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 ここのところの世間の注目は、秋田の豪憲君殺害事件と村上ファンド代表による証取法違反事件に注がれている。

 しかし、問題がはらむ重大さという点でこれらの事件に勝るとも劣らない重大な事件があった。

 アイドルの話ではない。

 暴力団関係者によるルポライターの長男に対する傷害事件である。事件の概要は以下の通りである。

ルポライターの溝口敦さん(63)の長男(33)を刃物で刺してけがを負わせたとして、警視庁と三鷹署は1日、東京都日野市、上野孝夫容疑者(53)と養子の上野浩容疑者(43)を傷害容疑で逮捕した。両容疑者は指定暴力団山口組傘下団体の関係者で、山口組に関する記事を巡るトラブルが背景にあるとみて調べている。 (毎日新聞6月1日)

 これは、巷に溢れる暴力団が起こしたただの事件とはその本質において全く異なる。

 この事件は、“暴力”によって自由な社会の基礎たる“表現の自由”を脅かす、日本社会、ひいては、人類の歴史への重大な挑戦である。

 果たして、どれだけの人がその重大性に気づいていたか?

 暴力団と、マスコミ・言論人に苦言を呈したい。
 
 
 
 暴力団は“アウトロー(outlaw)”に生きる、と言われる。すなわち、一般の社会とは別のルールが支配する世界の中で生きている、ということである。その際、彼ら暴力団は自分たちを自ら「アウトロー」と規定している。

 この「アウトロー」という言葉は一般の社会の“外”という意味である。そして、彼ら自身がそれを自任している。

 ということは、彼らは、あくまで自覚的に「外」に生きているのであって、一般の社会を自分たちのルールに沿って変革することを目指してはいない。

 そのため、一般の社会(市民生活)とアウトローがお互いに関わり合わないことが、両者にとっての“安全”や“平和”や(場合によっては)“共存”のための暗黙のルールとなる。

 暴力団を描いた小説やルポにしばしば出てくる、“暴力団同士の抗争の際に一般の人を巻き込まないように細心の注意を払う”というのはそのルールの具体化の一つである。

 このような観点から今回の事件を見てみると、甚だ滑稽である。

 暴力団に関するルポを書く溝口氏は、当然、多くの暴力団関係者と親交があるだろう。

 この点、確かに、溝口氏が一般の社会からアウトローの世界に一歩踏み出していると言えなくもない。

 しかし、第一に、溝口氏の息子は(おそらく)アウトローとは直接関係のない一般の人である。

 それから、何より第二に、溝口氏の書いたルポは一般社会の読者に向けて書かれたもの(『月刊現代』に掲載された)である。

 一般の社会とアウトローの世界とがお互いに関わり合わないというルールからすると、一般の人向けに何を書かれようがアウトローに生きる人間が気にすることではないはずだ。

 それが、今回の事件では、一般の人向けに書かれたものに対して暴力団関係者が怒り、一般の人に危害を加えたのである。

 ここがおかしいのだ。

 彼らは、あれだけ悪ぶっているにもかかわらず、一般社会の人たちにも“良く”または“ありのままに”見られたいのだろうか?

 「暴力団のオジサンたちは明朗快活、品行方正な“いいひと”ですよ!」とか。

 「暴力団のオジサンもファミレスでエビフライを食べるのですよ!」とか。

 真に滑稽である。

 アウトロー、すなわち、一般社会からは外れた世界の中で生きることを選んだ時点で、一般の社会から“悪”として見られるのは避けがたいことだ。(また、悪と見られる“からこそ”、というのが彼らの心情でもあるだろう。)

 あくまで「アウト(=外)」を自任するなら、一般社会(=内)のルールに背いた場合に一般社会(=内)のルールに従って処理されるのも避けられない。

 もちろん、そこで彼らが、「ならば一般社会のルールを変えてしまえ」となった時点で、根源的な社会秩序に対する脅威としてかなり厳しい刑法上の罪に該当することになるのだが。

 そんなわけで、ただでさえ、一般社会では絶対的な“悪”である暴力団の関係者が、滑稽にも大きく筋を曲げて一般社会に出てきて一般市民を傷つけたという今回の事件は、どこを取ってもただひたすら愚かしい限りである。

 しかも、一般の社会の価値規範の中でもとりわけ重要な位置付けを与えられている“表現の自由”に対して脅威を与えるものなのだから一般の社会(=内)に生きる人間としては黙っていられない。 「内(一般の社会)」の基礎を脅かすようなことをする「外(アウトロー)」なんて、もはや「外」ではなく、「内」に対する侵略者以外の何者でもない。
 
 
 
 
 さて、事件後、幸いにも溝口氏はひるむことなく暴力団について今後も書き続けることを表明している。

 しかし、である。

 この国は、“表現の自由”を侵す重大な犯罪行為に対して、溝口氏一人にその(対抗する)責任や危険を押し付けるのだろうか?

 “表現の自由”が保障されることで初めて成立する新聞、テレビなどのマスコミ、評論家や作家や学者などの言論人といった面々は一体何をしているのだろうか?

 特に、規模の大きい新聞社、テレビ局には先頭に立って闘う責務があるのではないだろうか?

 自分が見た限りでは、大手の新聞でこの事件を社説や一面トップで扱ったものは見つけられなかった。

 読売新聞なぞは、“表現の自由”を守るよりも、「独禁法による新聞の“特殊指定”」を守ることに社説欄を割いていた。

 今回の事件は、所詮、低俗雑誌での話だと思うかもしれないが、“表現の自由”の死守において内容如何は関係ない上、伊丹十三が自身が作った映画のために暴力団に襲われたときの対応は果たして今回と違っただろうか。
 
 
 
 抽象的概念としての“表現の自由”の大切さを認識している人が多いのは間違いないだろう。

 しかし、正面から“表現の自由”に反対する主張を掲げる分かりやすい敵が現われる状況はほとんど考えられない。

 危機は具体的問題に寄り添って生じるのだ。

 とはいえ、“表現の自由”が抽象的概念であることに変わりはない。

 日々の小さな感情、認識、出来事に接して、いかに抽象的概念を適用することができるか?  

 この問いに対する答えにこの世界の存続はかかっている。

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