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阿佐ヶ谷スパイダースpresents 『 失われた時間を求めて 』 ( 作・演出:長塚圭史/出演:長塚圭史、伊達暁、中山祐一朗、奥菜恵/2008年5月8日~27日/@ベニサン・ピット )
夜のように暗く、なんとも閉鎖的な、公園のような空間で、不可思議な4人によって、静かに繰り広げられる、不可思議な人間模様からなる、芝居。
いわゆる、不条理劇。
なんだけど、そこで相対化されるのは、時間、記憶、価値基準、会話など・・・・。
そんなものが相対的(あるいは、主観的)であることくらい、(難しい哲学者たちの名前を出すまでもなく、)誰でも知ってる。
例えば、楽しい時間はあっという間で、つまらない時間はいつまで経っても終わらないこと(つまり、時間が相対的であること)くらい、小学生でも知ってる。高校生にもなればかなり自覚的に知ってる。あるいは、人間同士が100%意思疎通・相互理解することが不可能であることくらい、大学生か遅くとも社会人になれば誰でも強烈な実感を伴って思い知らされる。過去の記憶が一定で平坦でないことくらい誰でも知るまでもなく知ってる。等々。
なのに、こんな程度のものを、大の大人たちが、さも高踏な哲学的なもののようにやるなんて、つまらないに止まらず、恥ずかしい。
いったい、あんたたちはどんだけ悩みのない独り善がりな生を送ってきたんだ。
なんでもありのポストモダンな世の中で、いったい、今さら何をやってるんだ。
思うに、時代は、半周先に進んでいる。
今問われるべきは全く反対の問いだ。
果たして、今の世の中で絶対的なものって何だろう――?
あるいは、ちょっぴり具体的に言い換えるなら、あんたたちが軸・核心に据え(られ)るものっていったい何だろう――?
これを、“説得的に”示せてこそ、意味のある芝居(芸術作品)だと認められる。( もちろん、これが全てではないけど、今回の芝居が挑んだ土俵においてはこれが重要な基準になる。)
(不条理劇だから)ストーリーもなかったけど、他にも何もない芝居だった。( 作った人たちの浅薄で陳腐な実存以外。)