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 カール・マンハイム 『イデオロギーとユートピア(高橋徹、徳永恂訳/中央公論新社、2006年)
 
 
 「存在被拘束性」などで有名な知識社会学の古典が新書化されたのを機に改めて読んでみた。

 この本は〈世界の名著〉シリーズに収録されていたものを底本としている。鈴木二郎訳で未来社から刊行されていたヴァージョンだと、4000円もする上に、「英語版序文――問題の予備考察」も入っていない。それを考えると、450ページほどあるとはいえ、新書の大きさで1650円もする値段にも少しは納得できるかもしれない。が、『世界の名著56 マンハイム、オルテガ』(中央公論社)は1600円ほどであるから、やはり明らかに高い。

 
 
 さて、内容だけれど、この本は「英語版序文」以外では、3つの論文から構成されている。「イデオロギーとユートピア」、「政治学は科学として成りたちうるか」、「ユートピア的意識」の3つである。最初の論文が理論的な話で、後の二つがその理論を実際に何かに当てはめてみるという話である。マンハイムの主張は、前提を根底から疑うような内容であるから、その理論が実際に適用されたときの威力や意義が重要だと思う。したがって、以下では、「政治学は科学として成りたちうるか」という論文に絞って考えてみたい。

 ただ、その前に言っておきたいのは、この本は読みやすい訳ではあるけれどそれでも理解できないところが結構あったし、そもそもマンハイムの知識社会学が学問上どういう位置付けをなされているのかについてほとんど何も知らないということである。したがって、かなり大味の検討になるのは避けられない。
 
 
 
 では、「政治学は科学として成りたちうるか」という論文の、必要なところに関する簡単な要約から。

 まず、「政治」というものを「不合理なもの」として、「合理的なもの」である「行政」と対峙させて定義づける。

 そして、どんな人であれ「政治」に関わる認識や思想は、階級や環境などによって存在被拘束的だとする。

 だから、政治思想や政治哲学が「科学」だとは言えない。一方、実証政治学も無意識のうちに何らかのものに拘束された前提を利用していたりすることが後から暴露されることがある。また、純粋なパターンの抽出だけを行うことは可能ではあるが、それだと動的な過程である歴史や政治の本質を捉えられない。

 そこで、存在被拘束性を自覚した上で新たな「政治学」のあり方、方法を提示する。

 すなわち、「相対的で動的な“綜合”」という方法による「政治学」である。対立する立場を止揚するというこの主張はヘーゲルの考え方に近いが、最終目標を定めない点でヘーゲルとは違って「相対的」で、かつ「動的」なものである。

 そして、このような知的行為の担い手は、「近代」においては社会的に浮動するインテリが中心となる。

 以上が、簡単な要約である。
 
 
 
 いくつか、簡単に感想を。

・マンハイムが思い描く「政治学」は多分に政治思想や政治哲学である。このことは、「イデオロギー」とか「綜合」とか「本質」とか「実践」とかいう概念がキーワードになっているところから伺える。

・また、「存在被拘束性」という概念における「存在」(?)として想定されているのは多分に階級である。それは、「綜合」の担い手として社会的に浮動するインテリに期待しているところによく表れている。

・「綜合」という方法は基準や最終目標がないなら、その理論や主張の“正誤”ではなく“強弱”によって「綜合」されてしまうように思える。

・存在被拘束性という考え自体は正しいと言わざるを得ない思う。ただ、だからといって社会科学がなくていいとは思わない。であるなら、何かしら最も真っ当そうな方法を選択しなければならない。その場合に、存在被拘束性や限界を認識した上で社会科学が「科学的方法」という同一の基準を選択することに問題はない。というのも、歴史の「本質」などというものを追い求めなければ「科学」、実証学は成りたちうるから。

・知識社会学や社会科学方法論に関して、ウェーバーに比べてマンハイムの学問上の位置付けが浮いている印象をかねてから持っているのだが、果たしてどうなのだろうか?また、彼らの主張は、自然科学における「パラダイム論」のトマス・クーンらとの関係もどうなっているのだろうか?

・この『イデオロギーとユートピア』を見る限り、マンハイムはポストモダン派に位置付けられてしかるべきだと思うのだが、どうなのだろうか?

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 五十嵐武士、福井憲彦 『アメリカとフランスの革命 〈世界の歴史21〉(中央公論社、1998年)
 
 
 〈世界の歴史〉全30巻のうちの1巻。世界史の中でも特におもしろい二つの出来事を一冊で扱っているところに惹かれて、古本屋で安く売っていたところを購入。それ以来、調べ物をするのにぺらぺら見るだけだったのだが、改めて最初から読んでみた。

 というのも、少し前にシュテファン・ツワイク『ジョゼフ・フーシェ』(岩波文庫)を読んでいたのだが、フランス革命時代を描いたこの小説では、焦点を当てられている人物以外の出来事や重要人物などに関してはあまり詳しく書かれていなかったために、この小説をもっとよく理解するためにも改めて史実を知りたくなったからである。ちなみに、アメリカ独立革命の方は元々興味を持っている出来事だったから一緒に読んだ。
 
 
 それで、二人の執筆者がそれぞれを別々に書いているこの本の感想を簡単に言えば、フランスの方は分かりやすくておもしろいが、アメリカの方はつまらない。

 アメリカの方は時間を追いながら書かれているのだが、時間・歴史という“縦”の流れを感じさせない、項目ごとの箇条書き的な印象を受ける記述。しかも、国内政治・経済・国際関係などの各項目ごとの“横”の有機的な連関もなく、それぞれが同じ時代の出来事のようには感じられなかった。

 それに比べて、フランスの方はとても巧みな記述で、おもしろく読み進められる。しかも、偏った扇情的な視点ではなく、冷静で、歴史学の成果にも気を配りながら、それでいて読み物としてもおもしろく書かれている。(もちろん、自分は歴史学について全く無知だから、最新の歴史学の視点からどのような評価になるのかは分からないが。)

 より具体的な内容に関しても一つだけ言うと、フランス革命の過程で色々と派生していく各グループの関係(例えば、ジャコバン派とジロンド派と山岳派の関係とか)について、かつて習ったときには若干混乱していたのだが、この本では、この点が意識的に丁寧に説明されていてよく理解できた。
 
 
 
 ところで、この本を読みながら、自分がなぜ、アメリカ独立革命、フランス革命をおもしろく感じる一方で、明治維新にはあまりおもしろみを感じないのか考えた。その答えは、考えてみればあまりに単純なものだった。

 要は、アメリカ・フランスの革命は(その大多数ではなくともある程度の数の)「民衆」によるいわゆる「下から」の動きが重要な役割を果たしたが、明治維新は一部のエリートが起こした「上から」の革命であるという決定的な違いがあるのだ。

 言うまでもなく、「下から」のものが全て良く、「上から」のものが全て悪いわけではない。そう遠くはない歴史上に、「上から」の独裁もあれば、「下から」の独裁もあった。

 ただ、米仏の革命と明治維新とを比較しながら、日本で「下から」の肯定できるものが何かあったかと考えた。その結果、現在も存在し続けている日本国憲法は「下から」の動きの成果だと理解できると思い至った。

 現行憲法は、制定当時、多くの国民が支持したし、その後も60年に渡って常に大多数の国民の支持を得ている。

 この点、アメリカ側が草案を作ったことを以ってアメリカによる「押し付け論」を主張する人もいるが、この主張の前提とする権力観はあまりに単純であって学問的にもっと詳細な検討を要すると思われる。つまり、「アメリカといえども日本国民の多数の支持を得られない憲法は作れないから、基本的には日本国民の望む内容のものを作らざるを得なかった」という仮説を立てることができるのだ。

 「押し付け論」が前提とする単純な権力観から、「やはりアメリカの方が強かったから日本国民はどんな憲法であっても反対できなかった」のか、それとも、「アメリカといえども多くの日本国民が反発するような憲法は作れなかった」のか、どちらが正しいかは学問的な検討が必要であって、簡単に判断すべき(できる)ものではない。ただ、結果だけから見ると、アメリカ側が出してきた草案が当時の多数の日本国民が支持する内容のものであったのは事実である。

 この事実を重んじて、現行憲法には日本国民の間接的な影響力が及んでいると考え、これに60年に及ぶ現行憲法への支持(≒不改正)を併せて考えるなら、日本国憲法を日本における「下から」の動きの成果として捉えることは可能なのではないだろうか。

 巷の評論家や政治家はともかく、このような主張・研究をしている学者はいるのだろうか。

 元の本の話から離れてしまったが、こんなことに思いを馳せた。

 牧原出 『内閣政治と「大蔵省支配」(中公叢書、2003年)
 
 
 1952年から1962年までの大蔵省、与党、内閣を中心とした政策過程を詳細に追うことで、「官房型官僚」という概念を導出している。

 「官房型官僚」とは「原局型官僚」と対置される概念で、「原局型」が政策対象とする業界を保護育成する志向性を有するのに対して、一省庁にとらわれずマクロ経済への志向性を有する。ちなみに、「原局型」の代表例としては大蔵省の「主計局」のほか、農水省の「農政派」や通産省における「民族派」が挙げられる。これら原局は一般にその省庁の利益を代表すると目され、実際エリート官僚のキャリアにおいて本流を占めてきた。

 しかし、著者が焦点を当てた1952年から1962年の(少なくとも)大蔵省においては、他組織への出向や省内外の調整などによってマクロ経済への視野を持った「官房型官僚」が、大蔵省内外において影響力を発揮した事例が複数見出される。例えば、1954年度予算の編成過程において、従来の主計局主導の積み上げ型予算編成とは異なり、予算に「1兆円の枠」を予め課すことができたのはマクロ経済への関心を持った「官房型官僚」の働きかけの成果であったとされる。

 とはいえ、当時の政策過程において「官房型官僚」が単独で力を行使し得たわけではなく、内閣や与党や有力政治家との協調や対立の過程における一つの主要なアクターとして「官房型官僚」は描かれている。

 そうして、そのようなあらゆるアクター間の相克の過程を経た1962年における所得倍増計画の策定は、1950年代の政策過程の集大成だとされる。すなわち、大蔵省官房調査課のグループによる中核的アイディアの創出、経済企画庁の強化、与党政調会を強化する「政策先議」などが作用しあって所得倍増計画は作られた。

 しかし、50年代に主役を務めた「官房型官僚」は、60年代に入ると原局の調査能力の向上などにより力を失っていったとされる。

 こうした分析を経て著者は、近年よく語られる「政治主導」について、「党政調会‐原局型官僚」という提携関係に加えて、「内閣‐官房型官僚」という提携関係も並び立ち、相互に緊張関係にあることが必要だと指摘している。
 
 
 
 1950年代に現在の主流派官僚とは別種の官僚が主導していたという事実が政治学においてどのように意義付けられるのかは全く預かり知らないことではあるが、「官房型官僚」という新しい概念の導出に留まらず、それが「原局型官僚」を押しのけて主導していた時期があったということを知ることができたのは非常に新鮮だった。

 著者も書いているように、政治主導や内閣の機能の強化などを目指した行政改革のために1996年に設置された行革事務局が、各省庁の官僚(優秀な若手だとされる)を集めて組織されたというのは興味深い。なぜなら、この組織へ出向した官僚がこの経験により出身省庁の枠を超えた政策構想を持ちうるようになるとしたら、これこそがこの組織が目的とした内閣の強化に繋がるからである。このような認識も、本書が示した過去の実例を知ることによってこそ可能になると言えるかもしれない。

 ただ、一つ気になるのは、内容の要約の最後に出てきたように、著者は三権分立の理念に厳密に則って内閣と与党を緊張関係にあるものとして捉えていることである。しかし、現在、特に民主党などが目指しているのは、選挙公約の責任ある実施という観点からの内閣と与党との融合の方向である。この場合、現局型・官房型という二つの官僚は内閣・与党とどのような関係を取り結ぶのか、興味深いところである。
 
 
 ところで、この本(初版)は誤植が多すぎる。帯からしてすでに2箇所も誤りがある。間違いなく、自分が今まで読んだ本の中で最も多い。あまりの多さに、誤植によって意味が逆になっているところがあるのではないかと不安になるくらいだ。ここまで酷いと「乱丁・落丁」に入るのではないかとさえ思う。厳重に抗議したい。

 鈴木基史 『社会科学の理論とモデル2・国際関係(東京大学出版会、2000年)
 
 
 国際関係論の教科書。国際関係におけるリアリズムとリベラリズムの諸理論を提示し、それぞれを数理やゲーム理論で証明し、簡単に事例を適用するという構成。したがって、リアリズムはきれいに説明されているけれど、リベラリズムの理論や概念は総じて弱いように見えてしまう。とはいえ、著者は方法論的に一貫した基準から誠実にリベラリズム理論も検討しているから一方的な印象は受けない。また、数理やゲーム理論の部分はそれほど難しくはないから、全てとは行かないまでもある程度は理解できた。

 この本を読み通すと、数理やゲーム理論を用いた抽象的なモデルも色々な工夫が凝らされて精緻化されているのがよく分かる。直感的に思い浮かべることができるレベルを大きく超えている。ただ、戦争や同盟など国際関係の分析対象は事例が少ないだけに、実際の国際関係の動きに即した後づけのような印象を受けた。もちろん、それぞれのモデルは一般性のあるものなのだろうけれど、説明し得ない重要な事例が出てくるたびごとに新たな通説(モデル)が誕生していくのではないかという気がしてしまう。まだ、発展途上の分野なのだろうけれど。
 
 
 それで、学問的な成果を参考にしつつ学問的営為とは離れて考えるに、国際政治においては“普通に行けば”リアリズム的な世界にどんどん進んでいく。それはこの本が十分なほどに証明してくれている。しかし、それだけに政治家やリーダーの特殊な逸脱的な行動の意味は大きいと言える。リアリズムへと向かう必然性を覆す行動を行えばヒーローとなるだろう。ただ、その行動が必ずしもリベラリズム的なものであるとは限らない。端的な例が小泉首相の靖国参拝である。極端な例は独裁者の暴発ということになるだろう。

 こう考えてくると、リアリズム的なものから逸脱し、かつリベラリズム的なものを実現したリーダー・政治家の“非常識さ”は相当なものだと感嘆せずにはいられない。

 斎藤純一 『〈思考のフロンティア〉 自由(岩波書店、2005年)
 
 
 「自由」に関わる論点を網羅的かつ非常に分かりやすく整理しながら、著者自身の主張も押し付けがましくならずに述べられている本。この分野のことは断片的にしか知らないだけに、とても勉強になった。

 それで、どのように「自由」に関する議論が整理されているかというと、まず初めに、「自由への脅威」(=「自由の敵」)という観点からホッブズやロックなどの最もポピュラーな論者たちの議論が整理される。具体的には、自由への脅威として、他者、国家、社会、市場、共同体が挙げられている。ちなみに、著者は、最近の社会状況は「他者」を自由への脅威と考えたホッブズの議論がよく当てはまると考えている。

 それから、次に、「干渉の不在」と定義されるアイザイア・バーリンの「消極的自由」の概念を引照基準として、自由について様々な観点から検討を加えている。「自由の質」や「形式的自由と実質的自由」などについてである。

 そうして、それまでの検討を踏まえて自由の再定義が導き出されている。

 その後は、「自由の規律」、「自由と安全」、「自由と公共性」といった現実の社会状況も意識した論点が検討されている。これらを通して主張されるのは、自由は排他的に個人の主権だけに帰属するものではなく人々の〈間〉でこそ初めて成り立つものであること、そして、他者への関心の希薄化の問題である。
 
 
 全体の流れを簡単に見てきたが、著者は、最後の主張――強固で不変な自己を想定した自己決定至上主義とその帰結としての私生活主義への批判――にも表れているように、〈間〉や他者や社会といったものの「自由」にとっての意義にかなりの注意を払っている。

 これは、「立憲主義と民主主義」、「自由と民主主義」との間の緊張関係における「民主主義的側面」の強調だと理解できると思う。本文中には他にも、「共約可能な自由」(=「善」と区別されるところの「正義」)の定義を決める際の討議的方法の擁護や、「Deliberation Day」(市民間の討議のための選挙前の祝日)への肯定的評価といったところに、その民主主義的側面の強調を読み取れる。

 そんなわけで、この本は、「自由」について論じながら(論じるからこそ?)、「デモクラシー」の意義を訴えている本だとも言うことができると思う。
 
 
 この本のように、議論を整理している教科書的な本は、どうしても「そういうものか」と無批判にその内容を受け入れがちになってしまうから、なかなか批判は見つからない。ただ、強いて言えば、「格差社会やセキュリティへの関心といった問題に対する著者の認識がどこまで実証的な証拠に基づくものであるのか?」という点が挙げられる。もちろん、いちいちその証拠に触れていては、この本の目的や意義から逸脱してしまうが。

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