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 大江健三郎 『ヒロシマ・ノート(岩波新書、1965年)
 
 
 原爆から二十年が経とうとしている広島を訪れた著者が、見聞きしたこと、考えたことについて綴ったエッセイ。

 小説家である著者の“弱い人間”への想像力や洞察力が繊細かつ鋭敏に事物を捉えている。

 その力によって見出されるのは、「真の広島」や、「まさに広島的な人間」。

 その一方で、徹底的に嫌悪されるのは、政治的意図や党派的な目的のためにヒロシマを弄ぶ人たち。

 その上で導き出されるのが、大江健三郎の二つの当為論。

 その一。「日本の新しいナショナリズムの積極的シムボル」としてのヒロシマ。

広島で人びとが体験し、いまもそれを体験しつつある、人間の悲惨、恥あるいは屈辱、あさましさ、それらすべてを、ただちに逆転して、価値あらしめるためには、そしてそれらの被爆者たちの名誉を、真に快復するためには、広島が、核兵器全廃の運動のための、もっとも本質的な思想的根幹として威力を発しなければならない。(p100)

 
 その二。一人の「正気の人間」として。

僕は原水爆被災白書の運動に参加する。そして僕は、重藤原爆病院長をはじめとする、真に広島の思想を体現する人々、決して絶望せず、しかも決して過度の希望をもたず、いかなる状況においても屈伏しないで、日々の仕事をつづけている人々、僕がもっとも正統的な原爆後の日本人とみなす人々に連帯したいと考えるのである。(p186)

 
 
 で、被爆者ではない人間に、何が言い得るか?また、何がなし得るか?

 この問いが、被爆者ではない人間を暗い気持ちにさせるとともに、この手の問題全般に対して拒否感を生じさせる。

 他にも、「こんな悲惨なことは二度と起こしてはいけません。」

 こんな単純でのん気な型どおりの“正解”が、思考することを停止させ、反発を生じさせる。

 さらには、「戦争を止めるためには仕方がなかった。」

 こんな欺瞞に満ちた弱者の言い訳が、現実から焦点をずらさせる。

 こういったことが積み重なって、ヒロシマについて考えることを非常に困難にしている。ただでさえ難しい問題であるのに。
 
 
 そんな中、一つだけ言えば、“知ること”の重要性だろう。“教える”のではなくて、あくまで“知ること”である。それから、“記憶すること”も重視したい。ただ、“記憶する”というと、何事かに活かすことが当然の前提として含意されているようにも思えるから、より正確に言えば“憶える(覚える)”ということになるかもしれない。トリヴィアルな年号や人物を暗記するより有意義なことは間違いない。
 
 
 それにしても、この手の本を拒否感なしに読めるようになったのは成長の証かもしれない。大江健三郎の視角の確かさに全面的に依るものかもしれないが。

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 バルトロメー・ド・ラス=カサス 『インディアスの破壊についての簡潔な報告(添田秀藤訳/岩波文庫、1976年)
 
 
 15~16世紀に中南米に押し入ったスペイン人征服者(コンキスタドール)の暴虐を暴露した、1542年に書かれた書。

 スペイン人無法者の残虐な行為の内容については、どの場所においても同じようなことが行われているから、一箇所だけ引用すれば十分だろう。

スペイン人たちはインディオたちを殺したり、火攻めにしたり、また、彼らに獰猛な犬をけしかけたりした。さらに、スペイン人たちはインディオたちを鉱山での採掘やそのほか数々の労働で酷使し、圧迫し、苦しめ、結局、その哀れな罪のない人びとを全員絶滅させてしまった。両島(サン・フワン島とジャマイカ島)には、かつて六〇万人以上、いな、一〇〇万人を越える人が暮らしていたであろうが、今ではそれぞれ二〇〇人ぐらいしか生き残っていない。(p39)

 その悲惨さは、全共闘学生に糾弾された丸山眞男の有名な発言である、「こんなことはナチスも急進右翼学生もしなかった」という言葉がまさにぴったり当てはまるような内容である。この征服者たちの行為は、時代が違うとはいえ、ナチスより酷いといっても言い過ぎにはならないだろう。
 
 
 スペイン人がそんなことをした理由は、金などの財貨を得るためと、キリスト教の布教のためであった。目的自体はどちらもスペイン本国の意図するところではあった。しかし、敬虔なカトリックの聖職者であり、忠誠なナショナリストでもあるラス=カサスは、実際に行われていることは国王や主キリストの了解するところでは到底ないと考え、スペイン皇太子に向けてその実態を知らせるためにこの報告を書いた。

 もちろん、そんなラス=カサスの宗教的・政治的な属性および当時の規範から生じる限界はある。それらは、例えば、キリスト教の受容とスペイン国王への従属についての独善的な正当化や、キリスト教の教えを受けていないインディオに対する姿勢や、新大陸におけるドイツ人の行為に対するスペイン人への行為に対してより一層激しい非難などに表れている。

 今から見れば、キリスト教布教の必要性を強硬に信じて疑わなかったラス=カサスも、残虐な征服者と同様に帝国主義者だということになるだろう。いわば、彼はキリスト教を信仰することでのみインディオたちは“解放”されると考えていたわけだ。キリスト教を信仰することが“解放”への唯一の道だとは全く思わない自分からすれば、半強制的な布教は、お節介であり、強要であり、侵略であり、帝国主義でしかない。そう考えると、ラス=カサスを安易に賞賛するのは慎まなければならないように思える。

 殿岡駿星 『狭山事件の真犯人(星雲社、2005年)
 
 
 冤罪を強く疑われつつも未だに何の進展も見せない1963年に起きた狭山事件について、犯人とされたままの石川一雄さん(「さん」を付けることがかなり一般化しているため、このブログでは例外的だが「さん」付けにした。)の無実を改めて証明しつつも、真犯人を明らかにしようとした、元新聞記者による推理小説風のドキュメンタリー。設定は全て事実のまま、一部に仮名を使う程度の変更で、真犯人も限りなく直接に近い間接的な方法で大胆に名指ししている。(だが、どうしても証拠はないために推理に止まるとしている。)なお、この本は1990年に書かれて出版された本の在庫切れに伴い、改めて若干の書き直しをして出されたもの。

 狭山事件は、犯人とされた石川さんが被差別部落の出身者ということもあり、その“闘争”にはかなり偏狭で過激な団体が関与していたりする。そのため、関連報道や関連文献は、かなり注意深く、疑い深く見ているが、石川さんが冤罪であることは、左翼だろうが、右翼だろうが、ノンポリ市民だろうが、誰であろうが同意するのではないかと思う。子供じみた言葉遊びをする非論理的な裁判所、未だに捜査資料を秘匿する検察・・・、司法という国の根幹にこんな汚点を抱えていては、日本を自由民主主義を基調とする近代国家だと誇ることは憚られる。
 
 
 それで、この本の推理だが、やはりこの本を読む限りは、細かいところでは違うと思いつつも、重要なトリックの解明や真犯人については当たっているのではないかと思えてしまう。ただ、これについてはあまり知識がないだけに他の本なども読まないと何とも言えない。
 
 
 また、この本では最初に狭山事件の概要が説明され、その後に記者の推理として真犯人が追求される。裏表紙に現場の地図やイラストが入れられていて読者の理解を助ける努力はされているのだが、いかんせん、繰り返しの多用など文章とその構成に難があるように思えてしまった。もちろん、丁寧な説明と緻密な推理の裏返しなのだろうが。
 
 
 しかし、石川さんの無実が分かっているだけだと思っていた狭山事件についての追究が、真犯人を推測するところまで進んでいたとは知らなかった。逆にいえば、ここまで究明が進んでいて裁判所の判断が頑固に変わらない理由は一体何なんだろうか。
 
 
 とにもかくにも、真犯人についての証拠がない今現在でも確実に言えることは、筆者が「あとがき」で書いている以下の文に上手くまとめられているように感じる。

あえて真犯人を追及するべきでない、という考え方があるのは承知しているが、しかし四十年以上も罪人として苦しめられている一人の罪なき人が耐えていることを思えば、無罪を証明するために事件の真相を求めることは決して間違っているとは思わない。雑木林内の血痕調査結果など検察が明らかにしない全証拠の開示をはじめ、事件関係者は石川さんの無実を証明するために知っていることはすべて隠すべきでないと考えるからだ。また、本書における推理に対し、不当だと思われる方は遠慮なく申し出ていただきたい。反省すべき点があれば改めて一層真相に迫るものにしたいと考える。
 日本の司法界は少しずつだが改革されつつある。国民が裁判に参加する裁判員制度の導入もその一つだろう。
 (中略)石川さんが再逮捕後の厳しい取り調べでウソの自白をさせられたことを思えば、別件逮捕、再逮捕という長期の代用監獄での拘留はえん罪の温床となっている。また、石川さんが主張しているように、二審の寺尾裁判長が自ら現地調査もしないで、十年に及ぶ再審の結果を机上の空論で判断してしまったのは許せることではない。
 裁判所は一日も早く石川さんの再審開始、全証拠の開示を決定するべきだと訴える。(pp300-301)

 パオロ・マッツァリーノ 『反社会学の不埒な研究報告(二見書房、2005年)
 
 
 知識人必読の書『反社会学講座』(イースト・プレス)の第二弾的な本。

 『反社会学講座』に比べて、おもしろさ、鋭さ、ともに3割減という印象。“笑えるけど爆笑には至れず”という感じ。過度に期待して読むと、むしろうっ憤がたまる。

 以前書いた『反社会学講座』の感想でも似たようなことは言ったような気がするけれど、“事実を突いて笑いを取る”というのがマッツァリーノのスタンス。しかも、事実を探るときに統計を使うなどまじめに行って、主張している人からするととてもまじめな言説を斬っていくから最高なのだ。したがって、近年のお笑い界でも流行のスタイルである“事実を突いて笑いを取る”という類型の中では、どの分野のどんな人をも寄せ付けない圧倒的なおもしろさを誇っている。

 というのがいかんなく発揮されていたのが『反社会学講座』であった。
 
 
 ちなみに、今回の本で一番笑ったのは、なにげに一番最初の「統計奇譚 前編・意識調査の闇」のオチだったかもしれない。
 
 
 当然だけど、本の感想というものは、基本的に本の内容を反映したものになる。

 入江昭 『歴史を学ぶということ(講談社現代新書、2005年)
 
 
 ハーヴァード大学の歴史学(アメリカ外交史、国際関係史)の教授による公私、過去・現在にわたる回顧録。自叙伝、研究の軌跡、現代の世界認識の三部からなる。入江昭の包括的な人となりが非常に簡潔にまとまっている。200ページほどの新書でこれだけの内容を書ける著者の文才には感心する。

 第一部の自叙伝では、日本生まれの純粋な日本人がいかにしてアメリカの一流大学の教授になったかという疑問にも詳しく答えてくれている。その答えは、一義的にはアメリカの大学・大学院での猛勉強によるものだが、著者のブルジョア的な家庭環境の貢献も大きいように思える。著者はこの後者の点についてやや無自覚なところがあり、読んで多少反感を持つかもしれない。ただ、それだけ率直に書いているということであり、この第一部と研究の軌跡を書いた第二部はとてもおもしろかった。そして、多分に触発された。

 第三部の現代の世界認識は、著者の「歴史認識問題なるものの根底には、現代世界をどう理解するのかという問題が存在している」(p178)というような信念に基づいている。日本から異国に渡って仕事をしている著者の姿勢は、その国その国の特殊性を強調することに反対し、異なる国家や文明の間の共通性を探そうとするものである。そして、1970年代以降のグローバリゼーションを重視し、文化交流やトランスナショナルなものや非国家アクターなどを強調する。いかにも学者らしい(ややおもしろみに欠ける)主張・認識ではある。ただ、一冊の本としてのまとまりや包括性のためにこの第三部が必要であることは理解できる。
 
 
 ただ、とにもかくにも、この本の功績は、200ページほどの新書でも公私、過去・現在についての自叙伝を書くことが可能なのを示したことだという気がする。やはり、先達たちの人生を知ることは非常におもしろいし、自分の人生の役にも立つ。それが、手軽な新書で読めるのはありがたい。今後も同様の企画が多くの人で行われることを期待したい。

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