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 仲正昌樹 『日本とドイツ 二つの戦後思想」(光文社新書、2005年)

 「戦後責任」・「国のかたち(constitution)」・「マルクス主義」・「ポストモダン」という4つの問題における日本とドイツの間の戦後思想における異同を社会状況と関連付けながら論じた好著。思想と現実社会との結びつき、日本とドイツで差異が生まれた理由がよく分かる。

 最近、新たに盛り上がっている「戦争責任」の議論に関心を持って本書を読んだこともあり、特に「戦後責任」と「国のかたち」の章はとても勉強になったし、とてもおもしろかった。以下では、「戦争責任」に関係するところに絞って紹介していく。

 まず、この本の中で自分にとって「つかみ」になったのが下の文。東京裁判について筆者は、敗者を有罪にするために事後的な法で裁くのはフェアではないとしつつも、論理的にさらなる考察を進めていく。

「実力行使で勝った者の論理の押し付けとしてできた法はインチキであり、認められない」という態度を徹底していくと、現存するほとんどすべての国の国家主権と法体系は、程度の差こそあれ、もともと強い者たちによる既得権益保持のために作り出されたものであるから、「国家」の存在自体がインチキだということになってしまう。(pp22-23)

 筆者自身は、予想外の大問題が生じてしまった場合にはそこに適応すべき「法」を事後的に再構成するのは仕方がない(p24)から、それがもたらす効果を時間をかけて観察するしかないと考える。そして結果から見ると、日本とドイツに事後的に作られた「法」はポジティブに機能していると評価する。

 東京裁判についての自分の考えは筆者の考えと近い。

 平時と異常時とは分けて考える必要がある。

 まず、平常時における法の適用についてイラク攻撃を例に考える。(「自衛のための戦争」という無理なこじ付けは試みはしたが実質的に)国際法を破ったアメリカのイラク攻撃を支持する日本の保守系の人たちが、こと東京裁判に関してはそれが無効な論拠として当事の国際法を持ち出すことに違和感を感じている。イラク攻撃は国際法を破ってまで行うべき事態での行為だったとは到底思えない。

 また他方、異常時については究極的な対立の場面を想定する。リベラリズムとデモクラシーの対立というような問題に対しては、そもそも法や人権といったリベラリズム的な概念や制度は民主主義的な支持や正当性に裏付けられて初めて意味をなすものであると考えている。この見方は、究極的な場面における現実主義的な認識に基づいている。結局のところ、力を握っているものの価値観や正義が強いということだ。

 これらの観点から、残念ながら法的制度の整っていない大戦争後においては勝者の裁きは受け入れざるを得ない。

 以上のような東京裁判の議論は本書の本筋からはやや逸れる最初の導入のようなものとして触れられている。この本ではさらに踏み込んだ「戦争責任」に関する議論が日本とドイツを比較しながら紹介されている。

 両国の違いとしてはまず、「人道に対する罪」の責任を負わされたか否かの違いが挙げられている。ドイツではナチスの行為に対して「人道に対する罪」が適用され、それを前提にした国家が創設されたため、「人道に対する罪」をフィクションだと全否定することは難しかった。しかし、日本ではそれが適用されなかったために「人道に対する罪」を日本が犯したのかどうかが対外的にも国内的にも曖昧のまま戦後をスタートさせた。そのため、両国の違いを筆者は批判を承知で以下のように“分かりやすく”例える。

極めてはっきりした大悪事を犯したために周りから徹底的に追及されたせいで事の善/悪をよく理解するようになった元大悪人Aと、Aと比べるとそれほどはっきりしない中途半端な悪事を働いたため周りから中途半端に責められて、やはり中途半端な善/悪の基準しか持っていない元中悪人Bという感じになる(p35)

 次に、「国民の戦争責任」についてヤスパース(が行った議論)の存在の有無を両国の違いとして挙げる。ドイツでは哲学者ヤスパースが1946年の講演でこの問題について、現在に至るまで影響を与え続けている基本的な考え方を提示した。

「国民」という抽象的な集合体がまとまって罪を負っているかのような語り方をすれば、国民を構成する各個人がそれぞれ異なった仕方で、異なった重さで負っているはずの罪の具体的な中身がかえって曖昧なものになってしまう。各個人が、自分の罪について主体的に考えるべきだというのが、ヤスパースの議論の大前提である。(p37)

 その上で、ヤスパースは各人が負っている可能性がある罪を、①刑法上の罪、②政治上の罪、③道徳上の罪、④形而上学的な罪、の4つに分類する。そしてこれにより、法や政治の場で公式的に清算することが可能な①②の罪と、自分自身でどこまでも追及し続けるしかない③④の罪とを分けて考えることが可能になる。

 それに対し、ヤスパースを欠いていた日本では戦争責任についての細かい議論は行われず、一般国民の被害者性を強調して為政者の責任だけを追及する議論がまかり通ってしまった。そして、この一般国民=被害者という定式は外部(アジア諸国)の人たちに対する加害者性を隠避する作用をも持ったとされる。

 以上が「戦争責任」についての本書の議論の簡単な内容だ。国家の責任と個人の責任の分離なんて今聞けば当然のことのように思えるが、日本で行われ続けている議論の惨状を思い出すなら、いかに議論が深化していなかったのかが分かる。やはり、右派も左派も「過去の戦争」をその時その時の“政争の具”や“個人的なカタルシスの道具”にしていただけと思わざるを得ない。

 本書の議論を参考にして考えれば、このようになってしまったのは、その余地を与えた欧米戦勝国の、攻め込まれたアジア諸国を軽視したがための失敗であるとも言える。この点、攻め込まれたフランスやソ連が戦勝国となって戦後政策に関わったドイツとは異なる。

 このような分析を導けるのも、本書が「戦争責任」について今まで行われてきた議論とその議論が行われた理由をも解明しているからである。この種の本が、独善的になりがちな歴史に関する“議論”に実質的な“議論”をもたらしてくれることを願いたいが・・・。

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