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大江健三郎 『小説のたくらみ 知の楽しみ』 (新潮文庫、1988年)
1983~1984年に雑誌に連載されていたエッセーを集めたもの。
創作法、読書法、作家論、日常生活、昔の話などについて率直に(しかし下品にならずに)語られていて、楽しく読める。
この作家の初期の作品のイメージからは想像できないくらい、過剰な自意識といったものは見られない。
そして、プロの作家が他の作家をどう見て、小説をどう読んでいるか、あるいは、自身の作品をどのように考えて創ったのかといった、一般読者にとっては非常に興味深いけど当人としては話しにくいだろうことを包み隠すことなく開陳してくれている。
その具体的な内容は、特別講義のために滞在していたアメリカでのこと、選考委員を務めていた芥川賞のこと、(おなじみの)エリアーデやブレイク評、(珍しいし意外な)ヴォネガットやケルアック評など。
これらに自身の経験や自身の作品の話などが結び合わされている。
実際、読んで(読書の手引き以外)特に何を得られるということもないけど、読んでるときは楽しい時間を得られる本。これぞエッセー(集)の効用。
全自動百科事典『オートペディア(Auto☆pedia)』の説明に依りながら、私自身のことについて簡単に紹介させて頂きます。(全文は「ST25-Autopedia」よりお読み頂けます。※内容は日によって変わります。)
ST25(1920年 - )はフェアリーランド出身の海外の有力な画家、文学者。 月曜日や満期日当日との関係が有名であり、前営業日の分野で高い業績を上げている。また、無料や日に関する重要人物としても知られている。
この点については改めて説明の必要はないでしょう。
続いて、生涯に関して。
〈世間への登場〉 月曜日の分野で活躍し、世間での注目を集める。
〈絶頂期〉 後にST25の代名詞となる満期日当日の分野での活躍で、ST25の名は世間に定着する。この時期、世間では「 購入時に出てくる備考欄に明記の上、注文して欲しい 」という意見が目立っていた。
〈現在〉 現在ST25は前営業日の分野で活動を続けている。
今思えば、絶頂期に世間の要求に逆らって署名欄に明記しなければ、さらなる活躍が可能だったかもしれません。ちょっと惜しいことをしました。
次に、年譜よりいくつか抜き出しておきます。
1920年にフェアリーランドで生まれた。
1935年に日本ペンクラブが発足。初代会長を島崎藤村と争って負ける。
1955年に広辞苑の初版の編纂に携わる。
1973年にノーベル物理学賞を受賞。
1980年に山口百恵の引退コンサートに涙する。
1997年に香港の返還に尽力。
2007年に「○○王子ブーム」に便乗。「ST25王子」と名乗るが注目されず。
今年は末広がりの「八」が二つ並ぶ、米寿になる年。一体どんな一年になるのでしょうか。
さて、最後に、主だった私に関する発言を紹介しておきます。
「 振替日は毎日指定されている。 」
「 金曜日に申込をされた満期日当日、ST25は月曜日となる。 」
「 各席限定数であるので、申し込み多数のST25は抽選となることがある。 」
どれも私という人物を考える上でとても重要です。それにしても、言い得て妙です。
いかがでしょうか。私についてよく分かって頂けましたでしょうか。
分からないという方は、おそらく、私の側の説明の問題ではなく、あなた自身のどこかに問題があるのが原因だと思われます。まず、あなた自身について全自動百科事典『オートペディア(Auto☆pedia)』で調べてみることをお薦めします。月曜日以外も無料ですし、振替日は毎日指定されているので安心ですよ。
ナシーム・ニコラス・タレブ 『まぐれ――投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか』 (望月衛訳/ダイヤモンド社、2008年)
「 自信満々で、自分の知性を信じきっているやつらはいじめてやろう 」をモットーとする大学教授兼トレーダーである著者が、生存バイアスや非線形性など様々な偶然のあり様について、副題のとおり、主に投資家の思考や行動に関する逸話を中心に書いた読み物。
改めて、というより、思っていた以上に、偶然が支配している現象が多いことに驚いた。
けど、その一方で、何でもかんでも「科学的/統計的に確かではないから偶然」としてしまうのも極端すぎて愚かしいように思える。(著者がそのバランスをどの辺りで図ろうとしているのかは分からない。)
もし、統計的に厳密な基準のみを採用したら、社会科学が対象とする事象のほとんどは「偶然」で片付けられてしまって、(程度は様々ながら)何度も起こらないけど重要な事象(例えば、大恐慌とか革命とか)を対象とする社会科学なんてものがそもそも成り立たなくなってしまう。
とはいえ、運を実力と勘違いしたり、偶然を必然と勘違いしたりする輩が多いこと(特に株と経営系と歴史系)を考えれば、まぐれの重要性を説くこの本は、アメリカのいろいろな有名人が絶賛しているとおり、有意義だと思う。
ただ、個人的には読み物としてそれほどおもしろいとは思わなかった。
清水義範 『早わかり世界の文学――パスティーシュ読書術』 (ちくま新書、2008年)
タイトルから想像されるような教科書的に世界の文学を解説している本ではなく、小説・文学のおもしろさをエッセー風に綴っている本。(実際、若者向けの講演3本とその補論から成っている。)
語られるのは、模倣(パスティーシュ)、人間理解力や論理的思考力の涵養、作文・創作の方法、世界十大小説、ユーモア、といった視点から。
これらの視点自体も正しいものではあるけど、何より、そうして語られる小説や有名文学作品が(全てではないにしろ)魅力的でおもしろそうに思えるところが素晴らしい。(例えば、『坊ちゃん』が次男かどうかなんて小説の本筋とは関係なく、どうでもいい。)
中でも、「私が決める世界十大小説」は一作品一作品の紹介は短いながらその魅力が見事に伝わってきて、どれも(多くは初めて、いくつかは改めて)読んでみたくなった。
それから、著者自身が書いた本も読んでみたくなった。(追記@3.23:思ったほどおもしろくなかった。)
前回取り上げた『シェイクスピアのたくらみ』(岩波新書)も、同じ文学作品の読解本であって、しかも視点の正しさという点も同じだった。だけど、作品のおもしろさが伝わってくるか否かという点ではすごく対照的だった。
視点が正しいだけではダメでその対象のおもしろさを如何に伝えるかが重要だなぁ、なんてことを本の感想を書き散らしている者としては改めて考えさせられた。(言うは易し行うは難し。)
そして、学校教育の作者名と作品名(とせいぜい粗筋)を覚えさせるだけの文学史なんてまーったく意味ないなぁと思った。例えば、1918年に米騒動があったことを覚えておくと色々と思考と想像が広がるけど、トーマス・マンという人が『魔の山』という小説を書いたというのを覚えていても思考と想像は広がらない。
それにしても、自分にとって読書とは学校で学んだことを否定する営みなんじゃないかと、けっこうマジメに思ったり・・・
喜志哲雄 『シェイクスピアのたくらみ』 (岩波新書、2008年)
シェイクスピアの19作品を登場人物と観客の距離という観点から読み解いている本。
そこから見えてくるのは主に次のような理解。
「 シェイクスピアは特定の人物の肩をもったり、特定の主張を支持したりすることを、徹底的に避けているという事実である。シェイクスピアは、どれほどの悪人でも全面的に否定したりはしないし、どれほどの善人でも全面的に否定したりはしない。 」(p4)
(古今東西相当な研究の蓄積があるだろう)シェイクスピアの専門家のくせにこの程度の浅い(素人でもできそうな)読解なのか、という軽い失望感はある。
とはいえ、この理解自体は正しいと思う。(例えば、「ヴェニスの商人」のユダヤ人シャイロックの描き方。)
ただ、この本からは、作品のおもしろさ、著者の高揚感がまったく伝わってこない。
つまり、この読解を知ったところでシェイクスピア作品をさらにおもしろく楽しめるようになることもないし、この本を読んだところでシェイクスピア作品をおもしろそうだと感じることもない。
著者が目をつけたポイントがおもしろさに大いにつながってると思うだけに、残念。
なにはともあれ、シェイクスピアの全戯曲は40くらいしかないし、その上一つ一つは短いから、少しずつ読み進めていつかは読破したい、との思いを新たにした。