく社会学の諸理論を解釈しても、それは「恣意的」のそしりは免れないのだ。

 それから、二つ目のコメントは、「自分で考えること」という最後の言葉について。自分で考えて、自分で納得したところで、それではただの自己満足に過ぎない。その内容について不特定多数の他者と共有しようという志向がなければこれもまた独りよがりに過ぎないのだ。
 
 
 
 
 それにしても、この種の本を読むと、編集者は内容を理解できたのだろうかという疑問が沸いてくる。「ちくま新書」と言えば、加藤節『政治学を問いなおす』も全く同じような批判が当てはまる内容であった。『社会学を学ぶ』は編集担当者への謝辞が書いていないため、この2冊が同じ編集者かどうかは分からないが、結構おもしろいものもある「ちくま新書」だけに出版社レベルで何とかしてほしいものだ。

 北田暁大 『嗤う日本の「ナショナリズム」』 (NHKブックス、2005年)
 
 
 一応読了。というのも、正直なところ第1~3章は読み進めているときにあまり内容を理解できなかったから。第4章は90年代~現代を扱っていることもあって比較的理解できた。そして、終章で1~4章のまとめもなされていて、そこで何とか1~3章の“主な”主張もおそらく理解できたと思う。
 
 
 それでも理解した範囲内で全体的な感想を言うと、個々の細かいところでは鋭くておもしろい分析もあるけれど、全体の主張としては説得力に欠ける。
 
 
 33歳にして早くも5冊もの単著を出版している新進気鋭の東大助教授(理論社会学・メディア史)である筆者の著書を読むのは初めてだったのだがちょっと期待はずれ。頭がいいことは間違いないけれど、少なくとも現時点では大澤真幸、宮台真司といった先輩社会学者にはまだまだ及ばない。(そうは言っても個人的には、彼らのような「社会学」より、『反社会学講座』的なものの方を学問的には評価しているが。)
 
 
 以下では、(自分の理解のために)少し丁寧に内容を要約してみる。その後でいくつかコメントをする。
 
 

 さて、本書の基本的な主張(1960年代~現代までの日本の「反省史」)は1~4章で行われている。以下では終章のまとめを参考・引用しながら記述していく。
 
 
 まず第1章は1960年代について。
 
 最初に、世界と自己(=主体)との関係を再帰的(反省的)に問うことを、主体が近代人であることの要件だとするギデンズの議論を援用する。その上で連合赤軍事件を取り上げて60年代を描き出そうとする。連合赤軍は「総括」、「自己批判」という用語を使って徹底した反省を行っており、その点では極めて「近代的」である。しかしながら、彼らは目的であるはずの思想(共産主義)を付随的・無内容なものとしてしまい、反省自体を目的化することで形式主義に陥った。この反省・否定の徹底という点で筆者は連合赤軍事件を「反省の時代」としての60年代を象徴する出来事として捉えている。
 
 
 続いて、第2章は1970年代について。
 
 70年代は「60年代的なるもの」への反省を介したリアクションとして捉えられる。ここではその象徴として糸井重里(PARCOの広告)、津村喬(メディア論)などが取り上げられる。彼らは、消費社会的な現実を背景に、サブカルチャーへの愛を肯定し、反省や立場を迫る思想主義に抵抗する「無反省」という反省の様式(「抵抗としての無反省」)を開拓した。これは消費社会的アイロニズムと呼ばれる。
 
 
 第3章は1980年代。
 
 80年代に入ると、70年代における60年代的なものへの「抵抗としての無反省」の「抵抗としての」という留保が抜け落ち、「無反省」(という反省)となる。つまり、消費社会やアイロニーを“戦略的に領有”する消費社会的アイロニズムから、アイロニカルであることを“制度化”する消費社会的シニシズムへという変化である。
 
 
 そして第4章は1990年代~2000年代。
 
 90年代に入り、80年代に形成されたシニカルさ(構造化・制度化されたアイロニー)を担保してくれる第三項(=第三者)が消滅したとされる。そこでは、代わりに個人間の《つながり》がその役割を果たすことになった。つまり、自己がアイロニカルであることは、自己と他者の外部にある第三項によっては保証されず、行為に接続する(=つながる)他者によって逐次承認・正当化されなくてはならないのである。そして、その他者による自己の承認を行いやすくするために導入される媒体が「ナショナリズム」や「反市民主義」といった(ロマン主義的な)ものである。換言すれば、自己の承認のため(実存主義的)に、右翼的ロマン主義的言説が利用されるということである。これを筆者はロマン主義的シニシズムと呼んでいる。

 ここでは「2ちゃん」が例として挙げられている。すなわち、2ちゃんの書き込みというのは、目的が《つながる》(=自己のアイロニカルさを承認してもらう)ことであり、《つながり》やすい会話対象として右翼的言説が用いられているということである。ここから書名の『嗤う日本の「ナショナリズム」』は来ている。(ちなみに、このような用いられ方のナショナリズムは、「だからこそ」危ないという見方(香山リカなど)と、「だから」問題ないとする見方(浅羽通明など)とに分かれるとされる。)
 
 
 この後にリチャード・ローティ=宮台真司的な戦略への批判が簡単に述べられて終わりになっている。以上が本書の主張の流れである。
 
 
 個人的な感想としては、本書は現代社会論、2ちゃんねる論としてならおもしろい一つの解釈として十分にあり得ると思う。しかし、「反省史」という試みとしては説得力がない。それは筆者が「あとがき」でも述べているように対象の選択や解釈の恣意性のためだろう。筆者は足りない点としてこれを指摘しているが、これは果たしてそんな周辺的な事柄だろうか? 例えば、連合赤軍事件や糸井重里や2ちゃんがその時代の「反省」形式を象徴するものだとなぜ言えるのだろうか? アイロニーを反省の“深化”したものとして同列に論じることに問題はないのか? また、そもそも「反省」の形態は歴史的に一方向的に進み収斂していくようなものなのであろうか? これらのような基本的な点への言及もない筆者の主張は「論証された」と言えるだろうか??? 

 これでは、自己の仮説に都合のいい事例を選び、自己に都合のいいように事例を解釈していると思われても仕方がない。
 
 
 ここで、これらのような方法論における致命的な欠陥が起こったメカニズムを蛇足ながら推測してみる。まずそもそもの筆者の問題意識は「アイロニーと感動指向の共存」(電車男)、「世界指向と実存主義の共存」(窪塚的なもの)という2つの矛盾である。そして、先にも述べたように本書は、「2ちゃん」論などとしては自分の感覚に合わないこともなく、とてもおもしろいものである。この出発点と到達点との“合致”から、現代に対する診断(結論)が先にあり、それを跡付け的に歴史を遡って過去に当てはめたとは考えられないだろうか。その結果として、過去の分析が無理のある説得力のないものになってしまったということだ。
 
 
 ここで方法論から内容の方に焦点を移し、今まで唯一肯定的に評価してきた「2ちゃん論」=現代の分析について批判してみたい。筆者は2ちゃんにおける右翼的言説はつながるための「ネタ」に過ぎず、右にも左にも振幅し得るとする。そして、右派的なものである家族会へのバッシングはその証左だとする。
 
 しかし、そもそも、2ちゃんねらーはわざわざ論争的な政治的・社会的な話題を持ち出すのだろうか? 思えば、筆者が取り上げている例で見ても、60年代の連合赤軍以来、人々は政治的・社会的なフィールドから引き下がって私的・非政治的な領域で活動している。この活動領域という点での差異について無自覚に論を進めることはできないはずだ。
 
 
 以上のように、本書は全体としては肯定的な評価は下せない。それでも、現代の分析や、現代以外のところでも細かいところではおもしろい視点があった。メモ的に少々引用しておく。
 
 

 それ(引用者注:『元気が出るテレビ』)は、同年に始まった『夕焼けニャンニャン』(フジテレビ)とともに、「お約束」の外部=「素人」の振舞いを前面化するという「メタお約束」をフォーマット化する試み、すなわちいかなる局面においても、視聴者がツッこみの位置=対象を嗤うポジションに立てるような構図を素描する実践であったのだ(pp158-159)

 
 

 《2ちゃんねる=本音を語る/マスコミ=建前に自足》という対立図式は、むしろマスコミにおける建前・実態のズレを嗤うための当事者カテゴリーを反復したものにすぎない。(中略)偽悪を装う2ちゃんねらーたちは、身も蓋もない本音を語るリアリストというよりは、「建前に隠された本音を語る」というロマン的な自己像を求めてやまないイデアリストであるように思われる(p210)

 
 
 ※もう少し引用したかったが、筆者独特の言葉使いなどのために引用しただけでは意味を取れないものが多かった。この点も読みながら感じた批判点である。若い人にしては珍しく言葉使いが難しい。硬い難しさとは違う読みにくさがある。
 
 
 冒頭で内容をあまり理解できなかったと書きながら散々批判を書いてしまった。これは、「理解できなかった」と開き直ったことによる解放感によるものと思われる。あるいは、アイロニカルであることを他人に承認してもらう必要を感じない人間の恐ろしさか―――。
 

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