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枝野幸男 『「事業仕分け」の力』 (集英社新書、2010年)
「事業仕分け」の陣頭指揮を執り、その後、行政刷新担当大臣になった民主党議員による、「事業仕分け」に関する簡単な解説書。
マスコミや利害関係者の、センセーショナルな、あるいは、党派的な報道や主張だけでは分からないところまで冷静に説明されていて有益。
ポイントの1つは、事業仕分けの目的が、仕分けの対象とされる事業の存在意義自体を問うことではなく、その事業の目的を達成するための手段の合理性や効率性を判断していたこと。 (目的合理性の判断。)
ポイントの2つ目は、限りある国民のお金を使う以上、その事業自体の存在意義や成果は、お金を使う方こそが、国民や仕分け人をしっかり納得させられなくてはいけないということ。 (挙証責任の転換。)
この前提が国民の間でもっと共有できていれば、事業仕分けについての様々な報道のとらえ方ももっと生産的なものになっていただろうに、と思う。
それにしても、事業仕分けに絡んで、改めて思ったのは、みんな自分に関することだけはお金を減らされないように必死だなぁということ。 (ノーベル賞科学者しかり、稲葉振一郎しかり。)
彼ら自身としては、本当に悪気なく純粋に、お金を減らされたら酷いことになると思っているのだろうけど、事業仕分けに対する国民の支持が高いのは、(優しさで)そういうミクロの個々の事情ばかりくみ過ぎていると、全体(国の財政)がどうすることもできないくらいの状況まで来てしまう、というか来てしまった、ということを感じているからだと思うのだ。
厳しい時代なのだ。( もちろん、それまで無駄遣いをしてきたことの報いを国民全体が受けているだけで自業自得、と言えなくもないのだけど。)
今田洋三 『江戸の本屋さん』 (平凡社ライブラリー、2009年)
本好きなら思わず興味を惹かれてしまうタイトルのこの本は、1977年に出版されたものの再刊で、江戸時代の、本を取り巻く人々(出版=販売、書き手、読者、幕府など)や環境が包括的に分かるものになっている。
作品を勝手に真似されるのを防ぐ自衛的な(今の著作権と似た)取り決めがあったり、人気のある書き手を一つの(出版も販売も行う)店が独占的な約束を交わして囲い込んでしまったり、幕府が規制・取締をしたりと、現在と似ているところもあれば、貸本・写本が一般的だったり、同一人物がやたらと筆名を変えていたり、出版と販売が一体化していたり、移動が不自由で流行に時間的なズレやローカル性があったりと、現在と違っているところもある。
勝手に現代とのアナロジーで思い描いてしまう害や愚を取り除いてくれて有益で、読み物としても学術論文的な堅いものではなくてなかなかおもしろかった。
それにしても、前近代だけあって、やはり、幕府は思想・良心の自由、表現の自由のようなものは認めず、シモ関係、幕府批判などは(時に厳しく)取り締まっている。 しかし、その一方で、お触書程度のものなら本屋が無視していたり、なんだかんだで幕府をおちょくったりして捕まるような人がしばしば現に出てきていたりという側面もある。
両方の側面があると言ってしまえばそれまでだけど、町人文化が花開いた前近代たる江戸時代は果たしてどう理解すればよいものだろうか。 歴史はなかなか一筋縄ではいかない。
複雑な関係になっている居酒屋の店員たちが勢いと笑いを生み出しながら怒濤のごとく駆け抜けていく芝居。
ストーリーはほとんどないけど、その威勢の良さとおかしさは( 最初の猫の場面以外、)一貫して衰えることなくノンストップで、おもしろかった。
ただ、劇中、猫の場面で本物の猫が出てきたり、風呂の場面で女性の役者が上半身裸で出てきたりしたのだけど、両方とも、芝居の展開の上でも作品の出来の上でも、それらを用いることの必然性がなく、逆に、これで刺激とか衝撃とか面白さを与えられてると思ってしまっているその浅はかさに、痛々しく思ってしまった。
公の場で見せてはいけないものを見せるというのは、( 性的なものの場合は特に、 )小学生でも考え付くレベルの、人をおもしろがらせる手法で、その発想自体はかなり素朴なものだ。( 小4の時、机の上に乗って下半身をさらしていた男子クラスメイトたちが思い出される。 ) それだけに、それを劇中で用いるのなら、どのようにそれを使うのかというのが問われてくる。
その点、この芝居は小4男子のレベルを超えるものではなかった。 ( ちなみに、これはお笑いでも同じで、大学の学園祭で下半身を露出した極楽とんぼの笑いは小学生レベルだ。)
そんなわけで、メインのところはおもしろかったけど、それ以外のところで余計なことをしてマイナスの評価を与えてしまっている芝居だった。
竹内政明 『名文どろぼう』 (文春新書、2010年)
読売新聞の「編集手帳」の執筆者が、味のある機知に富んだ文を軽快にたくさん紹介している本。
文章なんて所詮は既に存在している言葉の組み合わせにすぎない。 そう考えると、もはや、おもしろい短文を生産するのは不可能なのではないかと思ったりもする。 けれど、この本を読むと、言葉の可能性がまだまだあることと、おもしろい文を生み出せる凄い人たちがいることを思い知らされる。
著者自身が書き下ろした本を読んでみたいとも思うけれど、この本はこの本で、名コラムニストが選びまとめ上げたらしい小気味良い一冊になっている。
最後に、この本で引用されている中で自分が好きなものを一つ。
「 ドリトル先生の物語で、先生の飼っている犬と豚がケンカをする。 犬が罵って言った。
『 トンカツの生きたの! 』 ( ロフティング/井伏鱒二訳『ドリトル先生アフリカゆき』 )」(p126)
酒井雄哉 『一日一生』 (朝日新書、2008年)
山の中を7年かけて4万kmほど歩き、最後に90日間お堂にこもり、食事やトイレや1m四方の縄床での2時間の仮眠以外の1日20時間以上の時間を、念仏を唱えながら阿弥陀仏の周りを歩き続けるという荒行「千日回峰行」を2回やり遂げた、天台宗大阿闍梨によるエッセイ。
これほどの修業をした人はどんな考えに至るのかということに興味があったのと、そんな人の言葉を論破してやろうという気持ちから読んでみた。
悟ったような偉そうなことを大上段から言ってくるのかと構えて読んでみたら、あまりにも肩の力の抜けた威張らない言葉の数々に拍子抜け。
「 「千日回峰行を経てどんな変化がありましたか」とよく聞かれるけど、変わったことは何にもないんだよ。 みんなが思っているような大層なもんじゃない。 行が終わっても何も変わらず、ずーっと山の中を歩いているしな。 」(p15)
といった調子。 しかも、わざと澄ましてクールぶっているということでもない。
そんなわけで、言葉の一つ一つに深さや新しさはないけれど、背伸びをしない生き方や発言に感心した。