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 GIRLS' RECORD Presents 「 劇団ショートケーキ 」 第2弾 ( 出演:佐藤寛子、次原かな、喜屋武ちあき、加藤沙耶香ほか/2007年4月15日/@原宿アストロホール )
 
 
 FITONE所属のアイドル17人によるお笑いライブ、の第2弾。(→第1弾の感想

 メインは、コント、大喜利、トーク。

 第1弾がおもしろかったから期待してたけど、手抜きが目立った。

 確かに、コントでの次原かな、堂上静華、トークでの加藤沙耶香は、前回に引き続き、かなりのおもしろさを誇っていた。それに、それ以外でもそれなりに笑いどころはあった。

 だけど、構成・内容での手抜きのために、全体的に、おもしろさとこの「劇団」の魅力が薄まってしまっていた。

 「構成・内容での手抜き」とはどういうことか?

 事前の準備が必要なコントでは、前回とりわけおもしろかった次原かな、堂上静華の2人に頼り、事前の準備が必要のないトーク・大喜利では世間的な知名度が高い佐藤寛子、大原かおりの2人に頼るという浅はかな意図(しかも丸見え)のこと。

 実際、前回は10分くらいのコントに出演者全員が出てたのに、今回はコントに出たのは6~7人だけ。そして、その分、事前に準備する必要のないトーク・大喜利が長めだった。しかも、前回は最初に一人一人がきちんとフィーチャー(紹介)されてたんだけど、今回はそれもなし。したがって、ほとんど何もしないメンバーもいた。それに、メンバーからしてガールズレコードの枠とはほとんど無関係になっていた。

 これではもはや、「劇団」ではなく、どこにでもあるただの「アイドルイベント」(のトーク部分)と同じだ。

 そして、このようなものであるならば、「GIRLS' RECORD Presents」を名乗る必然性も、したがって、出演者を無理やり多くする必然性もない。そして、この公演を行う意味もかなり希薄だと言える。
 
 
 こう考えてきて、改めて、前回の第1弾がおもしろかった理由がはっきりしてきた。

 その理由とは2つある。

 1つは、前回の感想の最後で指摘していたことだけど、「ガールズレコード」というまとまりの存在が、「劇団」として凝集的・求心的に1つの公演を作る際の前提・基礎になっていたこと。 (これに関連して、知らない人がコントをするのではなく、どういうキャラかを知っている人が演じるというのもポイント。)

 それが今回は、メンバーの出演度にかなりの差があり、「みんなで何かを作る」という形ではなくなっていた。それに、そもそも出演者の多くが「ガールズレコード」ではなくなっていた。

 それから、もう1つは、アイドルというお笑いの素人が台本のあるコントをやることの意義に関して。

 コントには台本があってそれに従ってやらなくてはいけない。けれど、アイドルはお笑いの素人である。だから、台本が期待していたことから“下に”ずれること(失敗)もあれば、台本が(あるいは、観客が素人に)期待していたことから“上に”ずれること(期待以上の成功)もある。そして、この2つの事態が起こったときになされる、舞台上と客席との間の、すなわち、アイドルとそのファンとの間のコミュニケーションが、観る側のおもしろさや満足感を引き出していた。

 だけど、今回はコントは少なくて無難なものしかなかった。

 今回、この公演のおもしろさ、魅力が薄れたのはこんなところに原因があるように思う。
 
 
 さて、他にもう1つ文句を言いたいことがある。

 それは男が出てきたこと。

 大喜利の司会(1人)とコント(2人)で、同じ事務所に所属しているらしき人(俳優?芸人?スタッフ?)が出てきた。

 アイドル側の出演者でほとんど出てこない人がいるというのに、あえて外から人材を求める必要はない。

 しかも、大喜利の司会をした人なんて、ボケに気付かずにスルーしたり、発言の意図を誤解してツッコミを入れたり、進行の不手際をアイドルに指摘されたりと、散々だった。

 というか、そもそも、こっちはアイドルを見に行って、アイドルと時間を共有したいのであって、野郎と同じ時空間を共有したいのでは断じてないのだ。マジ勘弁してほしい。
 
 
 と、色々厳しいことを書いてきたけど、構成の明らかな手抜き・失敗にもかかわらず、そこそこ笑うことができたのは、ひとえに出演者であるアイドルたちの頑張り・おもしろさによってである。

 この点、この公演の手抜きがアイドルたちの点数を下げることにつながらなかったのは救いだ。

 だけど、「“おもしろさ”(≠笑い)に対するセンス」のないスタッフがまた考えるのであれば、再演はしない方が身のためだ。

 「アイドルのおもしろさ」という最近テレビなんかでも発掘されてきた魅力を、持ってるのに使えないのはもったいない気もするけど。

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 武田泰淳 『ひかりごけ(新潮文庫、1964年)
 
 
 表題作を含む4篇が収録されている。収録作のみ読んだ。

 表題作「ひかりごけ」は、沈没した船の船長が酷寒の地で死んだ仲間の船員の人肉を食べて生き延び、法的道徳的罪に問われたという戦中の事件を基にした小説。

 人間の原罪や戦争の本質などが描かれる。
 
 
 ただ、個人的に興味がある生命倫理の観点からも読める。

 生き延びるために死んでいる人の人肉を食べる行為は許されるか? あるいは、生き延びるために人を殺してその人肉を食べる行為は許されるか? そして、食べられる側が生前、了承していた/いなかった場合はどうか?

 実際の事件で起こったこと、そして小説に出てくることは、本人の承諾なしで死体の人肉を食べた行為である。人肉のためにあえて殺してはいない。

 生命倫理に関するこの点、この小説では、船長、生存した船員、世間の人々といった登場人物たちが、皆、もともと死んでいようがあえて殺したものであろうが、人肉を食べることは生き延びるためであっても道徳的に良くないと当然のことのように考えている。

 けれど、この前提は(少なくとも)現在からすればそんなに簡単に採用できるものではない。

 まず、脳死臓器移植という、一人の命を救うためには死の定義を緩める(誰かを殺す)という制度や議論が公然とまかり通っている。

 これと比べれば、承諾さえあれば、あえて殺して人肉を食べるのも問題ないとなってくる可能性がある。しかも、酷寒の地での極限状況下であることを考えに入れるなら、承諾がなくても許されそうだ。

 それから、法的に考えても、そんなに簡単に不道徳な行為と決め付けることはできない。

 通常、人を殺せば殺人罪、死体を切り裂いて人肉を食べる行為は死体損壊罪に問われる。

 けれど、生き延びるためであれば、(刑法上の概念であるところの)緊急避難によって違法性が阻却され、罪には問われないと思われる。(本当に生き延びられない状況だったか判断するのには困難が伴うけど。)

 そして、実際、極限状況であれば「生きるためにやむを得ない」と、大抵のことが正当化されるのが一般的な倫理観ではないだろうか。
 
 
 こう見てくると、この小説は、人々の道徳に関する前提に違和感がある。

 それでも、森鴎外の「高瀬舟」よりは生命倫理に対する深い問題を提起しているようには思うけど。

 森鴎外 『山椒大夫・高瀬舟 他四篇(岩波文庫、1938年)
 
 
 表題作の「山椒大夫」、「高瀬舟」を読んだ。

 「山椒大夫」は(やや曲解だけど)女性たちに守られている男の子が自立した大人の男へと踏み出していく過程を、「高瀬舟」は幸福とは何かを問いながら積極的安楽死の如何を、それぞれ描いている。

 文体・内容ともに余計なものがなく素朴であるため、静かでもの悲しい雰囲気が醸し出されている。まさに“文豪”による名文・名作といった感じ。
 
 
 「高瀬舟」は1916年の作品だが、今でも安楽死問題を論じる際にしばしば言及される。

 けれど、鴎外自身は、 死に瀕して苦しむものがあったら、らくに死なせて、その苦を救ってやるがいいというのである。これをユウタナジイ(※euthanasie)という。らくに死なせるという意味である。高瀬舟の罪人(※安楽死を手伝った人)は、ちょうどそれと同じ場合にいたように思われる。 (p126)と書いている。

 この「苦しみから逃れるため」という理由付けは、現在からすると素朴すぎて論拠としてあまりに弱い。

 死期が近い、治療が不可能といった条件への注意のほか、自己決定権や尊厳死といった理念による正当化があって初めて安楽死は社会的・法的議論として力を持ってくる。

 であるならば、「高瀬舟」は、現在の安楽死問題に対する含意は大して大きいとは言えない。現在の基準から言えば、「殺人」としてあっけなく処理されてお仕舞いである。
 
 
 とはいえ、深読みすれば、自殺し損ねて死にそうな弟を安楽死させた兄が、実に軽い心持ちで島流しされ、新天地での生活に心躍らせている“安楽”な様子(pp113-115)は、現在における積極的安楽死の問題を先取りしているようにも見えて恐ろしい。

 山形浩生 『新教養主義宣言(河出文庫、2007年)
 
 
 評論家、翻訳家、大手シンクタンク・コンサルタントである著者が各所に書いてきた文を集めた本の文庫化。書評1本、文庫版あとがき、宮崎哲弥による解説が新たに加えられている。

 書籍用に書き下ろされたのではない文は、著者のウェブサイトで読めるけど、移動時間用につまらない新しい本を買うよりは、読むのが二度目でも確実におもしろいし有用だから購入。 (けど331ページの文庫が798円とちょっと高め。)

 やはり、鋭さと自由さゆえの痛快なおもしろさがある。
 
 
 「プロローグ」では、教養の効用について啓蒙的に語っている。本人がどこまで本気かは分からないけれど、かなり納得させられる。 (ここでは教養の定義とか細かいことは気にしない(する必要がない)。)

 ただ、著者は消費者の側の教養のなさばかりを語っているけど、今では生産者側に全く教養がない(上にそれに開き直る)という終末的状況が現れている。これで消費者に教養を求めるのは酷である。新しい作品を消費する限り、教養は必要ないのだから。

 とはいえ、この「プロローグ」を読むと「教養、身に付けよう!」というモチベーションが沸いてくる。
 
 
 そんな風に読者を巻き込んだ上で、著者の教養が縦横無尽に使いこなされていく。

 著者の話は、不真面目で適当でトンデモナイもののように思えるけれど、その表面上の見た目に流されずに真面目に向き合うならば、反論するのがかなり難しい。

 例えば、「消費税を7%に上げよう!」。不景気脱出のために消費税の増税を主張している。

 昨今の不景気は消費者のデフレ期待によって起こっている。そこで、日銀が(緩やかなインフレ率の)インフレ目標を掲げることで消費者をインフレ期待に変えようとするのが、クルーグマンなどによって唱えられる通説である。

 これに対して著者は、政府が消費税増税という「強制的な“インフレ策”」を掲げることで消費者をデフレ期待からインフレ期待に変えることができるとする。具体的には、2年後に7%にし、そのまた2年後に10%にすると宣言するとか。

 もちろん、この政策は永続的ではないし、期待を変えるきっかけにしかならない。けれど、現状のデフレ期待による不景気(まだ抜け出していない)を脱出する政策としては筋が通っている。

 この主張を、日経読んで満足してるようなレベル以下の人たちに真面目に訴えたら納得してしまいそうだ。

 ( ※ちなみに、例えば、民間で消費されてた分が公共部門に行くわけで、その(民間部門に比べた)公共部門による消費の非効率の分がマイナスになると考えられる。けど、金が余ってる状況での増税なわけで、貯金してる分=銀行に余ってる分が税金として吸収されるだけとも考えられる。しかしながら、そもそも、増税の目的はとりあえずの需要を増加させる(とりあえずインフレ期待を起こさせる)ことにあるのだから、上の話は反論にはなっていない。となると、増税効果による需要増は増税後の消費を先取っただけで、結局、増税後の消費を減らすことになり、これが、とりあえずの需要増よりも良くないことを示さないといけない。 )

 この主張以外にも、選挙権を1人10票にして1人3票まで売買可能にする案とか、権利というものの存在を退ける主張だとか、「教科書に書いてあるから正しい」とか「みんなが言ってるから正しい」とか言ってる人には到底反論できないような主張が登場してくる。

 経済学などの学問に裏付けられているとは言え、この発想のしなやかさは、著者が造詣の深い分野の一つであるSF小説に由来するのではないかと想像され、色々とSF小説を読んでみようかと思わせる。 (時間があれば実際に色々読んでみよう。)
 
 
 そして、文体。

 正直なところ、このブログで自分が(特に)ダメな対象を語るときの語り口・口調(および内容の一部)は、この著者に影響されている。というか、自分の頭の中の調子(?)が著者の語り口・口調と近かったから影響を受けた、というのが正確なところ。

 とはいえ、自分にはどうしても拭いきれない真面目さの存在は大きな違いではある。

 それに、社会系の話を語るときには特に、そう気楽にはなれない。これは文体にも内容にも当てはまる。

 まあ、これらは(大上段から正当化すると)民主主義的・共和主義的・啓蒙主義的信念を持っている一日本国民としては譲れない一線のような気がするから別にいいと言えばいいのだけど、いかんせん内容がつまらなくなるのがブログとしては問題だ。悩ましい。
 
 
 色々語ってきたけど、この著者の本はおもしろいからついすらすらと読んでしまうのだけど、騙されないためにも勉強するためにも自分を鼓舞するためにも、改めてじっくり読んでみる必要がある。

 宮台真司、宮崎哲弥 『M2:ナショナリズムの作法(インフォバーン、2007年)
 
 
 俊秀な論客2人による、相変わらず鋭く過激な対談。今回ので最終回。

 書籍用に太田光を交えての鼎談が収録されている。

 ただ、前半の宮崎&太田だけのときは、「全部を覆す」おもしろさを目指す斜に構えた太田光を、宮崎哲哉が真面目に現実主義的に突っ込んでいて議論(の前提)が噛み合ってない。宮台真司が合流してからは解消される。ただ、宮台真司の前では太田光の鋭さも霞んでいる。
 
 話の内容は、女系天皇、ニート、北朝鮮、市場原理主義、国語教育など多岐に渡る。

 そして、その多くは説得的である。
 
 
 ただ一つ、特に気になったのが、今回多用されている「コーポラティズム」。

 ホリエモンや村上ファンドや宮内義彦などを念頭に宮台真司は次のように言う。

従来は「ダーティなコーポラティズム」があったが、国家財政が食い物にされたので「クリーンな優勝劣敗主義」が出てきた。なのに実際は「ダーティな優勝劣敗主義」だった。ならば揺り戻す先は「クリーンなコーポラティズム」しかない。論理的には自明だよ。ところが欧州的な「市民参加によるチェック」の伝統がない。とすれば、いずれは「ダーティなコーポラティズム」へと逆戻りする。
 (中略)
 結局日本では旧来の「ダーティなコーポラティズム」の中に可能性を探るしかないかもしれない。うまく行ってきたはずの「ダーティなコーポラティズム」がどこでつまずいたのかを反省してね。 (中略) 「ダーティなコーポラティズム」でありつつ、ゼネコンにぶら下がって全員で沈むんじゃないような、そんな選択肢を採れるかどうか。 (pp190-191)

 要は、もう一度、戦後からバブル崩壊までそれなりに成功していたやり方(社会主義とも言う)に改善を加えつつ戻そうということ。

 確かに、日本とアメリカという2つしか選択肢がないみたいな議論が多いから、コーポラティズムという大陸ヨーロッパ的な選択肢(用語、理論)を導入することには意義がある。

 だけど、90年代に入るまでの日本経済が成功したのは、本当にコーポラティズム的なやり方のためだったのか? また、(80年代に特に流行った)アメリカ流のマネーゲーム的な投資が入ってきた以外に、90年代以降の日本の経済システムにおいてそんなに“劇的な制度変更”は行われたのか? あるいは、90年代以降の変化をもう「ダーティな優勝劣敗主義」と決め付けてしまっていいのか? それに、日本では「クリーンな優勝劣敗主義」「ルール主義」は無理と言ってるけど、読売新聞の社説を書いてるような世代より下の世代の人たちにはむしろ、談合的な経済システムに対する嫌悪感の方が強いのではないだろうか?

 といった疑問がある。(まあ、どれも対談であるために話がナイーブであるところに由来するような気がするけど。)

 というか、近代主義者宮台真司が前近代的な方向に針路(退路)を取っていいのか?という根本的な疑問がある。これはいかんだろう、と。

 かなり大まかに指摘しただけだけど、今回の本の主張の大枠のところで考えが違うのは以上の点。
 
 
 コーポラティズムや政治経済学的な観点から戦後の日本経済を見ている研究というのはあるのだろうか?

 『比較政治経済学』をぱらぱら見た感じ、日本はコーポラティズムという概念からは少し逸れているような扱われ方をしていた。

 となると、経済学の見方(三輪芳朗などによる企業が頑張ったという主張)がやっぱり有力だということだろうか? あるいは、両者は矛盾しないのだろうか?

 興味深い。

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