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by ST25
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 森博嗣 『大学の話をしましょうか(中公新書ラクレ、2005年)
 
 
 名古屋大学助教授(建築学)でありながらミステリー作家としても活躍している著者がインタビューに答える形で、学生、大学、自分自身について語る。学力低下やニートや国立大の独立行政法人化など時事的な問題から、作家になった理由や国立大学の内側といったとても興味深い初歩的な質問まで、読者の興味に沿った内容となっている。

 著者の、肩の力を抜いた、冷静な、シニカルでありながら前向きなスタンスは、とても心地よく、かつ、とても好感が持てる。そんなわけで、最初から最後まで新鮮な気持ちで読み終えることができた。

 そんな著者の“しなやかな知性”を味わうことがこの本の最大の楽しみであって、個別の問題の如何はこの本の感想としてはあまり重要でないように思える。(言うまでもないが、だからといって著者の指摘が実際の問題に対して無意味だということには全くならない)

 そんなわけで、著者のスタンスがよく表れている中で自分が好きな箇所を一箇所だけ引用して終わりにしよう。

受験戦争の時代の子供は、もっと勉強していたのではないでしょうか。ところが、勉強ばかりする子供たちを哀れんで、なんとかゆとりのある教育をしていこうじゃないか、という動きがここ数十年にあったわけです。
 大人も同じですね。「日本人は働きすぎだ、もっとゆとりのある人生を送ろう」と叫ばれ続けてきた。そういうわけで、休みを増やし、ノルマを減らして、とにかく、遊べるように努力をしてきたわけです。
 それで、今は、大人も子供もみんな遊ぶようになりました。ですから、思いどおりの結果になったといって良いのではないでしょうか。子供の学力は確実に低下していますが、低下しても大丈夫な世の中を作ったわけで、これはこれでひとつの成果だと僕は思いますよ。
 学生は勉強しなくなりましたが、その分、きっと楽しいことをしているのでしょう。良いではありませんか。「そんなことでは日本の未来は危ない」といった意見もあちこちで聞かれますが、いるんですよね、なにかというと日本の未来を危惧する人たちが・・・。「日本の子供は世界で一番勉強する子供だ」って自慢がしたいのでしょうか?(pp30-31)

 ちなみに、著者は、学力の定義の議論が欠如していることや、もっと日本が危機的な状況になったら対処すればよいなど、この引用では不完全なもののいくつかについては言及している。
 
 
 
 ところで、この著者の小説は以前から一度は読んでみたいと思いつつ未だに読まずにきている。著者に対する関心が盛り上がったこの機会を逃さずに読んでみようと思ってはいるのだが。

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 宇都宮直子 『「死」を子どもに教える(中公新書ラクレ、2005年)
 
 
 「死」を考えることから自分の、そして、他人の「生」を肯定することを一つの大きな目標とし、特に教育現場ではタブー視されてきた「死」に正面から向かい合う「デス・エデュケーション」の実践と現時点での成果を紹介している。

 内容に入る前に一つ注意しておかなければならないのは、本文中には、主張の正当化のための強引な論理や明らかな論理の破綻など、前提的、基本的なところで欠陥があることである。例えば、

制服の中学生が男児を。小学生の女児が同級の少女を。卒業生が中学教師を。息子が家族を。事件はいくらでも数えられた。
 そこに共通するのは、きわだった命の軽視である。彼らはたぶん、死にまつわる悲嘆も知らないのだろう。(p15)

 この他にも、少年による殺人事件を死のタブー視やデス・エデュケーションの欠如に求める論理がしばしば出てくるが、様々な死に直面したであろう成人による殺人事件の方が圧倒的に多い事実によって一瞬にして反証されてしまう。

 また、以下の文はトートロジーであって何も言っていない。

日本では家庭の崩壊がたびたび指摘されるが、コミュニケーションの不足がその主因だと思われる。(p69)

 しかし、家庭の崩壊とはコミュニケーション不足の状態であろうから、両者は因果関係にはなく同じことの言い換えにすぎない。

 こんな次第であるから、筆者の記述や主張に関しては幾分割り引いて考えなければならない。しかし、まだ広まり始めたばかりで、自分も知らなかったデス・エデュケーションの試みを知るという点ではそれなりに勉強になる。
 
 
 まず、個人的には、どんなことであれ教育現場においてタブー視されているものを解放して現実を教えるという方向性には大賛成である。

 学校とは社会に子どもを投げ入れる前の教育機関であり、自律や、自己決定や、選択や、学ぶ意欲や、学び方や、社会の仕組みといったものは、究極的には社会で生きていくために必要な力であるからこそ涵養しなければならないのだ。そう考えると、大人になったら直面するようになってくる現実を踏まえた教育内容が求められることになる。
 
 
 さて、デス・エデュケーションの理念に対して賛同を表明した上で、本書で紹介されている実践において気になった点をいくつか指摘しておきたい。

 一つは、人間の価値観や嗜好の多様性について。

 筆者も、現場で実践している中学教師も、死生観などは答えのある問題ではないから自分の価値観を押し付けることにならないように配慮していると述べている。しかし、例えば以下の内容は誘導にならないか。

犬の死が避けられないと獣医師から告げられた母親が、「息子の前で、「死」という言葉を使わないで」と怒る場面にふれた後、天野(中学教師)は、
 「お母さんが息子に『あの犬のことは忘れなさい。新しいものを買ってあげるから』って言ってるけど、みんなはどう思う?」
 と問い掛ける。
 何人もの手が続いて挙がった。
 「生きものを物扱いしていると思います」
 「なんでも、お金で解決しようとしている」
 天野はそれらを、いい意見だね、よく気がついたねと肯定することで、その場の関心をさらに広げてゆく。(pp30-31)

 所詮、犬は人間とは違う。死が現実であるようにこのことも現実だ。犬を物扱いする価値観はそこまで自明に否定できるものではない。

 また、政治哲学や憲法などを少しでも学べばすぐに理解できることであるが、価値観の多様性を認めるというのはそんなに簡単なことではない。例えば、「人の死を見て喜ぶ価値観」をどう扱うのか。本書ではその種の難問についての言及が全くない。

 そして、これは想像の問題ではなく、現実の問題なのである。

 つまり、人の死に悲しみを感じられない人や、人の死に快楽を覚える人の存在である。こういう人の存在を前にしては、以下のような文は空虚である。

この授業で、天野が伝えたかったのは、対象喪失の痛みである。
 (中略)
 身近な死に接し、命の有限性を思うとき、人は悲しみを知る。そして、それを共有できたとき、他者の痛みをも理解する。(pp33-34)

 そして、以上のような、価値の中立性に無頓着で、人間の多様性に無自覚である授業の結果、次のような生徒(中学で授業を受けた高校生)を生むことになる。

同じ世代にいじめや暴力、すぐにキレる少年少女が増えているのをどう思うかと尋ねたときのことだ。
 「みんなが命の大切さを知ったら、そんなことはなくなると思う。親がおなかを痛めて産んでくれた大切な命だから、無駄にはできない」(麻衣)
 「人に『死ね』ということは、命を軽視することだし、それに気がつけないのは悲しいこと」(尚史)
 (中略)
 天野は、死の授業で生徒に答えを求めない。ただ、五人が笑顔で語るもの、それは十分に答えを見せてくれている。
 最後に彼らは、異口同音に言った。
 死の授業が日本中に広がればいい。みんなが勉強して、命の大切さがわかれば、少年犯罪だってきっと減らせる。(pp50-51)

 筆者自身一つの答えを求めていたことが罪の意識なく告白されてしまったことも大問題だが、それよりも、ここを読んだとき、自分の中で一つの結論が導き出された。

 すなわち、ここで紹介されているデス・エデュケーションの実践では、自己の死および死生観を見つめることはできても、他人の考え、あるいは、人間の多様性を知ることはできない、と。

 このことは言い換えれば、もともと人を殺さないような生徒はより死についての理解や考えを深めることができるが、自分とは異なる価値観や嗜好を持つ人の存在を想像・認識できるようにはならない。そして、問題となり得る少数派の生徒は何も変わらないままである。

 しかし、このことは、筆者のように少年犯罪や自殺とデス・エデュケーションを結び付けなければ、肯定的に評価できなくもない。つまり、最初からデス・エデュケーションの目的を“普通の”子どもに死について正面から考えさせることに限定すればよいのである。

 しかしながら、「命の有限性を認識すれば命の大切さを理解できる」、「命の大切さを勉強すれば犯罪もなくなる」なんていうあまりに楽観的かつ偽善的な教育をされたら、自分の場合、死のタブー視に覚えるのと同様、ただ単に反発を覚えるだけだと思えるだけに、考えものだ。

 こういう、授業を受ける側として優等生を想定した優等生向けの教育はいい加減止めてほしいものだ。
 
 
 
 さて他の問題としては、筆者が、生徒が表面に現したそのままの言葉を信用しすぎることが挙げられる。子どものときというのは特に、自分や自分の感情を表現することが苦手であるし、過度に恥ずかしがったりする。また、教師の言ってほしい希望を察して答えたりもする。したがって、生徒の感想をそのまま、授業の評価として用いることには慎重になるべきである。そんな中でも特に不自然なのが、筆者がゲスト・ティーチャーを務めた授業を受けた生徒からの筆者宛ての手紙である。

「拝啓 先日は僕ら3Bの授業に来ていただき、ありがとうございました。横浜からくるのにお疲れかと思います。この授業では何度も泣けるシーンがあり、涙を必死でかくしていました。でも『泣いてもいいんだよ』という、その一言で心がやすらいだ気がしました。
 だれかがいなくなってしまったらどうしよう。そんなことを日々考えていけたらいいです。あたりまえの日常を大切にしたいです。でも、いつかやってくる死、ペットや家族の・・・。ペットや家族が死んでしまったときは、いっぱい泣いて、いっぱい悲しんでやります。貴重な体験をありがとうございました。敬具 前出啓太」(p34)

 
 
 さて、以上この本およびこの本で紹介されているデス・エデュケーションの実践に対する疑問点を書いてきた。しかし、それらはどれも、人間性善説のような楽観的な認識がもたらすもののように思える。(もちろんその根底には論理的思考力の欠如などがあるわけだが。)

 デス・エデュケーションの実践が実際に当てはまるかどうかは分からないが、個人的には、大人たちや社会の偽善で子どもを丸め込もうとする類いの教育は最悪だと思っている。

 とはいえ、デス・エデュケーションについて知ったばかりだけに、この分野の日本における先駆者であるとこの本でも紹介されているアルフォンス・デーケンの本には興味を引かれる。その著作は複数の賞を受賞しているようだし。
 
 
 最後に改めて言っておくが、自分は、この本を読んで初めて知ることができたデス・エデュケーションの理念や目的に大賛成している。また、ペットを物のごとく扱うことや人の死に快楽を覚えることを肯定する価値観はもっていない。

 市村弘正、杉田敦 『社会の喪失(中公新書、2005年)
 
 
 市村弘正自身によって書かれたドキュメンタリー映画の評論6篇を題材にした思想史学者と政治学者との対話。「社会の喪失」というタイトルを見たとき、自分の問題意識(の一つ)を上手く表してくれているような気がしたため読んでみた。

 議論の基となるドキュメンタリー映画とその論評で扱われているテーマは、薬、水俣、差別、国鉄民営化、核など。そして、その論評および本書で行われる対話における両人のスタンスは、あらゆる事物を批判的に捉えるというもの。一言で言い換えれば、「相対化」。

 その方法を少し具体的に2つほど言うと、あまりに抽象的・一般的に語られたり判断されたりするものに対しては、その語りや判断の対象とされる当事者本人の視点を提示する。また、あまりに断定的・絶対的に考えられるものに対しては、他の例を挙げて相対化する。

 前者の例としては部落民の青年の言葉がある。

「とことん虐げられたんやから、とことん優しさをもってる、温かさをもってる。それが部落民の良さやし、俺らある意味でそういう運動をこれからどんどん作っていかなあかんと思う」
 (中略)
 「本当のところ、差別なくなりたいと思うけど、部落民やめたいとは思わへんわ」(p87)

 これはあらゆる物事や人に当てはまるのではないだろうか。「辛い理不尽な経験も自分の人間形成にとっては大きな(プラスの)意味があったから良かった」という肯定的な処理である。もちろんここには、「それなら辛い経験は除去しなくていいのか?」云々、という解き難いジレンマがあるわけだが。

 また、2つの相対化の方法における後者の断定的・絶対的に語られるものに対する相対化の例としては、水俣病に対して普通の中学生が持ち出される。つまり、「世田谷の塾通いの中学生」も心の中に亀裂があるだろうし、しかもそれは報道されもしない。水俣だけを特別視することはできないということである。
 
 
 これらの相対化は、他にも、民族ごとの歴史の違いを強調する歴史修正主義や、公法と私法の二分法や、「調書史観」などに対しても鋭く切り込まれている。

 しかし、相対化という方法自体の弱点でもあるが、本書では、相対化するだけで相対化された後のオルタナティブの提示や依拠すべき基準の構築がなされていないものがしばしば見られる。

 もちろん、オルタナティブの提示や新たな基準の構築には相対化というプロセスを確実に経ることが不可欠であるから、その手伝いをしたというだけでも十分に意義のあることではある。

 しかし、これだけ徹底した相対化を行える著者たちにこそ、“徹底した相対化の後の絶対化”を試み、示してほしかった。
 
 
 
 さて、最初に「社会の喪失」に関心があると書いた。話を単純化して述べると、まず、本書の認識に従って、社会とは様々な人々が共に生きている場所であって、かつ、“純粋な生活の場”というように政治や経済と切り離して考えることができないものだとする。

 そう考えると、「社会の喪失」の状態は二つに分けることができる。それぞれの極端な形を挙げると、片方の極には、自分の人生に拘泥して他人や政治に全く無関心な人たちがいる。そして、もう片方の極には、政治を語りつつも他人や(具体的な)国民という概念が欠落した、つまりは、自己と国家を同一化して政治を語る人たちがいる。

 どちらも、「色々な人たちが共に生きる」という視点、つまり、社会が失われていると言うことができる。

 しかし、社会を喪失するには本人の傲慢だけに帰属させられない問題も多々あるように思える。

 一つ例を挙げる。「社会に出る」ということが言われるとき、往々にしてその「“社会”」とは「会社」のことである。資本の論理に従い、なおかつ上司‐部下関係が強固である封建的な“部分社会”が社会だと言えるわけがない。それを「“社会”」と呼び、「それが現実の“社会”」なんだと言って、若者を諦めさせる言説を“普通の大人”が発するとき、それはまさに資本の論理に侵されてしまっているのだ。

 「“社会”」と思われている会社に行くのに利用する満員電車の方がよっぽど社会である。見知らぬ色々な人たちと共に行動を共にしているからだ。そして、その満員電車の状況は見事なまでに日本の社会の現状を表しているように思える。

 まず、人間がモノであるかのように電車の中に押し込まれ、人ひとり分のスペースも確保されていない。また、男性が女性を抑圧するかのように性犯罪が行われている。さらに、「最近の子供はマナーがなっていない」という言説とは裏腹に最近ケータイを持ち始めた大人(老人)の方が車内で通話している。ちょっと肩がぶつかり合っただけで殺人にまで及ぶ。ただでさえスペースがないのに無理やり新聞を読もうとする。しかもその新聞の多くはスポーツ新聞。また、日経を読んでいても狭い車内で読んでいること自体で分不相応が疑われる。等々。(もちろん、多数派は問題ない人だろうが。)

 こう考えてくると、「“社会”」だと思われている会社も、それ自体は社会ではないにしても、ある意味では日本の社会の現状を表しているかもしれない。(会社人間とか、男性優位とか、封建的とか。)

 ちなみに、社会での登場人物が自分と国家だけである人たちは、ただ単に自分の弱さを隠し、補うために社会を喪失している、これまた可哀想な人たちなのである。
 
 
 このような惨状を見るに、今、社会を取り戻すという方向性が求められていることが分かる。「取り戻す」と言うと過去には存在したかのような意味になるから、より正確には社会を「作る」ということになる。
 
 
 しかし、なぜそこまでして社会を作る必要があるのか。
 
 
 なぜなら、詰まるところ、社会とは“自己を相対化する場”であるからだ。

 社会の喪失と自己の絶対化という悪循環は断ち切らなければならない。

 川本隆史編 『ケアの社会倫理学(有斐閣選書、2005年)
 

「被災地のコミュニティの問題は、日本全体の問題でもある。日本の社会は、人間の「力強さ」や「傷つかない心」を当然のこととしてきた。また、バブル経済の際に、モノやカネだけが幅を利かせる、いささか品のない風潮が全国に蔓延した。人間の心の問題などは省みられなかった。しかし阪神・淡路大震災によって、人工的な都市がいかに脆いものであるかということと同時に、人間とはいかに傷つきやすいものであるかということを私たちは思い知らされた。今後、日本の社会は、この人間の傷つきやすさをどう受け入れていくのだろうか。傷ついた心が心を癒すことのできる社会を選ぶのか、それとも傷ついた人を切り捨てていくきびしい社会を選ぶのか・・・」安克昌『心の傷を癒すということ』(pp4-5)

 
 本書は、そんな精神科医の問題提起に応答した編者が、

スタンダードな生命倫理学の教科書の枠を超えて、医療・看護・介護の営みを「ケア」という観点から統一的かつ批判的に把握し、ケアされる人(患者や高齢者)対ケアする人(医師、看護師、介護者)の関係だけでなく、それを取り巻く家族、地域社会、さらに政治や経済、文化まで視野に収めようとする(p6)

 という企図の下に編んだ論文集である。執筆者には実践家と研究者の両方を含んでいる。
 
 
 個人的におもしろく読んだのは、3章「ケアとしての医療とその倫理」(清水哲郎)、5章「感情労働としてのケア」(武井麻子)、7章「介護の町内化とエロス化を」(三好春樹)、10章「生命倫理教育の反省」(香川知晶)。

 3章「ケアとしての医療とその倫理」では、まず、「ケア」を、援助要求に対して自らを「責任ある」者とみなし、その上で相手の善を目指すコミュニケーション、と捉える。しかし、リベラリズムを基礎にして、「度を越えた他者への害」を禁じるだけの「正義」の倫理では、このようなケアはなされ得ない。そこで筆者は、「援助を必要とする者への応答の奨励」を一般倫理に付加する。そして、その上で、援助する職務を引き受けた医療従事者のケアの倫理として、利害のアセスメントについて述べている。

 今、この3章のまとめを自分の関心に従って、――つまり個人主義的なリベラリズムと非利己的なケアの必要性の衝突という視点から――書いているときに、編者でもある川本隆史の『現代倫理学の冒険』(創文社)に、ケアやそれと近似する章があったのを思い出した。(確認したところ1部5章「ケアと正義」、1部6章「福祉と自由」、2部6章「介護・世話・配慮」あたり。)以前に読んだときはロールズやセン等にばかり関心を払っていてあまり気にかけなかったところで、内容もよく覚えていない。政治哲学系の話は一旦触れると、はまってしまう可能性があるからもっと時間があるときにでも読み返してみよう。
 
 
 さて、本書『ケアの社会倫理学』に戻って、次に5章「感情労働としてのケア」(武井麻子)について。ヒューマン・サービス従事者一般に起こるバーンアウト(燃えつき)を通して、看護師におけるその現実をグロテスクなまでに(ちょっと言いすぎ?)抉り出し検討している。

 この章が本書の中で一番衝撃を受けた。その理由を考えると、一義的には自分の無知によるものだが、より具体的に明らかにすると、一つには、社会問題という観点から医療(医者)や介護が問題になることはあっても看護が問題になることがあまりないために、その現実や問題点を知る機会が少ないことがあると思われる。他にも、子供の頃から経験した看護師が、歯医者、内科、整形外科、耳鼻科など、と、どこにおいてもほとんど全ての人が「優しく」、病院や病気への不安を取り除いてくれる存在だったことも一因としてあると思う。つまり、安易な「白衣の天使」というイメージが現実によっても支えられていたということになる。改めて考えると、その全体的な能力の高さ、対応の良さには驚く。かなりの高率だ。しかし、その背後に以下のような現実があると思うと少し怖くなる・・・。

 本文の内容は以下の通りである。バーンアウトになると、自らヒューマンサービスに携わった人一倍愛他的な人でさえもが、共感を持って接すべきクライエントに対して同情心や痛みを感じられないばかりか、否定的にしか見られなくなってしまう。そんなバーンアウトは患者との過度の同一化等による「共感疲労」によって起こる。

 ところで、看護は“感情労働”だとされる。感情労働とは、職務の内容として感情が大きな位置を占め、働き手自らが適切な感情状態を保ちつつ、クライエントにある特定の感情を引き出すことが要請される労働(p167)のことである。そんな感情労働である看護師の一般的な職業倫理は、「共感的であれ」というものになる。

 しかしその一方で、看護師が患者の前で自分の喜怒哀楽の感情をあらわにすることは許されない。したがって、感情を管理し手段として用いなければならない看護師の具体的な接遇マニュアルは、表情、姿勢、態度、言葉遣い、声の大きさなどに関する「演技指導マニュアル」、あるいは、「感情規則」にならざるを得ない。

 ここで、職業倫理の要請と感情規則(マニュアル)の要請との間で葛藤が生じる。つまり、マニュアル通りに演技しても、それでは患者に対して倫理的に不誠実になってしまうのだ。そこで、看護師は以下のようになる。

ユニフォームを身につける瞬間に、気持ちを切り替え、プライベートな自分とは別の人格の仮面を身につける。(中略)こうして「看護師としての自分」と「本当の自分」がますます解離していくのである。(p169)

 この解離の不健全さがよく表れている状況として「患者の死」が挙げられている。最近では病院で最期を迎える人が増えており、あるいは戦争以上というすさまじい頻度で、医療者は死に直面せざるを得ない。「そのストレスは想像を絶するものだ」という。そのような場での対応としてある病院の接遇マニュアルには以下のように書かれている。

「治療に耐え努力していた患者さんの死は、私たちスタッフにとっても大変悲しいことですが、取り乱したりせず、自分の感情をコントロールし、最後まで処置しましょう」(p173)

 感情規則と職業倫理とを混在させたかなり困難なことを要求している。どちらか片方にちょっと偏っただけでも、仕事ができない人という責めを負うか、患者の死を悲しめない人という罪悪感を感じるか、することになる。

 また、看護師についての今まで述べた問題点が表れている以下のような現状も紹介されている。

看護師の喫煙率や飲酒率の高さはつとに有名だが、そこには「本当の自分」の感覚を求める看護師の姿がある。最近になって看護師の自殺率の高さを示す大掛かりな調査結果が米国と英国で相次いで公表された。(pp174-175)

 
 さて、以上で述べたことの原因を著者は、バーンアウトの原因を共感疲労だとしていることからも推測できるように、「「共感せよ」という看護のイデオロギー」に求めている。そして、以下のようなオルタナティブを提示している。

看護に必要な感情は、そんなに大それたものではなく、ちょっとしたこと、すなわち学生たちのちょっとした「興味」や「好奇心」、「必要とされる」感覚、「必要とされることを自分が必要としている」という自覚、自分もまた「与える人」ではなく「求める人」であるという自覚なのではあるまいか。(p177)

  
 もちろん、ここで著者が描いている問題が多くの看護師にそのまま当てはまるという訳ではないのだろうが、無視し得ない一定数は事実として存在しているのだろう。これを知ったところで何をすべきか全く思いつかないが、「ケアする側のケア」が必要なのは間違いないだろう。看護をはじめとしたヒューマンサービス従事者の精神的な大変さは、その待遇に比べて過度に大きいものだという気がする。
 
 
 さて、5章が随分と長くなってしまったから、7章と10章は簡単に触れるに止めておく。

 7章「介護の町内化とエロス化を」(三好春樹)は、“自立した個人”のような近代的人間観に基づいた専門性が老人には通用しない、という介護の現場が抱える現実(p213)を、主に筆者自身の経験を基に批判する。具体的には、厚労省の進めた「特別養護老人ホームの全室個室化」や「家庭的雰囲気でのケアを売り物にするグループホーム」、あるいは、老人問題を語りたがる評論家やジャーナリストや文化人や市民主義者などをやり玉に上げる。筆者も自覚しているように、筆者が主張している方向性が全ての人にとって望ましいわけではないが、すぐに近代的人間観を基礎に据えて考えてしまいがちな自分にとっては戒めになった。
 
 
 10章「生命倫理教育の反省」(香川知晶)は、アメリカ発祥の生命倫理学の歴史を追いながら、その中のアメリカ的な「自己決定万能主義」のバイアスを暴き出している。そして、他者に危害を及ぼさない限り自由に選択・行動してよいとする「最小限倫理」に疑義を呈する。この種のアメリカン・スタンダード批判は、「アメリカ起源。だからダメ。」というイデオロギッシュなものや文化や風土を過度に強調するものが多いのだが、ここで展開されているのは、アメリカの生命倫理学が形作られる過程を冷静に追いながらその特殊性を描き出すもので、十分読めるし、勉強になる。
 
 
 
 さて、本書は各執筆者がテーマに沿って自由に書いていて、まとまりはないが、その分、様々なケアの現場や現実を知ることができる。確かに、社会“倫理”を考えるには、これら多様な現実を知らなければならない。しかし、その中でいかに共通の“倫理”を模索、構想するか、また、その端緒をどこに見出すか、に関しては、本書はいまいち成功していないように思える。(散々、多様な個別の例に触れては関心していながら言うのもどうなのかという気もするが。)

 盛山和夫、土場学、野宮大志郎、織田輝哉編著 『〈社会〉への知/現代社会学の理論と方法(上) 理論知の現在(剄草書房、2005年)
 
 
 数理社会学会の機関誌『理論と方法』の「2000年記念特集シリーズ」を基礎にして編まれた書。多くの論文は、社会学における理論および方法の観点から、いくつかの主要な領域における現時点での成果のまとめと今後の展望が述べられている。このタイプに属する論文として、具体的には、理論社会学(盛山)、古典理論の数理化(高坂)、権力理論(志田)、合理的選択理論(太郎丸)、秩序問題(織田)がある。他にも、社会性の起源(大澤)、ルーマン(佐藤)、ハーバーマス(土場)などが論じられている。なお、下巻は「経験知」についてとなっているが、上巻に下巻の目次は載っていない・・・。
 
 
 さて、素人である自分からすると、社会学という学問はどうも全体像が掴みにくい。(もちろん、勉強もせずに掴もうとするのが悪いのだが。)それは、ひとつには、方法論について依然として一つの流れにまとまっていないからではないのか、と勝手に想像している。そして、そのことは当然、「理論」のあり方にも影響してくるはずのものである。であるなら、理論と方法を扱った本書を読むことで、社会学の全体像を少しでも得られるのではないか、と思い読んでみた。

 で、その結果、(自分の中で想像している)「社会学の全体像」とおぼしきものは得られなかった。個々の方法や理論や対象が別個に論じられていて、社会学全体における横のつながりや縦の流れはあまり見られなかった。

 ちなみに、自分の社会学理解の稚拙さを披瀝するなら、ウェーバー、パーソンズ、ルーマン、ハーバーマス、ギデンズという有名人たちのそれぞれの大まかな位置付けが分かるくらいである。だがしかし、そもそも彼らが社会学全体の中で主流を占めているといって良いのかどうか、からしてよく分からない。それから、社会システム論という領域が検証可能な理論・主張であるのか、そして、もしそうでないなら社会システム論は規範理論になるのか、も昔から分からないで気になっている。
 
 
 とはいえ、本書は、個々の方法や理論ごとではその最先端の業績がよくまとまっていて、勉強になった。

 個人的には、特に、2章(古典理論の数理化)と6章(合理的選択理論)がおもしろく、かつ勉強になった。

 2章と6章は似た構成をもつ論文になっている。すなわち、数理および合理的選択理論について、その最新の業績を紹介しつつ、根強く存在するその方法論への批判者の主張を検討している。そして、擁護派と批判派との間で対立が生じる原因とその掛け橋の可能性について言及している。

 特に、対立が生じる理由が述べられ、対立する両者(例えば、デュルケーム数理社会学とデュルケーム研究)は分析の目的や関心の持ち方が違うとされ、両者は共存が可能だということが丁寧に説明されているところは、対立をいたずらに煽るようなスタンスではなくて共感が持てた。
 
 
 また、7章の「秩序問題への進化論的アプローチ」も、難しくてどこまで理解できたか怪しいが、おもしろかった。この論文で筆者(織田輝哉)は、秩序という概念を、一定の斉一性が存在するだけの「事実的秩序」と、人々が一定の倫理規範に従って行動している「規範的秩序」とに分け、後者を説明するために理念的“実在”として存在している規範を扱った一次理論(=それ自体のロジックを説明する理論?)を構築する必要があると説く。そして、そのために進化論的アプローチを導入する。なお、ここでいう進化論的アプローチとは、生物学的な淘汰の枠組みだけでなく、社会文化的な学習・模倣のプロセスをも含んでいる。この進化論的アプローチの導入は、詰まるところ、人間の心のメカニズムをも進化するものとして捉えることで、秩序の存在を説明しようとするものである。

 上で述べた数理的説明や合理的選択理論の最大の問題点は、説明に感情や規範を上手くは組み込めないことであり、その点、秩序問題というゲーム理論や数学的説明が主流となっている問題に規範という観点を持ち込む試みはとてもおもしろかった。自分の理解力では、その成功如何は判断しかねるが・・・。
 
 
 ちなみに、下巻は今のところ読まない予定。なぜなら、読むことが可能な(あるいは、読むことを選択する)程には時間がないから。
 
 
 
[この本を読んで関心を持った本] 
(新企画!実際に読むかどうかは気にしない、ただのメモ。)
・盛山和夫ほか編著『〈社会〉への知/現代社会学の理論と方法(下) 経験知
・土場学ら編『社会を“モデル”でみる :数理社会学への招待
・千葉大学文学部社会学研究室『NPOが変える!?:非営利組織の社会学』
・R.Boudon「Beyond Rational Choice Theory」
・マーティン・ジェイ編『ハーバーマスとアメリカ・フランクフルト学派

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