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ジョゼフ・コンラッド 『闇の奥』 (中野好夫訳/岩波文庫、1958年)
1899年に書かれた『Heart of Darkness』の邦訳。映画「地獄の黙示録」に基本的な枠組みを提供した小説。ここに出てくる個々のセリフには映画でそのまま用いられたものもある。ストーリーは、交易会社の船乗りマーロウらが暗黒の地であるアフリカの奥地で音信を絶った象牙採取人クルツを連れ戻しに川を上流していくというもの。未開な「原始」と「文明」との複雑な関係が描かれる。
最初の方は少々退屈な気がしたが、話が進むに連れて本の中の世界に引き込まれた。フランシス・コッポラ監督がインスピレーションを得ただけのことはある。そして、思った以上に「地獄の黙示録」とかぶる箇所があるから、読み終わった後、気合いを入れて読み解こうといろいろ考えてみた。しかし、ヨーロッパ帝国主義という政治的解釈と映画に引っ張られすぎたこともあり、特にこれと言った斬新な理解は得られなかった。この小説は元々象徴的な表現や場面描写がたくさんあるから、やはり難しい。そんなわけで、一般的と思われる解釈を引用を多用しながら書いておこう。(したがって、これからこの本を読もうと思っている人は読まない方が良いかも)
この小説のモチーフはヨーロッパの帝国主義が盛んな時代における「文明」と「原始」との交わりだ。
まず小説の設定について見ると、西洋の会社や西洋人が暗黒のアフリカに乗り込んで象牙を搾取しているという状況や、そこで神のような存在になっているクルツが「母親は混血のイギリス人であり、父親も同じく混血のフランス人」で「いわばヨーロッパ全体が集って彼を作り上げていた」(p102)という設定からして、クルツ=ヨーロッパ文明を表しているようで象徴的だ。(以下で引用した文章の中で「クルツ」が主語のところに「ヨーロッパ帝国主義」を入れ替えても大抵は意味が通じる。ただ、一人の人間としてのクルツの描写であることも不変である。)
また、西洋帝国主義「文明」が未開の「原始」社会にその力を使って一方的に押し入るという状況を表現したものとしては、例えば、以下の叙述がある。
「白人が、現在到達している文明の高さから考えて、「彼等(蛮人)の眼に超自然的存在として映るのはやむをえない、――吾々はあたかも神の如き力をもって彼等に接するのである」」(pp102-103)
「(1900年前にローマ人がイギリスに初めて渡ったとき、彼等は)いわゆる植民者ではなかった。(中略)彼等は征服者だったのだ、(中略)彼等の勝利は、ただ相手の弱さから来る偶然、それだけの話にすぎないのだ。」(p12)
しかしながら、「文明」と「原始」はそんな単純な主従関係ではなかった。まず「原始」とはこんなところだった。
「そこはただ自由奔放な人間の足だけが、孤独と静寂とを越えて彷徨いこむ国なのだ、――完全な孤独、お巡りさん一人いない孤独――完全な静寂、世間の輿論とやらを囁いてくれる親切な隣人の声など、一つとして聞かれない静寂」(pp100-101)
そうして、その闇の中で「文明」(=クルツ)の側に変化が起こり、「文明」と「原始」とは複雑な関係になっていく。
「(象牙、婚約者、河など)一切が彼(クルツ)のものだった、だが、実はそんなことはなんでもないのだ。問題は、その彼の魂をしっかりつかんでいたものであり、いかにおびただしい闇の力が彼の魂を占めていたかということだった。(中略)彼はこの国の悪魔どもの間にその首座を占めたのだ」(p100)
その結果、「文明」の象徴・クルツは、庭にある杭の先に「真黒に干からびて、瞼は閉じたまま、肉はすっかり落ちつくしている」首を引っ掛けておくという野蛮なことを行うようにもなった。
それでも、クルツは「本当はすべてこうしたことを心から憎んでいた」(p117)のだ。
それにもかかわらず、狂気に走ってしまう理由として考えられるものについても書かれている。ここは重要だ。
「彼にはなにか足りないものがあった。(中略)最後にはわかっていたらしいが――それはもう文字通り最後の瞬間だった。だが、荒野はすでに早くからそれを見抜いていた、そして彼の馬鹿げた侵入に対して、恐ろしい復讐を下していたのだった。思うに荒野は、彼自身も知らなかった彼、――そうだ、それは彼自身もこの大いなる荒野の孤独と言葉を交すまでは夢想さえしなかったものだが、――その彼に関して、いろいろと絶えず耳許に囁きつづけていたのだった、――しかもこの囁きは、たちまち彼の心を魅了してしまった。」(p120)
クルツは物質的には人々を魅了し征服するだけの力をもっていたのだが、その虚空だった魂は孤独と静寂の闇の中で乱され、狂い、そして、恐怖を感じていたのだ。
「彼(クルツ)の英智はむしろ明晰をきわめていたとさえいえる――なるほど、一切の関心が恐ろしいほどの強烈さで、自我の上だけに集中されていたとはいえるが」(p137)
以上のような解釈は訳者による「あとがき」の、
「「闇の奥」は象徴的である。それは闇黒大陸の奥であったと同時に、人間性の闇の奥でもあった。」(p172)
というのと、(「あとがき」には詳細は説明されていないが)近いであろう。
そして、これらから考えるに、この小説が訴えている主題は、ヨーロッパ帝国主義の非人道性と魂の欠けた物質主義、一人の人間にとっての孤独の恐怖、の二つになるだろうか。ただ、闇の中でひたすら自己を問い詰めていった結果、恐怖に至るという理由やメカニズムは未解決のままだ。(立花隆の『解読「地獄の黙示録」』では多少触れられているが。)もちろん、他にも、上で述べた理解では説明できない、更なる考察を要する箇所はまだある。また、ベトナム戦争をこの『闇の奥』を適用して描いたコッポラ監督の意図や両者の共通点なども明らかにする必要がある。しかし、きりがないし、能力の限界を超えるからこれくらいにして、次、行ってみよう、と思う。
ちなみに、関連書籍で残っているのは、エリオット「荒地」、フレイザー『金枝篇』、『「地獄の黙示録」完全ガイド』の3つ。(3つともまだ手元にないが・・・。)
正直、既に読んだのも含めてこれら関連書籍を読んだところで映画の解釈にどれだけ役立つかは分からない。ただ、重要なのは、最善を尽くすことだ。