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 宇都宮直子 『「死」を子どもに教える(中公新書ラクレ、2005年)
 
 
 「死」を考えることから自分の、そして、他人の「生」を肯定することを一つの大きな目標とし、特に教育現場ではタブー視されてきた「死」に正面から向かい合う「デス・エデュケーション」の実践と現時点での成果を紹介している。

 内容に入る前に一つ注意しておかなければならないのは、本文中には、主張の正当化のための強引な論理や明らかな論理の破綻など、前提的、基本的なところで欠陥があることである。例えば、

制服の中学生が男児を。小学生の女児が同級の少女を。卒業生が中学教師を。息子が家族を。事件はいくらでも数えられた。
 そこに共通するのは、きわだった命の軽視である。彼らはたぶん、死にまつわる悲嘆も知らないのだろう。(p15)

 この他にも、少年による殺人事件を死のタブー視やデス・エデュケーションの欠如に求める論理がしばしば出てくるが、様々な死に直面したであろう成人による殺人事件の方が圧倒的に多い事実によって一瞬にして反証されてしまう。

 また、以下の文はトートロジーであって何も言っていない。

日本では家庭の崩壊がたびたび指摘されるが、コミュニケーションの不足がその主因だと思われる。(p69)

 しかし、家庭の崩壊とはコミュニケーション不足の状態であろうから、両者は因果関係にはなく同じことの言い換えにすぎない。

 こんな次第であるから、筆者の記述や主張に関しては幾分割り引いて考えなければならない。しかし、まだ広まり始めたばかりで、自分も知らなかったデス・エデュケーションの試みを知るという点ではそれなりに勉強になる。
 
 
 まず、個人的には、どんなことであれ教育現場においてタブー視されているものを解放して現実を教えるという方向性には大賛成である。

 学校とは社会に子どもを投げ入れる前の教育機関であり、自律や、自己決定や、選択や、学ぶ意欲や、学び方や、社会の仕組みといったものは、究極的には社会で生きていくために必要な力であるからこそ涵養しなければならないのだ。そう考えると、大人になったら直面するようになってくる現実を踏まえた教育内容が求められることになる。
 
 
 さて、デス・エデュケーションの理念に対して賛同を表明した上で、本書で紹介されている実践において気になった点をいくつか指摘しておきたい。

 一つは、人間の価値観や嗜好の多様性について。

 筆者も、現場で実践している中学教師も、死生観などは答えのある問題ではないから自分の価値観を押し付けることにならないように配慮していると述べている。しかし、例えば以下の内容は誘導にならないか。

犬の死が避けられないと獣医師から告げられた母親が、「息子の前で、「死」という言葉を使わないで」と怒る場面にふれた後、天野(中学教師)は、
 「お母さんが息子に『あの犬のことは忘れなさい。新しいものを買ってあげるから』って言ってるけど、みんなはどう思う?」
 と問い掛ける。
 何人もの手が続いて挙がった。
 「生きものを物扱いしていると思います」
 「なんでも、お金で解決しようとしている」
 天野はそれらを、いい意見だね、よく気がついたねと肯定することで、その場の関心をさらに広げてゆく。(pp30-31)

 所詮、犬は人間とは違う。死が現実であるようにこのことも現実だ。犬を物扱いする価値観はそこまで自明に否定できるものではない。

 また、政治哲学や憲法などを少しでも学べばすぐに理解できることであるが、価値観の多様性を認めるというのはそんなに簡単なことではない。例えば、「人の死を見て喜ぶ価値観」をどう扱うのか。本書ではその種の難問についての言及が全くない。

 そして、これは想像の問題ではなく、現実の問題なのである。

 つまり、人の死に悲しみを感じられない人や、人の死に快楽を覚える人の存在である。こういう人の存在を前にしては、以下のような文は空虚である。

この授業で、天野が伝えたかったのは、対象喪失の痛みである。
 (中略)
 身近な死に接し、命の有限性を思うとき、人は悲しみを知る。そして、それを共有できたとき、他者の痛みをも理解する。(pp33-34)

 そして、以上のような、価値の中立性に無頓着で、人間の多様性に無自覚である授業の結果、次のような生徒(中学で授業を受けた高校生)を生むことになる。

同じ世代にいじめや暴力、すぐにキレる少年少女が増えているのをどう思うかと尋ねたときのことだ。
 「みんなが命の大切さを知ったら、そんなことはなくなると思う。親がおなかを痛めて産んでくれた大切な命だから、無駄にはできない」(麻衣)
 「人に『死ね』ということは、命を軽視することだし、それに気がつけないのは悲しいこと」(尚史)
 (中略)
 天野は、死の授業で生徒に答えを求めない。ただ、五人が笑顔で語るもの、それは十分に答えを見せてくれている。
 最後に彼らは、異口同音に言った。
 死の授業が日本中に広がればいい。みんなが勉強して、命の大切さがわかれば、少年犯罪だってきっと減らせる。(pp50-51)

 筆者自身一つの答えを求めていたことが罪の意識なく告白されてしまったことも大問題だが、それよりも、ここを読んだとき、自分の中で一つの結論が導き出された。

 すなわち、ここで紹介されているデス・エデュケーションの実践では、自己の死および死生観を見つめることはできても、他人の考え、あるいは、人間の多様性を知ることはできない、と。

 このことは言い換えれば、もともと人を殺さないような生徒はより死についての理解や考えを深めることができるが、自分とは異なる価値観や嗜好を持つ人の存在を想像・認識できるようにはならない。そして、問題となり得る少数派の生徒は何も変わらないままである。

 しかし、このことは、筆者のように少年犯罪や自殺とデス・エデュケーションを結び付けなければ、肯定的に評価できなくもない。つまり、最初からデス・エデュケーションの目的を“普通の”子どもに死について正面から考えさせることに限定すればよいのである。

 しかしながら、「命の有限性を認識すれば命の大切さを理解できる」、「命の大切さを勉強すれば犯罪もなくなる」なんていうあまりに楽観的かつ偽善的な教育をされたら、自分の場合、死のタブー視に覚えるのと同様、ただ単に反発を覚えるだけだと思えるだけに、考えものだ。

 こういう、授業を受ける側として優等生を想定した優等生向けの教育はいい加減止めてほしいものだ。
 
 
 
 さて他の問題としては、筆者が、生徒が表面に現したそのままの言葉を信用しすぎることが挙げられる。子どものときというのは特に、自分や自分の感情を表現することが苦手であるし、過度に恥ずかしがったりする。また、教師の言ってほしい希望を察して答えたりもする。したがって、生徒の感想をそのまま、授業の評価として用いることには慎重になるべきである。そんな中でも特に不自然なのが、筆者がゲスト・ティーチャーを務めた授業を受けた生徒からの筆者宛ての手紙である。

「拝啓 先日は僕ら3Bの授業に来ていただき、ありがとうございました。横浜からくるのにお疲れかと思います。この授業では何度も泣けるシーンがあり、涙を必死でかくしていました。でも『泣いてもいいんだよ』という、その一言で心がやすらいだ気がしました。
 だれかがいなくなってしまったらどうしよう。そんなことを日々考えていけたらいいです。あたりまえの日常を大切にしたいです。でも、いつかやってくる死、ペットや家族の・・・。ペットや家族が死んでしまったときは、いっぱい泣いて、いっぱい悲しんでやります。貴重な体験をありがとうございました。敬具 前出啓太」(p34)

 
 
 さて、以上この本およびこの本で紹介されているデス・エデュケーションの実践に対する疑問点を書いてきた。しかし、それらはどれも、人間性善説のような楽観的な認識がもたらすもののように思える。(もちろんその根底には論理的思考力の欠如などがあるわけだが。)

 デス・エデュケーションの実践が実際に当てはまるかどうかは分からないが、個人的には、大人たちや社会の偽善で子どもを丸め込もうとする類いの教育は最悪だと思っている。

 とはいえ、デス・エデュケーションについて知ったばかりだけに、この分野の日本における先駆者であるとこの本でも紹介されているアルフォンス・デーケンの本には興味を引かれる。その著作は複数の賞を受賞しているようだし。
 
 
 最後に改めて言っておくが、自分は、この本を読んで初めて知ることができたデス・エデュケーションの理念や目的に大賛成している。また、ペットを物のごとく扱うことや人の死に快楽を覚えることを肯定する価値観はもっていない。



〈前のブログでのコメント〉
ありがとうございます。

さすがに教育論については他の分野にも増して筆が軽やかですね。「新しい文教族」の誕生に、日本の未来にも一縷の希望が残されていることを確信できます。
commented by Stud.◆2FSkeT6g
posted at 2005/10/13 03:45
なるほど、応用力非常に同意。いいかげんな詰め込み肯定論はどうしょうもない。そんな教育は生徒は自己の世界を広げられない。教育・学問とはそれのみで人生を豊かにしていけるという側面が全く無視されている気がします。教育は常に創造的作用であるべきだと思っています。そのためには現行制度は変えなきゃならないところだらけです。
commented by やっさん
posted at 2005/10/12 17:35
 死についての授業ですが、基本はこの本で紹介されているような方法でいいと思っています。対象喪失による感情変化の段階を教えたり、余命を宣告されている人や子供を自殺で亡くした親をゲストで呼んで話を聞いたり。ただ、目的として、「命の大切さ」を陰に陽に教えることではなく、思考力・想像力が未熟な子供たちに“様々な現実の可能性や個人個人の多様性の存在をリアリティーを伴って与える”ことで、自分の考えをひたすら相対化させることを設定したいです。本書の言葉では、死の受容への「準備教育」をメインに据えるということかもしれません。もちろん、その過程で“普通の”生徒は命の大切さを知ることにもなるでしょうが。


 教師の資質ですが、数十万人(?)いる教師全員にカリスマを求めても意味がないので、最大公約数的な点について述べます。しかし、それでも色々あります。例えば、生徒を第一に考える力、想像力、思考力、寛容など。ただ、今回は「応用力」を推したいと思います。

 学校では、勉強という点では基本的な学力を教え、身につけさせることを目的としています。であるなら、それを使った“次の段階”を示せることというのは重要だと思います。ただ、あくまで「応用」であるので、ただ単に知識が多いというのは違うように思います。基礎知識の範囲内での応用です。両者の区別は意外に難しいですが。

 ちなみに、先の死の授業は暗記ものでも答えのあるものでもないので、生徒が思いもつかないような可能性や多様性を提示することは応用力であると思います。

 応用力といっても結構抽象的ですが、重要なのは、教師がただ指導要領や教師用の教科書を見てそれを伝えるだけの事務的な作業では、教師は実質的には生徒と同じレベルにいることになりますし、生徒から見れば「教科書の詰め込み」「教科書の脳への移植」に思えてしまうことです。

 最近の学力低下を嘆く議論は、「勉強の意味」や「学力の効用」、つまり「なんで勉強しなければいけないのか」という基本的な疑問に応えようともせず、上の立場から権力を使って「とにかく勉強しろ」と叫ぶだけの情けない議論です。これは勉強や学問といったものとは、はなはだ馴染まない不合理な欺瞞です。

 こんな現状に解決の突破口を見出すために、今回は応用力を推しました。
commented by Stud.◆2FSkeT6g
posted at 2005/10/12 13:57
高度な要求するなぁ 笑。

Studさんなら死についてどんな授業する?あと漠然としてるから答えなくても大丈夫ですが教師の資質についても教えてほしい。
commented by やっさん
posted at 2005/10/12 12:36
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