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by ST25
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 広田照幸 『日本人のしつけは衰退したか(講談社現代新書、1999年)
 
 
 若者が問題を起こすと、事あるごとに「家庭のしつけがなっていない」とか、「昔は親がしっかりと厳しくしつけていた」とか憂える人がいる。大新聞、ニュースキャスター、政治家、教育評論家、現役カリスマ教師といった人たちだ。こういう人たちの頭の中では、「問題が起こっている現在」と「すばらしき過去」という“二次点間”での比較が行われている。しかも、そこでの「現在」というのはたった一つの事件を過度に一般化したイメージで、「過去」というのはいつどこに存在したかも分からない自分が理想化して勝手に作り上げたイメージである。

 このような惨状に対して、この本の著者は明治後期くらいから現在までのしつけの歴史を丁寧に追うことで、しつけの真の歴史を“線”で描き出す。しかも、その“線”は階級間の差や都市・農村の差などが考慮に入れられることでより立体的で骨太なものになっている。こうしてこの本で浮かび上がらされるのは、日本におけるしつけの歴史の全体像である。

 
 
 この本では主張を証明するために、各種世論調査、その時々に読まれていた教育読本、昔の親の日記などが参照されている。その量の膨大さや幅広さには驚かされる。しかし、あらゆるところから持ち出される世論調査それぞれの正確さや、取り上げられる個人の手記の選択に際しての恣意性といった問題がある可能性は否定できない。

 とはいえ、世論調査の結果というマクロな証拠と、個人の手記というミクロな証拠との両方が挙げられていて、しかも、いちいちその出典も明記されているから、著者が学者としての職業倫理を遵守していると考えて問題はなさそうである。
 
 
 さて、本書が描き出すしつけの実像を簡単に見ていこう。

 「古き良き家庭」としてイメージされることの多い戦前期の農村や都市下層の家庭では、親は両親ともに仕事にかかりきりで子供に対してはほとんど自由放任であって、しつけをすることはなく、家計を守ることが最大の関心事であった。そのため、子供に手伝わせる仕事に関する限りで子供をしつけることがあった程度であった。他方で、戦前期でも、まだ一部にすぎなかった新中間層の家庭ではしつけや受験勉強の強制を行う親が多かった。ちなみに、農村の親とは反対に、このように親がしつけや受験勉強に積極的に関与していこうとする家庭のことを著者は「教育する家族」と呼んでいる。

 戦後になり、この新中間層の家庭が善いモデルとされ、逆に地方や下層の(「古き良き」と思われることの多い)家庭は、「遅れている」とか「非民主的」とか「封建的」といった非難を浴びるようになった。このような規範の変化に、経済的な豊かさの享受が伴うことで、高度成長期頃には、「教育する家族」が主流を占めるようになった。ここで初めて、しつけをする親が主流を占めるようになったのだ。

 また、このことは家庭と学校との関係を転換することにもなった。すなわち、戦前期には、親は子供の進路などに現在のように関心を持つこともなかったし、学校は「遅れた地域社会」を改善する進歩と啓蒙のための「一歩進んだ」装置であった。しかし、戦後になって親が子供のしつけや進路の担い手となってからは、子供を「預からせていただく」学校は親に従属する立場に成り下がったのである。

 このような現在に続く「教育する家族」の問題点として、著者は、子供のしつけや進路に関する責任が過度に親に負わされてしまっていることを挙げている。
 
 
 以上が本書のかなり大雑把な内容である。

 とりあえず、「昔は~」という言説の虚妄性は明らかだ。

 それでは、社会的にしつけをどう考えていくべきか。

 余計なことを考えるべきではない、と個人的には考えている。もちろん、最低限、法を守るといったようなことは教える必要がある。ただ、これは親がどんなだろうが家族がいようがいまいが教える必要があることだから、これだけを義務教育でカバーすれば、他に他人や社会や政府がやるべきことはない。

 そして、重要なのは兎にも角にも次のことを認識することだ。すなわち、子供だろうが大人だろうが悪いことをする人はいるし、それは、高学歴だろうが低学歴だろうが、金持ちだろうが貧乏だろうが、男だろうが女だろうが、スポーツ好きだろうがオタクだろうが、関係ないということ。こうして下らない固定観念を脱したところから議論を始めないと無意味な労力を注ぎ込むだけでなく、潔白な誰かしらを傷つけることになりかねない。

 その上で次のことを広い視野と豊かな想像力によって理解する。法と道徳の分離、公と私の分離。

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 所功 『皇位継承のあり方(PHP新書、2006年)
 
 
 日本法制史学者による皇室典範、女性天皇などに関する論稿をまとめたもの。したがって、皇室典範改正論議の前提となるような基本的な知識が整理されて書かれているわけではないし、内容の重複も見られる。けれど、全体を読めば基本的なことは網羅されているように思う。

 著者は、最も若い皇位継承者が40歳という現状、ならびに、一夫一婦制の下では男子を授かる確実性は低いことを重く受け止め、女性・女系天皇容認・男子優先を主張する。

 女性・女系天皇を容認する理由としては、昭和天皇の皇太子時代の決断以来、養子は禁止されていること、一般人になった旧宮家が一般人になって60年も経過していて皇族に復帰することは社会的に受け入れがたいこと、一夫多妻制の社会的・現実的な不可能性などが挙げられている。また、皇室の歴史の検討を通しての理由も挙げられている。まず、これまで男系男子を継続してきたがその半分は一夫多妻制の下、正妻以外の妻(側室)によるものであること。それから、男子のみにこだわるのは中国由来のしきたりであって古来日本には女性をも継承者とする伝統があったこと。他にも、一般から皇族に復帰した事例はあるが、その場合一般に下っていた期間が短かったこと。8世紀初頭の「大宝令」ですでに女性天皇は認められていたこと。「中継ぎ」的ではない女性天皇もいたこと、などが挙げられている

 また、男子を優先することの理由としては、女性は出産・育児などがあるために天皇としての公務をすることには困難が伴うことを挙げている。

 女性・女系天皇に反対する人たちの主張に関しても簡単ながら触れられている。有識者会議には専門家がいないという批判に対しては、有識者会議は膨大かつ精密な資料に基づいて基本的なことからしっかりとした議論をしているのは、公表されている資料や議事録を見れば分かるとしている。見習うべき事例として民間から皇族に復帰した宇多天皇の例を挙げ、その立役者である太政大臣・藤原基経を「政治家の器量」などと褒め称えている主張に対しては、藤原基経は権勢家であって恣意的に皇室を左右しただけだと反論している。また、神武天皇の遺伝子(Y1染色体)が継続して繋がっていることが重要だとする意見に対しては、当時から一般に下った元皇族の人はかなりの数にのぼるからその遺伝子は大多数の現在の日本人も継承していると指摘している。

 それから、著者はかなり多忙・激務になる皇室の公務のあり方の見直しも提起している。
 
 
 
 この本の主な主張を列挙してきたが、次に、おかしな点をいくつか指摘する。

 まず、上にも書いたとおり、男子を優先する理由として女性の出産・育児による天皇としての公務への影響を挙げているが、一般的・平均的な皇位継承の年齢を考えれば、両者の時期は重ならない。自分の価値観や希望する結論によって歪められた貧困な想像力とひ弱な思考力。

 天皇が、一般国民と異なる別格の存在であり、そのあり方を国民と同じレベルの権利・義務から論じえないこと(p46)を「自明のこと」とし、一般国民の男女同権といった観点から天皇制を論じることはできないとしている。しかし、著者は、皇室における一夫多妻制の復活が妥当でない理由を一般国民の中の規範・ルールに求めている。したがって、天皇制と一般国民との関係の捉え方があまりに恣意的。一貫した論理的思考力に難あり。

 (昭和から平成への)改元前後から国際情勢も国内状況も激しく揺れ動き、二十一世紀を迎えても難しい問題が頻発している。それにもかかわらず、私ども日本人が必ずしも著しい不安を覚えないのは、いわゆる家族的な国民性によるものかと思われる。しかも、その奥底に“国家・国民統合の象徴”として天皇がおられ、皇室があることにより、何となく安心できるからではないかと考えられる。(p7)と大真面目に書いているが、60歳を過ぎた博士号(法学博士・慶大)まで持っている大の大人が何を言っているのか。恥を知れ。こんなの、未就学女子児童が可愛がっている猫のぬいぐるみに向かって「キティちゃんのおかげで風邪が治ったよ。キティちゃん、ありがとう。」と言っているのと変わらない。

 また、現行憲法は、第一条が天皇制であって基本的人権などより前に規定されていることを重視しているが、日本国民を侮辱する行為だ。一条より前に書かれている日本国憲法前文、および、憲法第一条をしっかり読み直せ。
 
 
 
 そんな著者ではあるが、二人の娘を持つ寛仁親王(天皇の従兄弟)が女帝容認論などについて述べた論稿についてはやや厳しく批判している。特に、皇室の一夫多妻制の復活を述べているところについては手厳しい。というか、「一夫多妻制の復活」なんて言っているなんて自分は全く知らなかった。さすがに驚いた。著者が厳しいのも理解できる。その部分を引用しよう。

「昔の様に“側室”をおくという手もあります。私は大賛成ですが」云々といわれる。しかしながら、これはたんなる“雑感”とか“ブラック・ジョーク”ですますことのできない問題発言である。(中略)その(昭和天皇の)大御心を無視して、側室復活の大賛成論を主張されるのであれば、それをまず御自身で実践してみられるべきであろう。その結果、妃殿下や二人の女王(大学生)がどんなお気持ちになられるか、申すまでもあるまい。 (pp125-126)

 個人的には、皇室がここまで国民に受け入れられている最大の理由は、別世界にいながらも皇族の人たちが見せる国民に対する低姿勢な接し方や、別世界にありながら一般国民の感覚への嗅覚・共感の強さにあると思っている。こういう視点からすると、寛仁親王の上の発言は問題である。かつて、自分が子供の頃、純粋に思った「天皇家に不良が出てきたらどうするのだろう?」という疑問を思い出した。(もちろん、子供の頃に思い描いた「不良」とはまだまだ程遠いが。)

 また、妻を気遣っていわゆる「人格否定発言」をした45歳の皇太子に対する、「(発言する前に)陛下(=父親)に相談するべきだった」というその弟の苦言なんか、普通の人が言ったとしたらただの決断のできない人になってしまう。病気がちの妻を気遣って「公務の新しいあり方」まで考える夫と親に頼る人。より多くの国民が共感するのは前者であることはほぼ事実であろう。
 
 
  
 それにしても、いずれは改正しなければならないだろう皇室典範の議論を先送りにした立法府の不作為には「またか」という諦めにも似た気持ちが湧いてくる。“政治的に”あるいは“戦略的に”議論を先送りにすることが得策だったというのは分かるが、本当に皇室のことを考えているのならもっと違った態度や行動が可能だという気がするのだが。

 それから、自分の価値観こそが日本の(さらには、天皇制の)歴史的に正統な価値観だという独善的で浅はかな考えから天皇制について語るのは、それこそ「不敬」にあたる気がするのだが。どうだろうか。

 結城康博 『医療の値段(岩波新書、2006年)
 
 
 医療の値段の仕組み、医療と政治との関わりを紹介した医療政治入門。医療の値段の決定過程から日本医師会や武見太郎や日歯連事件まで扱われる対象は幅広く、かつ興味深いけれど、いかんせんどの項目も切り込みが浅すぎて退屈。確かに、医療の値段の仕組み等についてはよく知らなかったから基本から教えてくれるのはありがたいけれど、簡単な基本だけで200ページを費やすのにはさすがに不満が残る。

 
 
 それにしても、武見日本医師会の政治的行動は今では考えられないほど凄まじい。開業医の保険診療を止めさせたり、東芝機械社長の発言に反発して東芝製品の不買運動をしたりしている。特に、前者はその影響でその月(1971年7月)の診療件数が前月の半分になるという実害も出ている。
 
 
 ところで、「あとがき」で著者は「医療政治学」という領域を設けることにも言及しているけれど、その割には政治学の業績を援用しているようには見えなかった。

 例えば、「武見太郎が影響力を行使できた理由」という重要な問いについて、政界上層部とのパイプや社会情勢を見極める力などを特に根拠もなく提示しているだけで詳細な分析は行われていない。このような問いに対する詳細な分析は、現在、開業医が日本で高収入な業種を築いていることと医師会の影響力との関係を明らかにするのにも繋がるだけに、残念である。
 
 
 そんなわけで、この領域についてより知識を深めるには、この本の参考文献に挙げられている本に当たることが必要なようだ。例えば、本屋で興味を惹かれてはいた水野肇『誰も書かなかった厚生省』『誰も書かなかった日本医師会』(草思社)は気が向いたら読んでみよう。あと、池上直己、J.キャンベル『日本の医療』(中公新書)もいいかもしれない。

 宮台真司、宮崎哲弥 『M2:思考のロバストネス(インフォバーン、2006年)
 
 
 お馴染みの「M2」コンビによる鼎談の第4弾。数少ない信頼できる日本の論客のうちの二人。今回の(特に宮台真司の)激しさ、慎みのなさはいつもの数倍という感じ。(とは言っても以前の3冊を全て読んでいるわけではないが。)

 この本の基となっている雑誌での連載が2004年9月号から2005年10月号までの期間ということで、扱われている問題は、『華氏911』、階層社会化、靖国問題、監視社会、小泉劇場など。最後には、反米保守派の小林よしのりをゲストに招いて三人で(?)沖縄問題について論じている。

 主張の大筋は大体においていつも通りのものであるように思えるが、この本では幅広い問題が論じられているから、左翼ではなくリベラリストであると自認する人なら、忘れないうちに再び著者たちの主張や思考法に触れてしっかりと自分の中に定着させることは有益だと思う。
 
 
 とはいえ、全ての主張をここで検討するわけにもいかないから、以前から気になっていた一つの点についてのみ今回は考えてみたい。

 それは、宮台真司の“民主主義社会観”についてである。(ただ、ここでは階層社会を扱うため市場経済観も付随している。)

 かねてから、宮台は市民エリートの重要性を訴えながらも基本的にはエリートと非エリートの存在を肯定的に、半ば、必然のものとして捉えている。そこでは、エリートは社会のアーキテクチャーを設計する者としての役割を負うことになり、非エリートはその受容者ということになる。このことは、階層社会化を肯定する文脈ではっきりする。まず、階層社会化肯定論の概要部分を引用する。

二極分化は悪くない。二極分化した層が同じ物差しに依拠するから疎外感を抱くの。社会には「創意工夫の必要な仕事」と「創意工夫の不要な仕事」があるよね。「役割とマニュアル」に支配された「コンビニ的アメニティ」が社会で要求される以上、「創意工夫の不要な仕事」はなくならないよ。そんな仕事にポストフォーディズム的な「創意工夫のしのぎを削る競争」は期待できないね。(中略)
 そこそこ仕事をして、あとは余暇を楽しんでもらう。そして、「創意工夫の必要な仕事」に就くべく選ばれた、誇り高き人間たちには、死ぬほど働いてもらう。 (p73)

 宮台は、そのあと、「階級社会を作るにしても、みんなで自覚的にそれを選ぶのか、それともエリートが社会設計することでみんなが無自覚なままに移行するのか?」という質問に、次のように答えている。

エリートによる設計しかないね。(中略)エリートが設計した教育で「競争し、負けたら、諦めて、リスペクトしろ」を刷り込め。繰り返すが、大事なのは、社会学でいう「地位非一貫性」。競争に勝って「創意工夫の必要な仕事」に就いた連中は、勝ったことでプレステージを得たんだから、給料は安くていい。 (pp76-77)

 このような宮台の階級社会建設論に、宮崎哲弥から二つの観点からの突っ込みが入る。一つは、経済学的な常識からのもので、創意工夫のある人間は稀少だから対価が少ないのでは成り立たないのでは?、というもの。それに対する宮台の答え。

創意工夫を餌にしてコキ使えよな。(中略)いずれにせよウィナー・テイクス・オールじゃ、社会は安定しない。 (p78)

 宮崎によるもう一つの突っ込みは、政治的・民主主義的な観点からのもの。

もうひとつの難点は、クリエイティヴな仕事って単に所得の高さに留まらず、権力が付随しがちだということ。(中略)だから富だけじゃなく、権力をも再分配しないと、この構想は完成しないのでは? (p78)

 この質問に対する宮台の答えは、最も民主的な制度は独裁性なり。オレを独裁者にしてくれえ(笑)に見られるように、冗談でお茶を濁すようなものとなっている。

 以上から、宮台が、自由市場経済と民主主義社会との二つの理念的・制度的要請との間での調整を図れていないことが明らかになっている。
 
 
 
 ここで、改めて、宮台の主張を経済(市場)と政治(民主主義)という二つの観点からまとめてみると、以下のようになる。

 経済エリート/経済非エリート(≒労働エリート/労働非エリート)は、あくまで創意工夫が必要な仕事に就けるか否かの違いでしかなく、収入面での差は大きくない。

 政治エリート/政治非エリートは、制度設計者ないしは政策決定者と制度受容者・政策受容者という実際の影響力の面での大きな差がある。

 そして、各々の関係を考えると、

 経済エリート=政治エリート
 経済非エリート=政治非エリート

 という関係を大体において想定することができるだろう。(※「経済エリート≠政治エリート」という条件については後述。)
 
 
 
 では果たして、このような条件を満たす社会は可能だろうか?あるいは、そのような社会は安定的だろうか? 

 ここでは、理論的な面と現実的な面という二方向からの批判が存在する。

 まず、理論的な面からの批判。(ちなみに、階級を単位に考えるのは、福祉国家研究や民主化研究ではお馴染みのもので、その蓄積があるものである。)

 経済エリートは、仕事の内容による自己実現だけで満足するか? あくまで、ここは自由市場経済のはずである。しかも、経済非エリートの仕事を創意工夫の不要な誰でもできる仕事だと割り切っているのである。そうであるなら、経済エリートがそれに見合った対価を求めるのはごくごく自然な欲求だろう。

 そこで経済エリートは、政治エリートとしての立場を用いて、その要求を実現するべく社会設計を行う可能性が高い。そもそも、かなりの権限を非エリートたちから白紙委任された政治エリートが、非エリートのことを考えた社会設計を行うというのはあまりに楽観的である。
(※ここで、そもそも「経済エリート=政治エリート」という条件がおかしいという主張もあり得る。しかし、「経済エリート≠政治エリート」という条件だとしても、その場合には、政治エリートに不満を持つ経済エリートが、下で述べるように、同じく政治エリートに不満を持つ政治非エリートと連携したり、政治非エリートを動員したりして、階級交差連合が作られる可能性が高まるため、政治エリートや社会の不安定性はより一層増すだけである。)

 また、政治非エリートは、その内容がどうであれ、民主主義社会であるにもかかわらず非民主的であるエリートのガバナンスに対して疑義を唱え、開放や参加を当然求めるかもしれない。そもそも、収入の面だけで政治的な判断が全て形作られるわけではない。

 さて、宮台の構想に対する理論的な批判としては、「そもそもエリートは非エリートを非強権的にコントロールすることができるのか?」という問題も重要である。ここで、「できる」と答えるならば、上で挙げた批判のいくつかは消えることになる。けれどもちろん、経済エリートの賃金要求や政治エリートの利己的行動は消えることはない。しかしながら、やはり、個人を基調とする自由と民主主義がこれほどまでに根付いた社会において、多様な価値観を調整し、圧倒的多数の非エリートを黙らせる社会設計をエリートが独断で行うことは無理だというのが現実的な認識だろう。(民主主義には人々を平等に扱い、その過程に参加させ、その結果に納得させるという機能がある。)

 さて、続けて、現実の面からの批判を行う。

 まず、投票率の低下を嘆く主張があらゆるところで叫ばれているとは言っても、依然、国政選挙では6~7割ほどの有権者が参政権を行使しているのである。そのほとんどは非エリートであることは間違いない。このことは、政治非エリートが政治エリートの非民主的な社会運営に対して抵抗する可能性の高いことを証明している。

 他にも、そもそも創意工夫の必要な仕事と不要な仕事の区別が可能か?、創意工夫の必要な仕事がどれだけあるのか?、創意工夫の必要な仕事を誇り高く行っている人がどれだけいるのか?、創意工夫の不要な仕事の非正規社員化の問題、などがある。
 
 
 
 こう見てくると、結局のところ、宮台の社会設計は、第一に、政治エリートの能力や倫理を過大に見積もりすぎており、その裏返しでもあるが、第二に、非エリートの平等な一市民としての地位や権力やそもそもの感情的側面を軽視しすぎており、第三に、経済エリートの市場における唯一の価値である財貨への欲求への過小評価、という問題点を孕んでいたことになる。

 言い換えれば、経済学的(≒市場)な常識に反し、さらに、政治学的(≒民主主義)な常識に反した主張であるにもかかわらず、その論拠が薄弱であったということだ。
 
 
 
 大衆が馬鹿であるとエリート宮台が怒りをあらわにするのと同様に、大衆は自分たちを見下すエリートに対して感情的に反発する。しかして、エリート主義の顛末は悲惨なカタストロフィなのだ。独裁という形を取るにしろ、革命という形を取るにしろ。

 大村敦志 『父と娘の法入門(岩波ジュニア新書、2005年)
 
 
 大学生向けの「法学教育」ではなく、中高生向けの「法教育」を目的として書かれた民法学者による「法入門」の書。

 この著者による『消費者法』をかつて読んだことがあり、法学者にしては珍しく教養主義的な臭いがあったのを覚えていて、そんなことのために今回、本書を手に取ってみた。

 ちなみに、結果から言うと、この著者の教養主義的志向は滞在経験のあるフランス仕込みのものであるようだ。実際、著者はフランスの市民教育の本を翻訳したりもしているとのことである。
 
 
 それで、本書の内容だが、身近なものである動物を一つの参照基準として取り上げながら、社会における法の役割や意義を父と娘の対話形式で伝えている。人の人たるゆえんから、年齢の計算法やペットの飼い方まで、一見法律とは無関係に存在していそうなものの法的な基盤の存在を明らかにしている。また、民法90条(公序良俗)、709条(不法行為による損害賠償)といった基本条文も取り入れられている。他にも、理念的な問題である障害者基本法、補助犬法、児童虐待防止法、学校教育法(11条・学生生徒等の懲戒)なども紹介されている。

 それで、果たして、中高生に社会における法の役割や意義を理解させることに成功しているか?

 「半ば成功し、半ば失敗している」というのが自分の感想だ。

 成功しているのは、法が社会のあらゆるところに関わっているのを認識させる点においてであり、成功していないのは、法が社会を存立せしめていることの重要性を理解させる点においてである、と考える。

 入門の書である本書に、法の支配を認識させることと、その重要性を理解させることの両方を課すのは酷であるかもしれない。しかし、日本人であれば誰でも、生まれたときから権利を持つことができるという意味の民法3条1項に「これはすごいこと」と感動し、「これはすごいことです。驚いて下さい」と学生たちに言うことがある(p77)という著者であればこそ、期待したいところではあった。
 
 
 しかしながら、いずれにしても、中高生に法教育を行うことには大賛成である。むしろ、行わない理由が分からない。だから、子供が法律を知ってしまったら大人たちが困るからなのかと勘ぐったりもしてしまう。

 ただ、個人的には、少なくとも高校生くらいなら、こういう本よりは民法総則の簡単な教科書の方がより効率的で良いと思ってしまうのだが、どうだろうか。中学生くらいならこれで良いという気もするが。

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