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by ST25
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 橋本治 『失楽園の向こう側(小学館文庫、2006年)
 
 
 コミック誌に連載されていた、小説家・評論家による人生や恋愛や社会問題についてのエッセー。

 評論家らしい新奇な切り口から語っていて目を見開かされたり、評論家らしい怪しげな事実認識に首を傾げたり。で、良くも悪くも、いかにも評論家によるエッセー。

 そんな中、「なるほど~」と、自分が一番納得したのが「愛」についての話。

私は、「愛情」を共有している「愛する二人」と、「人生」を共有する「人生のパートナー」とを区別している。ということはつまり、「愛する二人」と「人生を共有するパートナー」とは違うということである。なぜかと言えば、「愛する二人」が共有するものは「愛」だけで、まだ「人生」を共有していないからである。二人の人間が「愛」を共有する――つまり「愛し合う」ということは、人の一生でそうそう簡単に起こりうるものではない。(中略) 「愛し合う」という強烈な関係が成り立つのは、ある一時的なものなのである。
 しかし、「愛し合う二人」というと、どうしてもそれは「人生を共有する二人」であると思われてしまう。それはつまり、「今愛し合っているんだから、このままでいれば“人生を共有するような二人”になるだろう」という、「願望」や「推量」や「無責任な祝福」があるからである。
 「愛し合っている」という状態と「人生を共有している」は、往々にして違う。 (中略)
 「愛し合う二人」というのは、だいたい人生とは無縁のところにいる。 (中略)
 結婚が「愛のゴール」であり「人生のスタート」だというのは、そういうわけで(ある。) (pp181-184)

 と、つらつらと書き写していたら、そういえば、「恋人と結婚相手は違う」という類いの、結婚適齢期以降の人たちに重くのしかかる話と近いなあと思った。

 とはいえ、「愛する二人と人生のパートナーは違う」なんて明快に言われてしまうと、「愛と人生を共生させる結婚」という自分の中での「結婚の平均的(!)イメージ」が、いかにハードルが高いものかというのを思い知らされ、ただただうな垂れてしまう。

 なんて思うほど、自分は、理想と現実を混同してないし、人生に楽観的でもない。 (とはいえ・・・・、人間だもの・・・・)

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・ダニエル・ベル 『資本主義の文化的矛盾(中)
 (林雄二郎訳/講談社学術文庫、1976年)
・野田秀樹 「ロープ
 (『新潮』2007年1月号、所収)
・フランシス・F・コッポラ監督 『地獄の黙示録〔特別完全版〕
 (特別完全版:2002年、オリジナル版:1979年)
(・立花隆 『解読「地獄の黙示録」』)
 (文春文庫、2004年)
 
 
 ちょっと前の3連休(2月10~12日)で読んだり観たりした諸作品が、偶然にもほぼ同じ問題を扱っていた。から、そのことについて書こうと思って書き始めたら、三分の二くらいで止まってしまい、それを今回、何とか最後まで書き終えた。

 諸作品とは、ダニエル・ベル『資本主義の文化的矛盾(中)』、映画(DVD)『地獄の黙示録〔特別完全版〕』、立花隆『解読「地獄の黙示録」』、野田秀樹「ロープ」(戯曲)である。(「ロープ」以外は初読・初見ではない。「ロープ」の感想記事。また、「ロープ」の舞台は観ていない。)
 
 
 共通する問題とは、「人間の根源的欲望、あるいは反理性主義、の行きつく先」といった問題である。
 
 
 ダニエル・ベルは、1960年代の文化を念頭に置いて、「感情の時代」における文化の統一性の解体(≒社会の解体)を社会学的に論じている。そして、「感情の時代」の文化・芸術活動を象徴的に表す作品をいろいろ列挙している。

 一例を挙げる。個々の感情そのままを平等に尊重することで、芸術と文化の所在地は、個々の作品から、芸術家の個性へと移動(p84)する。そうした芸術においては、作品そのものよりも、表現したい感情をもった人間が作品を創り出す「過程」や「行動」こそが、個性的で何ものにも還元され得ないものとして重要になる。行動派画家、プロセス・アート、「リビング・シアター」、脚本や何者かを演じることを拒否する演劇などである。

 このような文化・芸術では、文化・芸術を「高級なもの」ではなくし、誰もが参加可能なものへと変える(「天才の民主化」)。しかし、その代わりに、文化・芸術というカテゴリーそのものをも解体してしまう。

 そして、この、個人の感情すべてをそのままで尊重するという行き方は、舞台の上で生きている動物を殺したり、殺人や強姦だけを「正直な世界」と見たりするような「文化・芸術」へと至る。

 人間の感情(欲望)を極限まで解き放つと破壊衝動や性衝動といった人間の凶暴性・残酷性があらわになる。
 
 
 この、感情の優位を信奉し、感情を際限なく解放することで至る、人間の凶暴さや残酷さ(への欲望)が戦争を引き起こす真犯人であるということを隠喩的・冷笑的に表現しているのが、野田秀樹の戯曲「ロープ」である。

 野田秀樹は、普通の人々が持っている凶暴さへの欲望が戦争を作り出しているという構図を、リング上であれば流血にさえ盛り上がるプロレス(の観客)に擬して描いている。

 「覆面(人間の抽象化:heをsomeoneに)」や「実況(善悪を判断してくれる人)」や「ロープ(投げられると必ず敵の前に戻っていく八百長的装置)」といった舞台装置は、見世物としてのプロレス(戦争)を楽しく(残酷に)するのに効果を発揮している。

 そして、こういう戦争製造メカニズムに対して、実際にあったベトナム戦争の犠牲者の具体的な名前を出し(覆面を剥ぎ取り)つつ、その惨状の事実をありのまま冷静に実況することで、人間が根源的欲望から脱し、理性的な判断(ロープに投げられても弾かれずに踏み止まること)ができるように促している。
 
 
 束縛や禁忌からの解放によってあらわになった人間の根源的欲望が戦争を引き起こしたとしているのが野田秀樹なら、フランシス・コッポラは、精神を奥深く極限まで追い詰め(なければならない状況に遭遇す)ることであらわになる人間の根源的欲望が戦争を引き起こしたとしている。

 フランシス・コッポラによる映画『地獄の黙示録』は、戦場で抑制を失い、自己神格化し原始的本能に従って行動する大佐の“狂気”に、直接描かれるベトナム戦争に留まらない全ての戦争に共通する“戦争の本質”を見出している。

 この大佐は、戦争目的を遂行するために狂気に陥った。そして、全くためらうことなくたくさんの人を残虐に殺す。それは一見、目的合理的であるかのように見える。特に、私的利益のために戦争を利用する政治家や官僚的思考を脱しきれない軍幹部など、数多の偽善との対比によってその「正しさ」は際立っているように見える。

 しかし、大佐によるそのあまりに残虐で無基準な殺戮行為の奥底には、戦争遂行という目的合理的な思考とは違う、戦場において出現した極限の恐怖やニヒリズムが存在している。つまり、極限の恐怖やニヒリズムが人間(大佐)の原始的本能や自己神格化といった狂気を呼び起こしていたのである。

 したがって、その極限状況が出現させる人間の原始的本能から出てくる狂気(的な行動)は、「裁かれるべきではない」と、大佐自身によって主張される。が、しかし、その大佐およびそのような極限状況は、「抹殺されるべきだ」と、大佐自身によって主張されるのである。

 そして、「王殺し」の伝説に則った象徴的な描写の中、大佐が殺されることで、映画はエンディングを迎える。
 
 
 さて、以上3つの作品を簡単に見てきたけれど、改めて「人間の根源的欲望、あるいは反理性主義、の行きつく先」についてのそれぞれの見解をまとめると、ベルは、文化・芸術というカテゴリーの解体、さらには社会の解体へと至るとしている。野田秀樹は、戦争を引き起こすとしている。コッポラも、残虐な行為、あるいは戦争を引き起こすとしている。

 これらは新奇な結末というわけではない。

 しかし、人々にどこまでリアリティをもって自覚されているか、というと全く心許ない。何せ、自由に好き勝手楽しんでいる人たちに、自省を迫り、(戦争などの)責任を負わせることになるのだから。

 とはいえ、問題提起をしているこの3つの作品自身が「人間の根源的欲望・反理性主義」に変わりうるものとして示しているものも、それほど優れたものにはなっていない。というのも、そもそも、これらの作品は「人間の根源的欲望・反理性主義」の優位へと至った原因として、「倫理の欠如」「倫理の崩壊」を想定しているに過ぎないからである。だから、解決策として道徳的な判断や行動を求めてしまっている。

 思うに、感情の時代、あるいは個人の自由の時代、における社会の破綻や対立の防御・調停を行おうとしているのは、ジョン・ロールズに代表されるような“正義論の構想”しかない。この壮大な、しかし現代「社会」にとって絶対的に必要不可欠なプロジェクトを試みているのは、政治哲学の領域唯一つであり、そして、(まだ不十分な点は存在しているとは言え)かなり体系的、哲学的に洗練されてもいる。

 したがって、ベル、野田秀樹、コッポラが提起した「人間の根源的欲望、あるいは反理性主義、の行きつく先」という現代の重要課題を、問題の提起に止まらず、問題解決へと至る道筋を見出すところまで進めるためには、正義論を取り込んだ意欲的な芸術作品・芸術論の登場が必要なのであ~る。

 アイドルブログ・ランキングをブログに取り上げていただいて以来参加している、永遠の17歳・自称アイドル研究家あさくらはるか17が企画しているイベント「アイドル研究調査室」@秋葉原。

 テーマ:路上で活躍するアイドル
 出演あさくらはるか17星川阿弓
 ゲスト木ノ下ゆり綾衣夏子

 歌とトークの2時間+物販。

 ゲストの2人は、ライブ活動のほか、自らビラ配りをしたり、路上で活動したり、地道な活動もしている。それだけに、外見から受ける印象(魔法少女好きとやまとなでしこ)とは全く違い、肝が据わっていてトークも滑らか。

 トークタイムでの、そんな落ち着いた2人と天然なあさくらはるか17との掛け合いはおもしろかった。

 歌は、アイドルソング好きの自分としては、やっぱりあさくらはるか17のアイドルアイドルしてる歌と振りが清涼感抜群で心地良かった。

 全体の雰囲気も、常連のファンが盛り上げていてアットホームな感じ。

 それから、イベントが終わったのが21時半だったにもかかわらず、ゆったりたっぷりの物販タイムは贅沢。

 主な感想はこんなところ。

 全体として、歌、トーク、直接の会話、それぞれがたっぷり時間があって、満足できるイベントだった。

 そして、最近は、あさくらはるか17みたいな、キャラ・活動ともに根っからの(80年代的な?)ベタなアイドルというのは意外にいないような気がするから、けっこう新鮮さを味わえたりもする。
 
 
 
 それにしても、アイドル研究報告書というブログまで作っているアイドル研究家であるアイドルが、アイドル研究調査室と銘打ってイベントを行うこの企画。やはり、アイディアは斬新でおもしろい。

 とはいえ、大人の事情による制約も色々あるし、(特に常連の)ファンからすればあえてこの形にすることにそれほど大きな意味はない。

 けれど、アイドル研究が趣味な自分としては、ゲストとファンについての今ある条件の中でアイドル研究家(かわいい女の子好き)キャラをプッシュしてほしいところ。

 個人的な趣味をさらに前面に出して言うと、ファンにレポート・宿題を出させたり、ファンとアイドルで授業形式で何かを講義したりと、「研究調査室」を意識したことをしたらおもしろいかもしれないと思うけど、ここまでいくと自分以外にとっては迷惑・面倒以外の何ものでもなくなってしまうだろう・・・。

 しかし、いずれにせよ、せっかくならただイベントをやるのではなく、1年とか経ったときに何か成し遂げた感を得られるようにするのが、無意味に斬新すぎず、かといってマンネリでもないようにするポイントかもしれない。

 蒲島郁夫、竹下俊郎、芹川洋一 『メディアと政治(有斐閣アルマ、2007年)
 
 
 メディアと政治の関係についての色々な理論・視点を網羅しているテキスト。

 ところどころで、実際の政治の出来事やデータを用いて理論の適用(実証)も行っている。また、日経新聞の編集局長が著者に名を連ね、ニュースや新聞ができるまでを3つの章を割いて説明しているのはユニーク。

 総じて、「有斐閣アルマ」らしい優れた入門書。

 そんなわけで、この本を読むと、政治におけるメディアの影響力や役割を考える際の多角的な切り口を獲得することができる。

 「切り口」をいくつか挙げてみると、補強効果、フレーミング効果、沈黙の螺旋、培養理論、属性型議題設定など、いかにも学術用語っぽい単語が並ぶ。

 だけど、実際のところ、これらの理論や視点が意味するところは、ちょっとメディアと政治の関係について考えたことのある人ならば思いつくであろう考え・視点の域を出るものではない。

 だからこそ、重要なのは、お互いに相入れなかったりする多様な理論間での比較検討などの実証になる。

 けれど、この本でなされている実証は理論の紹介という目的のための簡単なものに過ぎず、理論間での比較といった本格的な検証結果の紹介まではされていない。

 この点は、入門書だからやむを得ないとはいえ、「で、結局どれが正しいの?」という不満が残る点だとも言えるし、逆に、更なる学習への導入として成功しているとも言える。

 いずれにしても、これがこのテキストの内容とその限界である。
 
 
 本全体の紹介に関してはこれくらいにして、一つ内容で気になったことがあったからそのことについて少々書いていく。

 それは、この本では、「メディアから政治や国民への影響」と、「政治からメディアへの影響」については色々な理論やその実証が紹介されている。

 だけど、「国民からメディアへの影響」については、各章の最後にまとめ的に述べられている程度で、本格的な研究は紹介されていない。

 個人的には、メディアがどのように報道するかは多数の国民の意向に依っていると思っている。同じ閣僚の不祥事であっても小泉内閣と安倍内閣とで取り上げ方が異なったりするのは、多くの国民が「小泉内閣は倒すまではしたくない」と思っている場合に不祥事に対するメディアの追及も弱くなるからだと思う。

 もちろん、メディアが国民の多数派を形成するという側面を否定するわけではないけれど、国民からメディアという方向性の方が影響力は大きいのではないかと思っている。

 そして、この「国民からの影響」というものを、この本では随所にまとめ的に述べているだけに、その研究について触れられていないことが気になった。
 
 
 他にも、小泉政権に衝撃を受けすぎなところとか、気になったところはあるけど、優れた入門書であることに変わりはない。

 月並みなことを言うと、いつのまにか3月になっていた。2月はにげる。

 そんなわけで、自分で自分を縛るべく、ブログ上ですべきこととその期限を列挙。

・10点満点化されるアイドルブログ・ランキング[2007年1月版]
 →3月11日(日)まで

・あさくらはるか17イベント感想
 →3月4日(日)まで

・ベル、コッポラ、野田秀樹を絡ませた雑感
 →3月7日(水)まで

・もう投票は終わってしまったけど、ヤンジャン制コレ(=ヤング・ジャンプ制服コレクション)について一言
 →3月7日(水)まで

・綿矢りさの最新小説の読破&感想
 →3月9日(金)まで

 以上、3月が春眠暁を覚えず状態にならないように、勢いよく頑張りたい。

 もちろん、その他、本の感想などは随時更新していく。

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