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by ST25
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 デイヴィッド・プロッツ 『ノーベル賞受賞者の精子バンク(酒井泰介訳/ハヤカワ文庫NF、2007年)
 
 
 ノーベル賞受賞者精子バンクの歴史やそこに関わりのある人たち(創設者、ドナー、レシピエント(母)、その子供など)を取材して、その真実を描いたノンフィクション。

 文庫版の副題「天才の遺伝子は天才を生んだか」、あるいは、帯の宣伝文句「現代の優生学から誕生した200人以上の子供たちはいま?」という内容を期待して読むと落胆する。その話は全体の1割程度しか出てこない。( 編集者 and/or 早川書房はこの本の内容を理解できなかったのだろうか? and/or そんなにお金がほしいのだろうか? 2007年を象徴する一字は“偽”らしいけど・・・。)

 とはいえ、「 そういうのを使おうが/使うまいがすべて個人の自由だ 」と考える自由至上主義的な人以外にとっては、考えさせられる内容が多い。
 
 
 例えば、ノーベル賞受賞者のものであれそうでないものであれ、精子の提供は、子供を持ちたいけど持てない夫婦や女性のための、(例えて言えば、輸血みたいな)純粋な医療的措置だと想像していたが、そうなってはいない。そこには、“良いドナー”を求める以外にも、人間的な感情が入り込んでくる。

 母親は(いくつかの情報以外)匿名であるドナーのことを知りたく/会いたくなり、子供は精子を提供しただけの“父親”のことを知りたく/会いたくなり、精子を提供しただけのドナーは“子供”のことを知りたく/会いたくなる。( そして、この本では“夫婦”や“親子”が実際に会っている様子を伝えている。)

 父親とは誰か? 自分は何者なのか?(どこからきたのか?)

 そんな問いの答えが、意外にも「相対的であるかもしれない」と思わせる。
 
 究極的には、ここで出てくる問題は、主観的な見方と客観的(科学的)な見方とが分裂していること、に端を発しているように思う。

 “主観的に父親だと思ってた人”と、“客観的(科学的・生物学的)に父親である人”。

 どっちが“父親”だろうか? どっちも“父親”だろうか?

 あるいは、自然的感情であると思われている「親への愛情」は、血のつながりによって生まれるものなのだろうか? 主観的に親だと思っている人に対して生まれるものなのだろうか?

 「主観が重要」か、「客観(科学的事実)が重要」か?

 これは、(この本ではほとんど明らかにされていない、)「人間はどこまで遺伝子に規定されるのか?」(環境か遺伝子か?)、という永遠の論争テーマにもつながってくる。

 人間が遺伝子にある程度規定されているのは間違いない。でも、何がどこまで規定されるのか? 遺伝子は愛情の対象にも影響を与えるのか?

 ・・・などなど、疑問が尽きない。

 と、なんともまとまりのない感想ではあるけど、そんな難しい問題を考えるための、現実を知る1つの参考資料として、この本は有意義である。
 
 
 ところで、アメリカの精子バンクの顧客は、まず、不妊である夫婦、それから、未婚の女性や同性愛者の女性である。

 そして、この状況の想定される帰結として、(優秀な女性の)“卵子バンク”なるものまですでに登場してきているとのことである。

 朗報! これに代理出産をあわせれば、独身男性でも血のつながりのある自分の子供が持てる!!!

 男女、未婚既婚にかかわらず、人たるもの、すべからく子供を持つ権利を有しているのだ!!!

 あっ、でも、精子/卵子のドナーのプロフィールに偽りとか間違いがあったときにはクーリング・オフを認めてね♪
 
 
 ・・・カオス(特に自分の頭の中)。

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 イアン・エアーズ 『その数学が戦略を決める(山形浩生訳/文藝春秋、2007年)
 
 
 統計が経験や直観より優れていた事例をたくさん紹介している本。

 この方の書評に、言いたかったことは大抵書かれているし、知らなかった有益な情報も色々書かれているから、是非ともそちらを参照されたし。
 
 
 そんなわけで、特に言いたいことはないから、以下は無理やり付け足した感のある蛇足。
 
 
 (1) データを「所詮は不完全なもの」と考えて無視し、自分の経験とか直観の絶対的な優位を信じて疑わない人があまりに多い現状(そして、それによってもたらされる惨状)を鑑みると、この本の意義に関してはもう少し評価してもいいように思う。

 特に、自己への過信が、時に人の命や人生をも奪っているという(医療過誤や教育の)話なんかは、統計重視へと現実を変えうるほど、説得的で社会的に有意義な事例になっている。

 それに、個別の事例における統計の応用の仕方はおもしろいし、読み物としてもおもしろいから、その重要なことをすんなりと理解させてくれるのは良い。
 
 
 (2) だけど、「絶対計算」とやらがそんなに凄いなら、とりあえず、株と競馬に応用してみたくなるのが人情というもの(で、そういう試みもいっぱいあったはず)。どちらもデータは豊富なはずだし。

 なのに、この2つについては全く触れられていない。

 という事実に思い至って、一気にこの本の内容に対する懐疑的な気持ちが広がっていくことになる。

 マイナーなドッグレースなんかの例はいいから、競馬で儲けられる方程式を教えてくれ。

 ノーベル賞学者を擁したヘッジファンド(LTCM)がつぶれたのはなんでなのだ?
 
 
 (3) 別に弱点を強調しなくてもいいから、せめて、成功例の紹介を半分くらいに抑えて、残りの半分で、(最後の章でやってるみたいな、)統計のメカニズムとか理論の紹介をしてほしかった。

 結果だけ見せられて「統計は良いよ」と言われても、そのメカニズムが分からないと如何ともし難い。先に進むための文献紹介もないし。
 
 
 (4) そんなわけで、正しいしおもしろいんだけど、物足りなさとか虚しい読後感の残る本だった。

 結果的に、なんか、「 分析は自分たち専門家がやるから、君たちはその結果を盲目的に信じていれば良いのだ!」というような印象を与えることになってしまっている。(そんな意図はないにしても。)

※ 日々感じたこと考えたことをこの記事の一番上に足していく形で、不定期に書き連ねていきます。

☆★☆★☆★☆★☆

12月27日
・ 来年のノーベル賞、略して、ラノベ。

12月25日
・ 今年のクリスマス、最高に残念だったのが、ケンタッキーのCMに出てるのが子供のいるあったかい家族じゃなくて、加藤ローサとどっかのイケメンたちだったこと。日本のクリスマスは、一義的には、夜、家族でチキンとケーキでパーティーして、朝起きたら枕元にプレゼントがあるのを子供たちが喜ぶ、という行事であるべきだ。(多少の違いは許す。) “ロマンチック”という言葉で偽装された嫌らしい欲望なんて、(ホンネや実態はどうあれタテマエ上は、)絶対にメインであってはならないものだ。なのに、日本のクリスマスの食卓(やそのイメージ)に欠かせないケンタッキーともあろう会社が、嫌らしい欲望を前面に出してくるとは・・・。しかも、加藤ローサなんて、週刊誌を騒がす男ネタ(たしか)いっぱいな人であって、最悪な人選だ。あぁ、悲しい。
  ちなみに、バレンタインがそんなに嫌らしさを感じさせないのは、それが、“片思いの子がその好きな相手にチョコを渡す”というイメージが強くあるからなのだ。それに対して、クリスマスはカップル限定の行事だ。(もちろん、「チョコを渡す」ことのかわいらしさもポイント。)

12月23日
・ Underworld(アンダーワールド)のライブを収録したCD『Everything, Everything』(2000年)があまりに良すぎていくら感謝してもしすぎることはない気持ち。ノーマル版だと魅力を感じないけど、このライブ版は良い。パワーが違う。どの曲もいいけど、特に「7. Born Slippy[Nuxx]」と「2. Cups」が感涙もの。

・ M-1、見たぞよ。衝撃。決勝進出組+ハリセンボン以外の5組がつまらなすぎる。ありえない。最初の30秒だけで十分。あとは同じことの繰り返し。予選(本選前の)の審査、大丈夫なのか? 個人的には、トータルテンボスだなぁ。予選とは変えて、最後を徹底的なのり突っ込み(?)にしたところが良かった。予選のネタはサンドウィッチマンが一番だったと思うけど。 それにしても、笑い飯・・・。 一番つまらなかった・・・。もう、全てを捨てて新しい領域にでも挑戦しない限りこのままでは爆発しなさそう。望みは捨てない。来年こそは・・・。

12月21日
・ ノーブランド米より魚沼産コシヒカリの方がおいしい。スーパーで売ってるステーキ肉より専門店で食べる神戸牛の方がおいしい。回転寿司で食べる魚の刺身より漁港の近くで食べる獲れたての魚の刺身の方がおいしい。マックの(お替り自由の)コーヒーよりスタバのコーヒーの方がおいしい。そうでない人(別に悪いことではない)もいるだろうけど、多くの人は共感してくれるだろう。 ここしばらくのところ、自分が言いたいことの1つはそういうことだ。ここで、「米よりコーヒーの方がおいしい」と言ったところでそれが見当違いなのは一目瞭然だ。(どんな米とどんなコーヒーであっても。) でもなぜか、多くの人は、「魚沼産コシヒカリがおいしかった」と言いたいときに、その比較対象としてコーヒー(しかもマックのコーヒー)やらステーキ(スーパーの安いの)やらを持ち出すのだ。なぜそう不必要に自分の趣味嗜好、関心範囲を狭め、敵を作り出そうとするのだろうか? 米のおいしさが分かる人はステーキのおいしさが分からない、なんてことはない。ステーキのおいしさが分かる人はコーヒーのおいしさが分からない、なんてこともない。もちろん、おいしさを分かるためには、おいしいものを口にしたり、ちょっと違った頭の働かせ方をしたりする必要はあるかもしれない。でも、多くの人は大抵のもの(全てというのは難しいだろう)のおいしさが分かるはず、と思うのだ。
 これは、民主主義を信じ、啓蒙的なプロジェクトを信じ、全ての人を信じる人間であるならば賛同できる主張だ。

・ 美人姉妹が参加するセクシー忘年会(ぽろりあるかも)、行けない・・・。なんでも、お土産には五十嵐さんが付くらしい。

・ 「UFO論議」、日本では珍しく大人の余裕を感じさせるネタでした。( 自民党の二階総務会長はマジギレしてたみたいだけど。)

12月19日
・ 2007年のランキング。(オリコン及びトーハン調べ)

 CDシングル(1位):秋川雅史『千の風になって』(111万枚)
 CDシングル(2位):宇多田ヒカル『Flavor of Life』(64万枚)
 CDアルバム(1位):Mr.Children『HOME』(118万枚)
 本(1位):坂東真理子『女性の品格』(240万部=累計)
 本(2位):田村裕『ホームレス中学生』(175万部)
 本(18位):福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(45万部)

 音楽にはネット(PC、携帯)販売もレンタルもあるし、本は「発行部数」と「売り上げ数」で違ったりするのかもしれないけど、それにしても、こう並べてみると、本もけっこう(いや、かなり)頑張ってるなぁ。でも、『女性の品格』なんて、無内容で読んでも意味ないと思うんだけど・・・。「背筋伸ばせ」くらいなら、私目が申し上げ奉りますで御座いますよ。

・ 経団連が賃上げ容認して、ようやく個人消費も上向いてくるのかな。デフレ脱却なるのかな。原油高とか日銀の利上げみたいな不安要因はあるけど。
 それにしても、企業の業績の良さが労働者の給料に反映されるのに時間がかかりすぎじゃないだろうか? 賃金の下方硬直性というのは確立された話ではあるけど、“上方(上昇?)硬直性”というのもあるんじゃないだろうか? しかも、デフレ・不景気の局面だとそれが重要になってくる。労働者の権利侵害(搾取)みたいなミクロな話ではなくて、マクロ経済の観点からして。

12月16日
・ 読売新聞をとってると、よく「21世紀活字文化プロジェクト」関連の宣伝・特集を見かける。彼らが言うには、(活字離れが深刻化していて、)このままでは次世代の思考力や創造力の低下、ひいては人間力の衰退につなが〔る〕(同HP)らしい。マジか!? っていうか、活字なら何でもいいって、もう、最終手段だ。「何読むか」、「どう読むか」がないとどうしようもないと思うんだけど・・・、本当にそれでいいのだろうか?
 若干話は変わるけど、演劇の感想書くとき、一応ネットで他の人の感想を探す。すると、よく、「やっぱり演劇は良いなあ」っていうのを見かける。だけど、これって、褒めるところが「演劇であること」しかないってことでしょ・・・? 水野晴郎のせいでもあるんだろうけど。 

・ 「来月こんなの出るんだぁ、ドキドキワクワク」と出版社のHPを巡ってたらこんなの見付けた。まだ全3回中の2回しか更新されてないけど、とりあえず、参議院議員の鈴木“文部省解体論≒ポピュリスト”寛が入ってることに違和感。それはさておき内容。
 「よのなか科」は素晴らしい実践だと思う。けど、藤原和博が目的の1つとして考えていると思われる、「地域共同体を再生させる」というのはおそらく達成されない。そして、リベラリスト宮台はそれを分かっていて、かつ、その目的には賛同できないけど戦略的に黙認してるように見える。違うかな? 「よのなか科」の帰結(それは、リベラリズムの当然の論理的帰結でもある)は、社会を知り何事も1人で(“答え”を)判断して生きていける人間を作ることであって、自然的共同体みたいなものは、その中で権威とかメリットを得られる人しか守ろうとしなくなるはず。だって、自分で好きなとこ行って好きな人たちと繋がりを作ることが、社会で生きてくための現実的要求を満たす限りにおいて、可能であることを知るようになるはずだから。
 「よのなか科」とは、要は、社会の現実を教える/知るというだけのことだ。(違うなら、そうあるべきだ。) それが希望につながる子供もいれば、それが不安や迷妄につながる子供もいるだろう。でも、これから放り出す社会のこと、あるいは、そこで生きていく知恵を教えないで、何を“教え育て”ようとしているのだ、と思う。( から、「よのなか科」を支持してる。)

・ ところで、上の対談の中での藤原和博の下の発言は爆笑モノ。

  これからの成熟社会は、家族でさえもバラバラになっていきます。簡単に言えば、これから金利が上がると、お父さんはローンを抱えているからすごく困るけれども、おじいちゃんは年金や預金の金利が上がって喜ぶ。円高になれば、輸出の多いクルマ会社に勤めるお父さんはいやだけれども、子どもは海外旅行で得するだろうし、マクドナルドのハンバーガーがもっと安くなるかもしれないからい・・・

 どんだけつながりの希薄な家族だったんだよ! この(成熟社会の)家族は金さえあればつながりを保てるのかよ! しかも、家族内の利害の対立なんて有史以来あるだろう! 勘弁してくれ。

12月15日
・ 今さらながら一言。OECDの国際学習到達度調査をめぐる大人たちの発言を見てると、もう、しみじみと、世も末だなぁと思ったり・・・。そんなクズみたいな大人たちに色々言われる子供たちが本当にかわいそう。でも、まあ、それは誰もが辿ってきた道のりではあるのだ。バカな大人はシカトして、がんばれ子供!( でも、この調査が重要視してる応用力は大事だぞ。ゆとり云々とか、人間像ではなく教育時間とか暗記内容でしかものを言えない大人は無視するのだ。あっ、それ以前に、論理的思考力のない読売新聞みたいな大人は忘却の彼方に追いやっていいぞ。)
 ところで、この調査、10位以下からいきなり5位くらいに急上昇してるのがいくつかあったりしてたけど、どこまで信用できるの?

12月12日
・ 橋下弁護士出馬。選挙を前にして嘘をつく神経は信じられない。それはさておき、曰く、「 家族が崩壊してる!」。けっこう。曰く、「 子供の規律が緩んでいる!」。けっこう。曰く、「 官僚がでしゃばるな!」。けっこう。で、どうやってそれを実現するのか? 体罰?(笑) こういう理念(感情)先行タイプの政治家は、一議員ならともかく、組織のトップに立っても何もできない。まさに安倍前首相のように。竹中平蔵みたいな、理念を政策に落とせる優秀なブレーンでもいれば別だけど、きっといないんだろうなぁ。

・ ちょっと前の某アイドルブログ(おバカ系アイドル)での出来事。 みなさんのお薦めの本を教えてくださいっ!っていう問いかけに対して、コメント欄で至ってマジメに「ゴー宣」を薦めてる人がいた・・・。そんなところで「ゴーマン」かますな・・・。笑っていいやら、恐ろしいやら・・・。 本質的な意味での「他者」という概念が希薄なんじゃないだろうか、と思った。

12月11日
・ 昨晩、大江健三郎講演会詩と小説と生きること(@紀伊国屋ホール)を聴きに行った。機会があるうちに(とは言ってもまだ72歳でかなりお元気そうだったけど)、一度は生でお目にかかってみたいと思っていたのをようやく実現させることができた。Rejoice ! やっぱり凄い人を生で見ると、圧倒されるというか脳細胞が活性化するというか、感動する。「 ああ、この人があの小説を書いたのか・・・」と。その点、飯田圭織とか中野美奈子とか森善朗とかを見ても何も感じないのとは全然違う。( あ、森善朗を見たときは、「ああ、こいつが日本を悪くした張本人か」と思ったか。) 話の方は、演題からして『大江健三郎 作家自身を語る』と同じでおもしろくないんだろうなと思ってたら、違う話(オーデンと深瀬基寛、詩と人生)が中心でいろんな逸話も出てきたりして、意外にもなかなかおもしろかった。( ただ、小説と同様、怒りの対象(と、その裏返しとして光の内実)が抽象的なのは玉にキズ。)内容に関してはけっこう広がりがあって書くと長くなるから、ちょっとだけヨ。
  なんと「浅田彰を尊敬」してるらしい。なんで浅田彰なんか出てきたのか。彼は京大出身。なんで京大の話なんかが出てきたのか。大江健三郎は東大にいたとき前日に急遽決めて京大に行ったことがある。なんで京大に行ったのか。 といったところで(自分の心の中の)紙幅が尽きた・・・。 Rage, rage against the dying of the WRITE(light) ! (→オリジナル
  余談だけど、20~30代くらいの若いお客さんが多いのには驚いた。圧倒的多数を占めると思ってた大江健三郎と同年代くらいの人は逆にそんなに多くなかったように思う。

12月5日
・ 歌に関しては、それぞれが好きな分野に(良い悪いは別にして)タコツボ化していて、もはや国民的な共通体験がなくなっている。だから、もうどうでもいいはずなのだ。にもかかわらず、相変わらず「歌合戦」をめぐる国民的な騒動だけは続いていて、いとおかし。
  個人的には、アイドル系の女の子には興味を持っている。中川翔子リア・ディゾン、AKB48、モーニング娘。、Berryz工房、℃-ute・・・。まさに日本の歌業界を象徴するかのような面々。みなそれぞれに、熱狂的なファンを多数抱えているけれど、国民的にはそんなにメジャーじゃない、という。いや、本当にこの人たちは熱狂的なファンをたくさん抱えているのだ。しょこたん(けっこうメジャーだけど)と黒船は、そういう系統が好きな人たちにとってはクオリティが高いから神のように崇められている。Berryz工房、℃-uteはモー娘系だから想像できるだろう。AKB48は汚れのないベタなキャラクターやイメージでアイドルファンの間で大人気なのですよ。自分の感覚や経験(当然これもタコツボ化してる)から信じない人もいるかもしれないけど、彼女たちがあなたの知らないどこかで大盛り上がりだったのは大袈裟じゃなく事実なのだ。もはやこうなると、「なんでこんな人が出てるの?」という文句は、(あらゆる領域をカバーしてる人以外)誰にも言えないことになる。という結論に至って、なんでリア・ディゾンが!?と言おうと思ったのを止めた。

12月4日
・ 先月、香川の3人不明事件に対する不適切発言をした若手女優の星野奈津子について、誰であれ言語道断な発言(重大な名誉棄損)である上、 一般の人たちに対して影響力の(多少なりとも)ある芸能人なんだから。と書いた。けど、知名度のない女優であることを考えると理由として相当弱いし、そもそも怪しい理由だというのは書いたときから感じていた。で、考えてみれば簡単なことだけど、芸能人であることから派生する問題は、それが仕事上でなされた、というところにある。人格やイメージや知名度や、時にはプライベートまでもが商品価値になる芸能人が、名前を公にして書いているブログは、本人がどう考えていようと、客観的、法的には、それは“仕事”にならざるを得ない。一般の会社員が私的に作っているブログとは違うのだ。だから、一般の人ならよく行ってる行為であっても所属事務所から処分を受けるのは妥当なのである。

12月1日
ニューヨーク・タイムズ紙の「100 Notable Books of 2007」に村上春樹の『アフターダーク』(講談社文庫)が選ばれていた。( 2005年には『海辺のカフカ』(新潮文庫)が同紙の「The 10 Best Books」に選ばれている。) 読んでない。外国で評価されてる日本のもの、外国人が知ってる日本のものを、日本人である自分が知らないの(読んでないの)は恥ずかしいことでもなんでもない。けど、村上春樹は有名だし、自分なりの感想・評価くらいは持ってないと恥ずかしい。文庫化もされてるし、いつか読むか。 あっ、でも、言っとくけど、
  べ、別に、アンタなんかに言われなくったって、もともと読むつもりだったんだからねっ!(`ω′) 勘違いしないでよねっ!(`ω′)
  それにしても、(一応)文学作品でもあり、不思議で頭ではよく分からなくても、村上春樹はよく読まれてるなぁと思う。魔力だ。川端康成はさておき、大江健三郎とはかなり対照的な村上春樹がノーベル賞取ったらおもしろいなぁと思う。日本人の変化を象徴してるようで。( と思ったら、大江健三郎も、初期の実存主義的な作品というより『M/T~』とかが評価されたんだったっけ。なんだ。村上春樹受賞にとっては好材料かもしれないけど。)

・ 同じくニューヨーク・タイムズ紙の、経済学者ポール・クルーグマンのコラム「Mandates and Mudslinging」(2007.11.30)を読んだ。国民皆保険の健康保険制度が強制加入でないといけないことをわざわざ言わなくてはいけないなんて、大変だ。(オバマの政策についての話。) 下の文が、善意の意図とそれに反する帰結を端的に言い表している。

 As a result, people who did the right thing and bought insurance when they were healthy would end up subsidizing those who didn’t sign up for insurance until or unless they needed medical care.
 In other words, when Mr. Obama declares that “the reason people don’t have health insurance isn’t because they don’t want it, it’s because they can’t afford it,” he’s saying something that is mostly true now ― but wouldn’t be true under his plan.
 
 拙訳 結果として、健康で医者の必要がないときに保険に加入するという正しい行いをした人たちが、医者の世話が必要になるまで保険に入らない輩たちに援助を与えることになるのだ。
 オバマ氏は、 健康保険に入らない人たちは、入りたくても貧しくて入れないのだ と言う。しかし、それは現状についての真実を語っているかもしれないが、彼のプランの下での真実にはならない。

 
・ アイドルネタが多いけど、今月も〈自由帳〉続けます。

 サミュエル・R・ディレイニー 『アインシュタイン交点(伊藤典夫訳/ハヤカワ文庫SF、1996年)
 
 
 ネビュラ賞を受賞した1967年のSF小説。

 量的にではなく、質的に読み応えがある。
 
 
 ※ アマゾンのレビューをはじめ、「分からない」という感想が多く、“分からなくていい”という連鎖が起こっている。嫌だ嫌だ。そんな状況に微力ながら一石を投じる。
 
 
 遠い未来の、人間が住まなくなり、異星生物が住み着くようになった地球が舞台。

 ストーリーの大枠は、欧米では馴染み深い“聖杯伝説”に基づいている。

 すなわち、若き主人公ロービーは、笛のように音楽を奏でることもできる剣を持ち、恋人を殺したキッド・デスを殺すための旅をする。そのキッド・デスは、あたかも神になるかのごとく、全てを支配(コントロール)しようとしている。が、そのためには“音楽”(※これが何を意味してるかは後ほど)を司るロービーと“創造”を司るグリーン=アイの助けが必要である。

 このロービー対キッド・デスという大枠がまずある。

 ちなみに、神話的には、ロービーがキッド・デスを殺すことができれば、新しい世界が開けてくるだろうと推測できる。

 一方で、この旅の過程で、ロービーは世界の真実を知っていく。

 この世界では、“違っていること”が蔑視の対象になっている。

 この“違い”とは、以前地球に住んでいた人間との違いを意味している。したがって、この異星生物たちは自分たちを人間に近づけようとしている。

 人間のような種になりそれを維持するべく異星生物たちが行っているのが、乱交と人工授精による種の“コントロール”である。

 この人間世界の価値や思考に捕らわれた異星生物たちを解放する役割も、ロービーが背負っている。

  死はない。あるのは音楽だけ (p145)

  死はなく、愛があるだけ (p134)

 つまり、“音楽”とは“愛”を表し、“音楽”を奏でることができるロービーは“愛”を司っているのである。

 そのロービーが(コントロールを司る)キッド・デスを倒し、世界の王座を占めることは、“愛”がこの世界の新しい支配原理になることを意味する。

 “愛”という、この異星生物たちにとってのありのままの自然な感情がこの世界を席巻するとき、異星生物たちは、人間(が有していた価値や思考)というくびきから解放されて、自分たちの世界/地球を確立することになるのだ。

 そして、これこそが、アインシュタイン曲線とゲーデル曲線の交点をゲーデル的に超えていくということだ。(※ ゲーデルの理解が間違っていることは著者自身が認めている。)

 さらば、人類! さらば、人類の地球! そして、愛が溢れる新しい地球へ!
 
 
 そう、自分は解釈した。

 柿喰う客・第11回公演 『 傷は浅いぞ 』 作・演出:中屋敷法仁2007年11月14日~26日@王子小劇場
 
 
 注目の若手劇団「柿喰う客」の第11回公演は、アイドルを題材にした4人芝居。
 
 
  ※ 以下、まだ上演中だけどネタバレあり。
 
 
 この芝居、つまりは、アッキーナ、頑張れ!」ということですか。 (※ アッキーナおよびアッキーナの“傷”を知らない人は、「Wikipedia―南明奈」を参照。)

 こう理解すると、最後の、実はアユミが(死んでたはずの)アキナだった、という不可解な結末にも納得がいく。

 すなわち、“傷ついた”南明奈(=アキナ)を肯定するために、傷を乗り越えて頑張るアユミ(偽名)を実はアキナだったことにした、と。( それでも無理筋ではあるけど。)

 実際、話の中のアキナもマネージャーと恋愛関係になっている。( この逸話はけっこうさらっと流されてたけど、アッキーナを知ってる自分は聞き逃さなかった。)

 この解釈をこじ付けだと思う人のために、間接的な証拠も示しておこう。

 この芝居の作・演出をしてる中屋敷法仁はグラビアアイドル好きだ。南明奈が解雇されたことも知っている。好きなアイドルはほしのあきとか大友さゆりとか、正統派アイドルではない。で、性格がひねくれている(よね?)。

 と、くれば、“傷ついた”アッキーナをあえて擁護しようとすることは十分にあり得る。
 
 
 さて、そんな「アッキーナ、頑張れ!」な芝居がどうだったかというと、つまらなかった。

 言ってることは、「 スキャンダルとか体の外傷とかの“傷”なんて表面上のものにすぎないんだから、大した傷ではない(傷は浅いぞ!)」ということだけ。

 単純でありきたり。

 75分の4人芝居でこれしか言わないのはきつい。

 それに、“傷ついた”アイドルへの支持を求めるには、論拠が薄弱。

 さらに、話の展開や構成も、実に単純。( 過去の傷の説明、頑張るアユミの勇姿が8割、最後の2割で「傷は浅いぞ!」と主張。)

 その上、いつもの「柿喰う客」の笑いやら下ネタやらをかなり抑えているとくれば、見るべきところ、楽しみどころはほとんどない。( “笑いやら下ネタやらを抑えた「柿」”というのは見どころではあるけど。)
 
 
 4人でも役者陣の勢いは凄まじくて、観る者を全く飽きさせないのだけど、さすがに内容がないといかんともしがたい。

 いつも通り期待してただけに欲求不満。次回作に期待。

 追記:次回作はよかった

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