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 人生いろいろ。

 人生楽ありゃ苦もあるさ。

 らしいが、こんな日もある。
 
 
 
 人はそれを「二・一六事件」と呼ぶ。
 

 
 ☆ 9時1分

 塙花澄さんのブログにて、「アイドルブログ・ランキング[2006年12月版]」を、取り上げていただきました

 公演中にもかかわらず、本当にありがとうございます。

 毎回2位で変わりばえはしませんが、安定して高得点を取ることは他のアイドルブログを見れば分かるとおり、かなり難しいことです。
 
 
 ☆ 23時59分

 塙花澄さんのブログに、自分の手が写ってます!

 逆キツネピースをしています。

 手と袖だけが写っています。

 チラリズム万歳。

 ちなみに、普通じゃつまらないと思ってとっさに出たのが、この逆キツネピース。懐かしのエッグポーズを意識したとかしないとか。
 
 
 ☆ 0時55分

 塙花澄さんのブログに、こんなものが載ってます。

 安もので、肩身が狭いですが・・・。

 とはいえ、冗談を拾っていただけて本当に良かった。
 
 
 ☆ 1時3分

 塙花澄さんのブログに、こんなところが載ってます。

 テクティなヲトメ(笑)が、さらにテクティなヲトメになる(笑)のに貢献できて、感無量です。
 
 
 
 こんな一日。

 まさに、充日(じゅーじつ)。
 
 
 ※ 肝心の舞台の感想は時を改めて書きます。

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 野田秀樹 「ロープ (『新潮』2007年1月号、所収)
 
 
 去年の12月から今年の1月にかけて野田秀樹率いるNODA・MAPが上演していた戯曲で、雑誌『新潮』(2007年1月号)に掲載されたもの。

 野田秀樹は、自分が応援している役者である森幸子が(確か)「一番好き」と言っているのを聞いて、初めて知り、調べてみたら、自分が好きなテイストの作品を創る人だったために興味を持った。

 どんなテイストかというと、時事問題、社会問題を題材に用いながらもそれをユニークに加工することで表現は隠喩的、硬さも主張を押しつける感じもなく、むしろ、ストーリーや台詞には「笑い」「軽さ」「速さ」「カオス、アンビバレンス」がある。まさに、エンターテインメントでありながら文学的要素をも持ち合わせたnot娯楽but芸術作品である。

 そんなわけで、この「ロープ」は絶対に観に行こうと思っていたのだけど、チケットの一般発売の日にまさかの寝坊。

 ヤフオクで転売目的な余計な仲介人から不当につり上げられた値段で買うのは嫌だから、公演が終わるまでひとまず忘れることにして、公演が終わってからこの戯曲を読んだ次第。

 だから、舞台は観てない。涙

 内容に関する感想はまた別に書くつもり(未定)だから、ここでは周辺的なことをいくつか書いていく。
 
 
 まず、読んだ後、とりあえず観劇した人の感想を読もうとネットで検索してみた。

 最初に「ロープ 野田秀樹」でヤフーのブログ検索をしたら649件がヒット。

 そこで、キーワードを追加することにした。

 追加したのは「イラク」。

 この戯曲は、後半でベトナム戦争の描写が“明示的に”出てくるのだけど、前半は“暗に”イラク戦争を意識した内容になっている。

 そして、この戯曲の一番の主題・題材はイラク戦争といっても過言ではない。 (「9.11→アフガン戦争」と言えないこともない。「湾岸戦争」は△。)

 そんなわけで、「ロープ 野田秀樹 イラク」で再度ブログ検索を行ったら、なんと一気に28件に絞られた。 (ちなみに、「イラク」の代わりに「ベトナム」を入れると141件がヒットする。)

 もちろん、「イラク」というキーワードを入れている人すべてが適切に言葉を使っているとは限らないし、その逆もあり得る。けれど、それにしても、「イラク」を入れると95%がはじかれるっていうのはなんとも・・・。
 
 
 そして、このこととも関連するけど、いろいろな人の感想を読んでいて驚いたのは、野田秀樹の作品を「社会派ではない」と認識している人の多いこと。(※ここでの「社会派」とは、社会問題に関する主張を前面に出すというのとは違って、社会問題を扱っているという広い意味でのこと。)

 野田作品は、『20世紀最後の戯曲集』と『ユリイカ (33巻7号、2001年6月)』(の野田秀樹特集)を読んだだけだけど、むしろ社会派ではない作品の方こそ見当たらなかった。

 確かに、エンターテインメントとしても楽しめることは間違いないけど、それでは作品の半分かそれ以下、あるいは作品の表面、を楽しんでいるに過ぎない。

 立花隆が映画『地獄の黙示録』のアクション(戦闘)シーンだけを楽しむ見方を評して言った、 「ドストエフスキーの『罪と罰』なんて犯罪スリラーだよ」というのと同レベルのものの見方でしかない (『解読「地獄の黙示録」』、p12)という言葉がここにも当てはまる。
 
 
 さて、一つだけ内容に踏み込んだことを書こうと思う。

 それは、この戯曲の後半に出てくるベトナム戦争で実際にあった惨劇についての生々しい「実況」について。

 最初読んだとき(といってもまだ通しでは1回しか読んでいない)、ここのところについて、イラク戦争をプロレスに擬した前半部やこれまでの他の作品のような隠喩・戯画化を用いておらず、事実を生のまま用いていることに違和感を持った。同じことは、演出家・脚本家の鈴木厚人の感想にも見られる。

 けれど、この生々しい描写はこの戯曲においては(ある程度は)必然であるとも言えるのである。

 つまり、前半部における、プロレスのリング上と客席との間にある隔絶、覆面による人間の抽象化といった戦争や惨劇に対するリアリティの欠如(とそれによる人間の凶暴化)に対するアンチとして、あえて具体的な生々しい描写を盛り込んだということである。

 そして、特に野田作品をエンターテインメントとしか見れない観客に対してはそれなりの効果があったのではないかと思える。

 ただ、それでもやはり野田秀樹なら、その生々しい現実をも、ベトナム戦争という事実を(安易に)使うのではなく、隠喩や戯画化を用いて表現して欲しかったという気持ちは残る。
 
 
 今更ながら参考に、内容について知りたければ、ジャーナリスト・江川紹子による観劇感想がけっこう詳しい。
 
 
 そして、最後に、野田秀樹が「ロープ」のパンフレットに書いた文章を、自分が上で書いてきたことが正しいということの証拠して一部引用しておく。(※ネット上のあちこちで引用されていたものの再引用。)

どのくらい昔からだろう、演劇の稽古場には必ずと言っていいほど、プロレスのことを熱く語る役者の一群がいた。はっきり言って、私は、そういう役者たちを煙たく思っていた。ただジャズが好き、映画が好き、渡辺えり子が好きというのと違って、プロレスを好きな役者達には、煙から出るススみたいのがついていた。「プロレスを熱く語る自分」に熱くなっている時に、出てくるススである。
 (中略)
 「何かをとてつもなく愛している自分」を愛しています。とおおっぴらにいっているようなスス加減なのである。
 (中略)
 私は、その自分との距離感のなさが嫌いである。さらに私は、自分との距離ばかりでなく、家族とか故郷とか国家との距離感のない人間も嫌いである。
 家族や故郷や国家が嫌いなのではない。距離感のないことが嫌いなのだ。
 9・11の事件が起きた時、当事者以外は誰もがテレビの前で「映画みたいだ」と思ったに違いない。そして今年、すでにハリウッドは、その「映画に見えた」事件を映画にした。何というリアリティーに対する距離感のなさ。何というリアリティーへの冒涜であろう。
 普段、創作と想像の現場にいる私は、いつもこのリアリティーとの距離感を図っている。だが、その創作と想像の渦中に巻き込まれると、わからなくなってしまうことがある。
 かく言う私も、四年前、日本でおこなわれたサッカーワールドカップの開幕戦、日本ーベルギー戦をそのスタジアムで見た。さすがに青いユニフォームは着なかったが、日本のゴールの瞬間に、後ろの席の見知らぬ人に抱きついて、興奮していた。悪いことではない。誰もがそう思う。が、同時に、この距離感を失った熱狂というのは、厄介なものである。
 私は、この芝居で『距離感のない熱狂の中で、繰り広げられる暴力』を描いた。だが、そのことを本当に距離感を持って描くことができたか。それを判断できるのは、いつもリングサイドにいる醒めた第三者だけである。

 

 佐和隆光 『この国の未来へ――持続可能で「豊か」な社会 (ちくま新書、2007年)
 
 
 確かに佐和隆光は主流派経済学を語る人ではなかったけれど、それにしても、ここまで「暴走」する人だったかなぁとちょっと驚いた。

 「地球環境問題をめぐる、一般読者向け著作」らしいんだけど、前半は、現代社会について語ったり、日本型経営システムについて語ったり、教育について語ったりと、なんともまとまりのない印象。

 で、後半では(なぜか)地球環境問題に話が収斂している。

 前半部はなくても良かった。というかむしろ、ない方が良かった。
 
 
 「暴走」が特に酷いのが第1章。

 それで、その最たるものだと自分が思ったのがここ。

なぜ日本経済は、かくも長期間、低迷状態を抜け出せないのだろうか。その答えは明らかだと思う。若者が勤勉でなくなり、努力を怠るようになった国の経済が成長することなど、そもそもあり得ないことではないだろうか。 (pp34-35)

 って、おい!

 と、思わず声に出して突っ込みそうになるほど、突拍子もない話だ。
 
 
 そんなわけで、せっかく温暖化対策の経済的影響について細かい政策の話にまで踏み込んで議論してるのに、ここでの自分の感想のように、前半部の主題とは関係ないところで反発、批判されそうな、戦略ミスが痛い本である。

 パオロ・マッツァリーノ 『つっこみ力(ちくま新書、2007年)
 
 
 『反社会学講座』の著者が新書に進出。

 笑える異質な新書であることには間違いないんだけど、経済学者たちとの(あまのじゃくな)闘いは「もういいよ」という感じ。

 インセンティブの話にしても、全く間違いというわけでもないんだろうけど、論争のある主張とか、程度問題にすぎない主張とかを根拠につっこんでも、破壊力が小さくて笑いにはなりにくい。

 「 国内旅行するならどこに行きたい? 」
 「 竹島! 」
 「 外国じゃねーか! 」
 
 
 次作で無条件降伏するなりして、さっさと笑いに変えてしまって欲しいものだ。

 せっかくの笑いのセンスがもったいない。
 
 
 反論する経済学者たちも、「正しさ」と同時に「おもしろさ」を追求してくれればいいんだけど、必死になっててそれどころではない。
 
 
 両者とも学ぶべきところがある。

 両者とも『反社会学講座』の成功を思い出すべきだ。

 ※自分のことは棚にあげておく。

 ダニエル・ベル 『資本主義の文化的矛盾(上)(林雄二郎訳/講談社学術文庫、1976年)
 
 
 久しぶりに上巻だけ読んでみた。

 社会を構成する政治(平等志向)、経済(効率志向)、文化(自己充足志向)はそれぞれに矛盾をはらんでいるけれど、3つの領域のうち特に文化が大事だとして、文化が崩壊しつつあることに警鐘を鳴らしている書。

 社会科学、文学、絵画、演劇など、あらゆる分野から縦横無尽に引用している博識ぶりはすごい。
 
 
 だけど、いかにも時代拘束的な本。

 1960年代のアメリカにおけるカウンター・カルチャーの自由奔放ぶりに影響されている。文化に関する記述は特に。

 文化を重視するのも、文化の「崩壊」に危機意識を持っているのも、そのためだと思われる。(もちろん、直接的に60年代の文化だけを論じているのではない。むしろ、もっと長いスパンに焦点が当てられてはいる。)

 とはいえ、この種の文化を重んじる主張はアーサー・シュレジンガーとかロバート・パットナムとか、アメリカには根強い時代“非”拘束的なものなのかもしれない。いつの時代の日本にもあるし。

 それでも、枠組み、視点の大きさが類例を見ないのは間違いないけど。
 
 
 それから、政治、経済、文化という3つに分ける枠組みより、ハーバーマスみたいに政治、経済、社会という3つに分けた方が、分析単位の同質性という点からして適切だと思う。
 
 
 「公共家族」という(当時の印象で)怪しげな概念が出てくる下巻はいいけど、中巻もできれば読みたい。

 と、思わせるだけのおもしろさは、主張のいかんにかかわらず、ある本ではある。

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