by ST25
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NODA・MAP 第15回公演 『ザ・キャラクター』 ( 作・演出:野田秀樹/出演:宮沢りえ、古田新、藤井隆、橋爪功ほか/2010年6月20日~8月8日/@東京芸術劇場・中ホール )
完成度の高い芝居を作り続ける野田秀樹の最新作。 野田秀樹作品は、(感想書いてないけど、)『ザ・ダイバー』以来。
「紙」に漢字を書く書道教室には「神」がいて、神に狂信的に従う閉鎖的な集団と化している。 そして、その狂信的な集団は悲劇的な結末へと自ら突き進んで行く。
オウム真理教が地下鉄サリン事件へと至る過程を下敷きにした話。
そんな話を、「紙」と「神」を掛けたり、「神」と「袖」の類似性を用いたり、半紙に書いた漢字を偏とつくりに分解してその成り立ちにまで踏み込んで台詞に組み入れたり、書道教室の「神」たちをゼウスを頂点とするギリシア神話の神々になぞらえたり、等々、独創的なアイディアが多数盛り込まれていて、現実やそれと関連するメッセージ性をしっかりと保ちつつも、それだけにとどまらない完全に新たな芸術作品を築き上げている。
狭い舞台の上で役者が使えるのは、人間と小道具だけだけど、その2つのもので想像を絶する無限の表現をする演出も健在で、その都度感心するし、舞台芸術であることの必然性をこれでもかというくらい主張してきて心地よい。
作品のテーマ、一つは「安易さ」。 なぜ、麻原彰晃みたいな俗っぽい人間に心酔してしまうのか。 この芝居では、なぜ無責任で「スク水」好きな胡散臭い変態オヤジにはまってしまうのか。 安易に救いを求める心の幼さ、弱さが人々の中にあるのだろう。 そして、これは、この芝居を観て、「重い・・・」とか「救いがなくて自分の好みではない・・・」とかいう感想を相も変わらず能天気に垂れ流している人たちへの辛辣な問いかけになっている。 のだけど、きっと、いや絶対、届かないだろう。
作品のもう一つのテーマは、「集団性」(主に日本人特有の)。 こちらは野田秀樹の作品に毎回のように顔を見せるものだ。 天才からすると、自分に自信(と才能)がないために群れて「皆と同じ」で安心したい一般ピープルの存在やその心性が理解できないし、許せないのだろう。 天才は孤独でもあるだろうし。 とはいえ、その集団性が、その集団性を保持するために、異質な個人や集団を抹殺せんがばかりに集中攻撃を仕掛ける様は、異様であるし、この帰結を思うと恐ろしくもある。
そんなわけで、あらゆる面で素晴らしい芝居だった。
そして、野田秀樹がしょうもない「演劇好き」たちに対して批判を投げかけているという確信を新たにした。 と同時に、なぜこんな届いてもいないし届きそうもない挑発を続けるのか、そんな状態で虚しくないのか、あるいは、本当に届けるつもりがあるのか、という野田秀樹に対する疑問も生まれてきた。 (その疑問の解決のヒントになるかもと思って、NHKの『爆笑問題の日本の教養』を見たけど薄っぺらくて何の役にも立たなかった。太田と野田が出てあの内容になってしまうのは、どんだけ制作力がないんだと思った。)
完成度の高い芝居を作り続ける野田秀樹の最新作。 野田秀樹作品は、(感想書いてないけど、)『ザ・ダイバー』以来。
「紙」に漢字を書く書道教室には「神」がいて、神に狂信的に従う閉鎖的な集団と化している。 そして、その狂信的な集団は悲劇的な結末へと自ら突き進んで行く。
オウム真理教が地下鉄サリン事件へと至る過程を下敷きにした話。
そんな話を、「紙」と「神」を掛けたり、「神」と「袖」の類似性を用いたり、半紙に書いた漢字を偏とつくりに分解してその成り立ちにまで踏み込んで台詞に組み入れたり、書道教室の「神」たちをゼウスを頂点とするギリシア神話の神々になぞらえたり、等々、独創的なアイディアが多数盛り込まれていて、現実やそれと関連するメッセージ性をしっかりと保ちつつも、それだけにとどまらない完全に新たな芸術作品を築き上げている。
狭い舞台の上で役者が使えるのは、人間と小道具だけだけど、その2つのもので想像を絶する無限の表現をする演出も健在で、その都度感心するし、舞台芸術であることの必然性をこれでもかというくらい主張してきて心地よい。
作品のテーマ、一つは「安易さ」。 なぜ、麻原彰晃みたいな俗っぽい人間に心酔してしまうのか。 この芝居では、なぜ無責任で「スク水」好きな胡散臭い変態オヤジにはまってしまうのか。 安易に救いを求める心の幼さ、弱さが人々の中にあるのだろう。 そして、これは、この芝居を観て、「重い・・・」とか「救いがなくて自分の好みではない・・・」とかいう感想を相も変わらず能天気に垂れ流している人たちへの辛辣な問いかけになっている。 のだけど、きっと、いや絶対、届かないだろう。
作品のもう一つのテーマは、「集団性」(主に日本人特有の)。 こちらは野田秀樹の作品に毎回のように顔を見せるものだ。 天才からすると、自分に自信(と才能)がないために群れて「皆と同じ」で安心したい一般ピープルの存在やその心性が理解できないし、許せないのだろう。 天才は孤独でもあるだろうし。 とはいえ、その集団性が、その集団性を保持するために、異質な個人や集団を抹殺せんがばかりに集中攻撃を仕掛ける様は、異様であるし、この帰結を思うと恐ろしくもある。
そんなわけで、あらゆる面で素晴らしい芝居だった。
そして、野田秀樹がしょうもない「演劇好き」たちに対して批判を投げかけているという確信を新たにした。 と同時に、なぜこんな届いてもいないし届きそうもない挑発を続けるのか、そんな状態で虚しくないのか、あるいは、本当に届けるつもりがあるのか、という野田秀樹に対する疑問も生まれてきた。 (その疑問の解決のヒントになるかもと思って、NHKの『爆笑問題の日本の教養』を見たけど薄っぺらくて何の役にも立たなかった。太田と野田が出てあの内容になってしまうのは、どんだけ制作力がないんだと思った。)
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