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 高山文彦 『「少年A」14歳の肖像(新潮文庫、2001年)
 
 
 神戸連続児童殺傷事件を引き起こした(当時)14歳の少年・「酒鬼薔薇聖斗」がどのようにして作られたのかを追ったノンフィクション。

 親による体罰、親の愛情への飢え、祖母の喪失、阪神大震災、ペットの死、教師・同級生による異質視、直観像素質者、生き物の殺害による性的興奮、独我論的世界観の形成、といったところがポイントとなっている。
 
 
 最後に収録されている短文で、宮部みゆきは( 作家の自分が解からないのに他の人が解かるのは嫌だからなのではと勘ぐってしまうが )「解からなくていい」と言っているけれど、やはり本書を読むとそれなりに「解かって」しまう。

 一つ一つの出来事を追っていき、それに精神医学的な分析をあわせると、やはり「酒鬼薔薇聖斗」が作られたのも必然だったと思える。

 ただ、そこで「解かる」のは、あくまで、「“酒鬼薔薇のような人”」、「“自分たちのような普通の人”とは違う“酒鬼薔薇のような人”」が作られる過程、理由にすぎないとも思える。

 「酒鬼薔薇」と似たような境遇で育った人、あるいは、似たような人格の人は絶対数的に見れば決して少ないとは言えない。にもかかわらず、彼だけが凶行にまで至った決定的な分岐点、差異は何なのかは「解からない」。

 この本では、「酒鬼薔薇」が、殺人衝動を持っている点や独裁者的権力者へ憧れている点などから画家のダリと似たところがあると指摘しているが、こういった、似ているのに違う人生になった人たちとの比較をこそ行うべきではないかと思う。

 第一歩としては「“普通の人”との差異」を知ることが必要だけど、「(いわば)“普通の人とは違う人”の中での差異」を知ることが次の段階として必要になる。
 
 
 ところで、この事件に関しては「酒鬼薔薇聖斗」の母親に対する批判が多い。

 「ちゃんと愛情を注ぐべきだった」、「躾の仕方が間違っていた」、「息子の異常性から目をそむけていた」、「通り魔事件が起きたときに息子が犯人だと分かったはずだ」など。

 しかし、これらの批判はあまりに道徳的すぎる。

 「一人一人が戦争しないと思えば戦争は起こらない」という性善説的な人間観に依った道徳的な平和論と変わりない。

 しかも、これらの道徳的批判は、「酒鬼薔薇」に対して「人の気持ちをわかれ」という単純な道徳的批判をするだけでは済まないと分かっている人たちによってなされている。

 「酒鬼薔薇」に対して「少年だろうがどんな事情があろうが残虐な事をしたのだから死刑だ」と、済ませない人たちであるなら、冷静に、母親の生い立ちを調べたり、家庭環境が良くなかった場合でも「酒鬼薔薇」のような人間を作らないための社会環境をいかに整えるかを考えたりするべきだ。
 
 
 それにしても、これまで、胡散臭さと自分自身への自信のために忌避してきた「精神」とか「心理」とかに関係のある学問(精神医学、精神分析、心理学等)にも少しは手を出さないといけないか、と最近思うようになっている。

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 『 橋を渡ったら泣け 』 ( 作:土田英夫/演出:生瀬勝久/出演:大倉孝二、八嶋智人、奥菜恵、岩佐真悠子ほか/2007年3月5日~29日/@Bunkamuraシアターコクーン/\8500[S席] )
 
 
 くだらない。

 孤島に残された男女8人の物語。

 と来れば、人間の本性が出る原始的な極限状況なわけで、この興味深い題材は、これまで色々と描かれてきた。

 ゴールディング『蝿の王』、楳図かずお『漂流教室』なんかが代表的。

 ちょっと幅を広げれば、デフォー『ロビンソン・クルーソー』、ホッブズ『レヴァイアサン』なんかも欠かせない。

 他にも、上で挙げた作品の映画版やドラマ版から、似たような状況を作って男女に生活させるバラエティ番組など、挙げれば切りがない。

 そして、こうした極限状況では、権力、食料、女をめぐる微妙で複雑な争いが繰り広げられる。

 しかしながら、この『橋を渡ったら泣け』で描かれる“争い”は、あまりに粗雑で素朴で浅薄。

 「人間は優しくて争いを好まない」と信じて疑わない優等生な中学生が考えたみたいなレベル。

 権力を握った人が、立派な服装をしたり、奇妙な儀式をしたりという(『蝿の王』における“ほら貝”とかを意識したのかもしれない)象徴的(?)表現も、あまりに単純で表面的。
 
 
 これだけ有名な劇場で、これだけ有名な人たちが出演してる大規模な芝居なのだから、「本当におもしろい?」と誰か疑問を持たなかったのだろうか。

 逆に、大規模だからこそ、組織の論理が強く働き、皆が組織の従順な歯車の一部になってしまったのだろうか。
 
 
 いずれにしても、そんなわけで、見所といえば、独特な空気感のある八嶋智人のおもしろい一挙手一投足(含、台詞)を生で見れたところぐらいなものだった。

 というか、「もしこの舞台に八嶋智人がいなかったら」と考えるとゾッとする。

 太田光 『爆笑問題 太田光自伝(小学館文庫、2001年)
 
 
 太田光の誕生から35歳までを、相方ではない誰かによるインタビュー形式で、笑い、マジ語りを交えながら追っている。

 紙幅の都合のためか、インタビュアーの器量のためか、突っこみが足りなくて不満が残ることろもちょくちょく出てくる。

 けれど、一応、太田光の人生の全体像のようなものは見えてくる。
 
 
 まず、「芸能」という職業にいる人にほとんど不可避な売れない苦悩、また、「天才」にしばしば見られる早熟さ、が垣間見れる。

 一般ピープルとは違います。 (と、自分のダメさを肯定して満足してしまう人に発展は見込めない。)

 それから、太田光の人生にもお笑いのスタイルにも共通することだけど、「ただひねくれている」と言うよりは、「正直に生きると世間的にはひねくれているように見える」と言うべきものが随所に現れている。

 そして、その前提としての観客や世間に対する信頼や敏感さも窺える。

 売れない芸人とは違います。
 
 
 日芸の演劇学科の演技コースを「意味がない」と中退している太田光の演技論もおもしろい。

 アンジャッシュだとかチュートリアルだとかのネタを見ていてたまに思う、「演劇をやってる人よりお笑いをやってる人の方が演技が上手いように思えることがあるのはなぜか?」という疑問に答えてくれている。

演技というのは、冷静な自分がいて、いかにうまくウソがつけるかというのが面白さだと思っているんです。
 (中略)
 コントというのは、そういう意味で言えば、全然自由だから。お笑いのヒトで“なぜ、こいつは料理しているか?”なんて考えてやってるヤツはいないと思うんです。要は料理をしてるというカタチで、そこで笑いが必要なら、面白いカタチで演じればいいだけだから。でも、だからこそお笑いのヒトというのは、お芝居がうまいヒトが多いんだと思うけどな。それでいうと、アニマルエクササイズにしても、“実際に本物を見に行ったら、ウソをつきにくくなって不自由で何にも面白くないのに”、と思っていたんです。 (pp129-130)

 必死になって叫ぶしか能(脳)のない役者って結構いる。もちろん、これは芸人にも当てはまる。
 
 
 と、何となく、お笑いをやってる人が読んだら結構得るところがある気がする。

 けれど、普通の人が読んでもちょっとした笑いと軽い気分転換くらいしか得られないのはやむを得ないところ。

 大塚英志 『サブカルチャー文学論(朝日文庫、2007年)
 
 
 江藤淳による「文学とサブカルとの境界線」、すなわち、「(サブカルの)虚構性に対して自覚的であるか?」を一貫した仮説、ないしは準拠枠組みとして、村上春樹、山田詠美、石原慎太郎、三島由紀夫、大江健三郎らを読み解いている本。

 とはいえ、ただ単純にその枠組みを個々の作家に当てはめていくわけではなく、それぞれの作家・作品をおもしろい切り口から語っている。

 だから、「江藤淳論」とか「江藤淳を通して見る戦後文芸」が第一義的な内容ではあるけれど、個々の作家論・作品論としても読める。

 というか、「江藤淳論」として読むには750ページもあってさすがに冗長で散漫だから、個々の作家論・作品論として楽しまないと最後まで読めない。
 
 
 個々の作家論・作品論としては、おもしろい指摘が随所に出てくる。

 それは章題に端的に現れている。

 すなわち、「村上春樹はなぜ「謎本」を誘発するのか」、「吉本ばななと記号的な日本語による小説の可能性」、「三島由紀夫とディズニーランド」などである。

 これらの章題は、奇をてらった見かけ倒れのものではなく、きちんとその章題の通りに無理なく論じられている。
 
 
 他方、「江藤淳論」の方は踏み込みが浅いように思えてしまう。というか、ほとんど屈託なく江藤淳の枠組みを受け入れているように見える。 (ただ、最初で江藤淳についてどのように語っていたかを最後まで読み終えたときにはかなり忘れてしまっているという問題はある。)

 強いて言うなら、著者は、この「虚構性に自覚的であるべき」という江藤淳の主張には与しているが、そう主張する江藤淳自身、自身の虚構性に悩んでいたとしたり、(この本ではほとんど語られないけど)戦後民主主義を擁護したりと、江藤淳には批判的であるようである。
 
 
 ちなみに、江藤淳にとっての(サブカルの特徴である)「虚構性」とは、歴史と地理から切り離された「近代=戦後民主主義=戦後日本」のことである。

 唐突だが、政治哲学(ほとんど近代をいかに正当化するかの学問)に関心を持っている人間にとっては、江藤淳のこの「近代=虚構」という批判は、まさにコミュニタリアニズムによるロールズの正義論に対する批判と同種のものである。

 したがって、「政治哲学で繰り広げられている論争が、文芸の領域ではどうなっているのか?」というのはおもしろそうな問題である。

 このへんの問題が、大塚英志のどの本に書かれている(いない)かは分からないけれど、そのうち読んでみたいところではある。

 吉岡忍 『M/世界の、憂鬱な先端(文藝春秋、2000年/文庫版、2003年)
 
 
 1988年から1989年にかけて起こった連続幼女誘拐殺人事件の犯人である、宮崎勤という人間の真実を明らかにしたノンフィクション。

 力作。

  十年をかけ人間精神の恐るべき荒野を緻密に描きだした畢生の大作 という、帯に書かれた宣伝文は全く大袈裟ではない。

 久々に、読むのにかなりの体力を使った。
 
 
 宮崎勤というと、“ロリコン”と“オタク”という二つの言葉で短絡的に「理解」されがちである。

 しかし、そんな俗的なカテゴライズでは、「勃起を知らない」「その時々の流行(はや)りものへの異常な執着」「祖父の遺骨を食す」「遺体を切り刻む」といった数々の奇異な行為を理解することは到底できない。

 だからといって、“奇人”や“狂人”などと、自分とは全く違う別の種類の人間だと決めつけて済ませるのも間違っている。

 誰もが持っている人間の弱さ、それに、周囲の人々、生活環境、社会環境、時代背景といった様々な要因が加わることで、宮崎勤は、必然的に「作られた」。

 宮崎勤の人生を深く緻密に追うことで明らかになるのは、人間の真実であり、現代社会の真実である。

 異質なものを排除する人(社会)、現実(リアル)から目を背ける人(社会)、主体的な判断ができない人(社会)、他者の存在に無関心な人(社会)、あらゆるものをモノと見る人(社会)、他人を全く信頼しない人(社会)、攻撃的にしか自己表現できない人(社会)、等々。
 
 
 しかし、救いは、宮崎勤自身の中から見出すことができる。

 中でも重要なのが、気味の悪い「犯行声明文」の存在である。

 すなわち、

宮崎勤の犯行声明や告白文と同様、酒鬼薔薇聖斗も書きすぎていた。なぜ彼らはこんなにも長く書いてしまうのだろう。どうして思考のクセが出てしまうほどに書きすぎてしまうのか。自分が理解されていないという不満、わかってもらいたいという欲求、おれはここにいると叫びたくなるほどの衝動。これまでこらえてきた不満と欲求と衝動が、どちらでも噴きだしている。 (p432)

 宮崎勤(及び酒鬼薔薇聖斗)の人格の閉鎖性について読み知ってきた者にとって、これほど明るい光はない。

 これは、一方では、言葉や芸術を鍛えることで自己表現の能力と自己統合の能力を向上させること、他方では、あらゆる表現を否定・排除せずに受け止め、促すことという指針を与えてくれる。
 
 
 
 それにしても、重い。

 宮崎勤、酒鬼薔薇聖斗を自分のこととして引き受ける(考える)ことは、重い。

 「正常な自分」とはもっとも距離があると思っていた人物が、自分とかなり似ていたことを知る戦慄、暗澹。

 簡単には抜け出せなくなりそうだ。

 そんな重いことを10年も続けた著者は、ただただ凄い。

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