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 川上和久『2大政党制は何をもたらすか(ソフトバンク新書、2006年)
 
 
 「2大政党制になると日本の政治はどうなるか?」について、ごくごく簡単に解説している本。

 真っ当な説明5割、怪しげな俗説5割といったところ。

 内容、難易度ともに新聞の解説欄みたいな感じ。

 
 
 それにしても、なんで「政治心理学」の専門家が「政党制」について書いているのか?

 巻末の構成・原稿:蔭山敬吾、佐々木とく子という表記は何を意味しているのか?
 
 
 それはさておき、

どの党に投票するかといった判断を下すとき、私たち有権者は何を判断材料にすればいいのだろうか? それは、やはり新聞なのだ。(中略)新聞を読んでいると、その場限りの風に流されることが少なくなるのだ。 (p206)

 という発言はいかがなものか?

 『情報操作のトリック』なんていうタイトルの本を書いている著者に進言するのは甚だ僭越だが、とりあえず東谷暁『日本経済新聞は信用できるか』でも読まれるべきではないだろうか。

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 Stephen Van Evera. Guide to Methods for Students of Political Science. Cornell University Press, 1997.
 
 
 ちょっと前に、政治学者による微妙な本にいくつか当たり、政治学の方法論に興味を持った。そんなわけで、安くて薄いこの本を読んでみる。

 この本では、経済学などでお馴染みの計量と数理は扱わず、社会科学の方法論として外延に当たると思われる事例分析に焦点を絞っている。

 そして、方法・手続きさえ守られれば、事例分析も科学的な方法論として欠かすことのできない存在だという立場を採っている。

 その上で、事例分析のやり方、注意点を説明している。

 読んでみて、やっぱり政治学にも方法論に関するルールがあることを確認した。
 
 
 
 ところで、この本を読んでいて、新聞などがよく書く事例入りの記事・特集の問題点について得心した。(※全ての問題点に当てはまるものではない)

 もちろん、新聞などが研究とは違うということは認識している。

 けれど、読み手にとって、両者が共に事実認識の問題であるという点では同じであって、学問的な事例分析のルールを知っておくことは、新聞が取り上げる事例を理解・吸収する際に注意すべきことを知るのに役立ちそうである。

 それで、両者の違い。

 要は、その取り上げている事例をどういう風に位置付けるかの方法の違いである。

 学問では、事例は、理論的な思考によって導き出される予測・仮説の中に位置付けられる。

 対して新聞などでは、事例は、書き手のイメージによる勝手な想像の中に位置付けられる。

 学問的な事例分析の例として分かりやすいのは経済学の研究である。

 例えば、規制緩和による市場メカニズムの導入によってサービスや料金が向上するという(例の曲線とか、インセンティブという観点からの)理論的な予測から、アメリカの航空業界における規制緩和の(予測どおり成功した)事例が説明される。(伊藤隆敏の研究)

 一方、新聞などが(非学問的に)事例を扱う典型的な例としては「トンデモ」系の話が最適だ。

 まず、記者の頭の中に、「テレビゲームをやると現実世界に適応できなくなる」という「理論」がある。その上で、テレビゲーム好きな若者が事件を起こしたと聞くと、「理論」を証明する事例だと考えて記事を書くのである。

 しかし、もちろん、「テレビゲームをやると現実世界に適応できなくなる」といういかにも短絡的な「理論」は、証明されていないどころか科学的にも否定されている代物である。
 
 
 もちろん、理論などなくても個別の事例の原因を虚心坦懐に探っていくのなら、それは有意義な記事になる。

 だけど、そんな学問的な記事を記者に書けるとも思えないし、実際に書いているのもほとんど見かけない。そもそも、マスコミの人間は、そういう「細かい話」は学者の仕事であって自分たちのすることではないと自任している。(※虚心坦懐に事実を探っている数少ない例外として、思想に関係なく評価されている読売新聞の「検証・戦争責任」がある。ただ、これが、マスコミらしくない学問的な実践であるというのはマスコミにとっては皮肉である。)
 
 
 そんなわけで、得てして新聞などで取り上げられている事例というのは、感情に訴えて自分たちの主張に共感させようという扇情的で危険な目くらましに過ぎない、と思うのだ。

 首藤信彦『政治参加で未来をまもろう(岩波ジュニア新書、2006年)
 
 
 内容はタイトルから想像してもらうとして、ここでは著者について。
 
 
 著者は、“うざいオヤジ”の見本のような人。

 自分の経験は全て美化して正当化する。

 自分の経験から一般的結論を引き出す。

 カノジョのことをガールフレンドと言う。

 なんでもかんでも大人対若者という善悪二元論でものを見る。

 やたらと昔の日本の話、外国(欧米)の話を持ち出す。

 とりあえず民主主義万歳、政治参加万歳。
 
 
 そんな著者は、衆院議員を2期務めた61歳。

 あなたのようなオッサンの存在が、若者の政治参加を、一部で促し、多くで抑制するのだ。
 
 
 
 ※自分は、エリート主義者でも独裁主義者でもなく、共和主義、民主主義を溺愛している。詳しくは共和主義関係の本の感想参照。

 レジス・ドゥブレ、樋口陽一、三浦信孝、水林章『思想としての〈共和国〉(みすず書房、2006年)
 
 
 現代のフランスを考えるなら「無関心ではいられない」(by三浦信孝)思想家ドゥブレの1989年の論文「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」を中心に、ドゥブレと三浦信孝との討論、水林章の二つの講演、樋口・三浦・水林による鼎談を収めたもの。ドゥブレ論文を筆頭に、全体が挑発的で刺激に満ちた内容。

 やっぱり、共和主義、魅力的。(ドゥブレの描く共和主義はさすがに極端すぎるけど。)

 ドゥブレの論文は、フランスの共和主義とアメリカの「デモクラシー」(の理念)を大胆に対比させ、劣勢な共和主義を擁護したもの。

 ただ、「デモクラシー」というドゥブレの用語法は、鼎談などでも指摘されているように、「市場自由主義」とか「リベラル・デモクラシー」とかいう概念の方が一般的。自分は「(ロールズ的な)リベラリズム」に置き換えながら読んだ。

 ドゥブレが言う共和主義は、ルソー的で、理性、普遍性、市民、社会契約(意思)、国家(ステート)、(宗教などから一旦解放して自律的市民をつくる)学校、ライシテ(非宗教性。※宗教は私的なもので公的な場に持ち込んではならない)といったものを重視する。

われわれ(共和主義者)は、神を支配の座から引きずり下ろし、社会が信者の服従と消費者の欲望ではなく、市民の自律性のうえに成り立つようにした (p27)

 他方、「デモクラシー」は、トクヴィル的で、利己心、ローカルなコミュニティ、経済・社会、消費者・生産者、国家からの自由、教会といったものを重視する。

 この両者の違いはしばしば論争を引き起こす。

 その一つが、公立小学校にスカーフを巻いてきたイスラム教徒の女子児童を教室に入れなかったイスラム・スカーフ事件である。(この「政教分離観」の違いに関しては、小田中直樹『フランス7つの謎』の感想で引用した部分に書かれている)

 また、共和主義は多文化主義を認めないため、移民政策において「同化主義」と批判されたりする。
 
 
 ドゥブレが提示した共和主義と「デモクラシー」との対比は、実に多くの問題に関係しているように思える。

 ただ、個人的な興味から一つに絞れば、やはり「ライシテ」、政教分離といった政治と宗教の関係の問題になる。

 日本でもこの手の問題が憲法上の論点になったことはある。エホバの証人の信者による輸血拒否問題、宗教上の理由から学校の授業の柔道だか剣道だかを拒んだ問題などである。

 けれど、日本では、(特にマスコミ、世論レベルでは)ほとんど異論なく、アメリカ的な政教分離観=多文化主義が圧倒的な主流を占めている。

 しかし、少し考えれば分かるとおり、宗教というものは、日本だけで最大1億2千万通り存在しうるものである。しかも、その内容を各個人(=教祖)が決められるのである。

 となると、無思考かつ安易に多文化主義を受け入れているだけでは、例えば、公立学校の場において「宗教上の理由から」を連発されたら対応に困ることになるのが目に見えている。(※実際、オウムをはじめとするカルト的新興宗教の“合法的”活動に対する批判が、異質なものに対するただの嫌悪感や恐怖感に過ぎないという危険な状態が続いているのは象徴的。)

 もちろん、法律学では、「社会通念上許される範囲」云々というような表現で対処するのだろうけれど、信教の自由という重要と思われている権利を制限するには心許なさ過ぎる。

 共和主義は、こういった問題に一つの回答を提示している。
 
 
 では、この政治と宗教という問題を自分の好きなリベラルな三人の哲学者、ロールズ、ハーバーマス、センはどう考えているのか?

 目にした限りでは、ロールズは、宗教を「包括的ドクトリン」とし、「公共的理性」が生み出す「正義の政治的構想」の下位に位置付けている。

 ハーバーマスは、具体的に言及しているところは知らないけれど、「討議理性」を重視したわけだから、宗教に対する理性の優位を考えていると想像できる。

 センは、イスラム原理主義者がテロなどの過激で暴力的な信条を持つのにイスラムの神学校が重要な役割を果たしていることを指摘し、非宗教的で理性的な学校が重要だと言っている。

 こう見ると、ロールズ、ハーバーマス、センの三人は、ドゥブレほど極端ではないけれど、(政治と宗教の関係に関して)究極的には共和主義を採用していると言うことができる。(※ちなみに、主にネオコンを論じる文脈で多文化主義を排し、文化的多元主義を擁護している宮台真司も同じである。)

 さらに言えば、この三人の哲学者は、理性を重視する時点で、消費者・生産者としての自己利益(を目指す人間観)を重視するリベラリズム/リバタリアリズムではなく、宗教以外のところでも「共和主義者である」と言ってもそれほど外れていないように思える。(もちろん、その理性の担い手に関して、ロールズや宮台は一部のエリートのような存在を想定しているが。)
 
 
 もちろん、ドゥブレのような極端な共和主義である必要はなく、可能な限り多文化主義的・リベラリズム的な要素を取り入れるべきだが、「究極的には共和主義」というのが、現代の主流派リベラル・デモクラシーの哲学者と同様に、望ましいと思う。

 読売新聞政治部『自民党を壊した男――小泉政権一五〇〇日の真実(新潮社、2005年)
 
 
 2004年1月から2005年1月まで読売新聞に連載された「政治の現場」に加筆・改題したもの。まとめて読むとおもしろさが増す。

 この本は、タイトルから想像されるような小泉首相に焦点を当てた本ではなく、扱われているのは、「自公融合」、「民主党」、「2004年参院選」、「新政策決定」など、小泉政権下の日本政治全般。

 小泉政権下の日本政治を象徴するような場面や出来事がほとんど全て(と思えるくらい)網羅されているから、この期間の日本政治の特徴を知りたければこの本一冊読めば足りる、というような本になっている。

 しかも、特徴的・象徴的な場面・出来事ばかり集めているから、読み物としてもおもしろい。マスコミの悪い癖である、自分たちの浅はかな主張を押し出すこともほとんどしていないし。

 珍しく、読売新聞政治部、グッド・ジョブ!
 
 
 具体的な内容ではおもしろい指摘・事実がたくさんあって、特に一つを取り上げて掘り下げたりはしないけど、一つ気になったことが。

 「第1章 自公融合」のところで、公明党の政権(※選挙ではなく政策)への影響力が強いという論調で書かれているけれど、本当なのだろうか?

 確かに、教育基本法の愛国心の規定みたいに個別の論点で見れば影響力を発揮していることはあるけれど、公明党の連立政権維持(=自民党)にとっての重要性からしたら見返りが少なく、影が薄いように思えるのだ。

 なんせ、イラクへの自衛隊派遣にしても、財界・金持ち優遇/低中所得層不遇政策にしても、公明党にとって肝心のところで自らの理念に反する行動を強いられているように思えるから。

 ただ、公明党が目指す(理念ではなく)“政策”というのが、地域振興券とか児童手当拡充とか、分かりやすいものばかりだから、自民党と深刻な対立にならないだけかもしれない。

 ちなみに、自民党が「公明党と離れて民主党と組む」という“脅し”をかけるみたいだが、さすがに、この“脅し”は(憲法改正問題以外では)“こけ脅し”に過ぎないだろう。

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