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 稲葉振一郎、松尾匡、吉原直毅 『マルクスの使いみち(太田出版、2006年)
 
 
 主流派経済学=新古典派経済学の道具立てを使ってマルクスの経済学を再構成しているアナリティカル・マルキシズム(分析的マルクス主義)こそが現代においてマルクス(の経済学)を生き残らせる唯一の道だという確信の下、座談会形式によってその内容を紹介している本。

 座談会という形式や本の作りからすると一般向けのような感じなのだが、前半から中盤(特に第二章)は経済学の知識がないと少々きつい。第三章は政治哲学的な話になっているから素人の自分でも比較的楽に理解できた。

 著者たちの主流派経済学の道具立てに対する認識は吉原直毅による以下の発言に簡潔にまとめられている。

(新古典派経済学は方法論的個人主義を)科学的分析手法として便宜的に採用しているだけであるのが実態であると思います。ですから、新古典派経済学とは、アナリティカルに経済現象を分析しようというスタイル・方法であって、イデオロギー的なひとつの資本主義認識なり、世界観を共有して、それにもとづいて、イデオロギー的に一貫した経済政策体系を出す学派だとは、少なくとも現時点に至る近年の研究動向を踏まえる限りでは定義できないと思うんですね。 (p44)

 このような観点から、例えば、代表的な分析的マルクス主義者であるジョン・E・ローマーは、企業が国有とも私的所有とも違う公的所有であり、全ての個人に平等に「利潤請求権(運用資金&投資先決定権&利潤分配請求権)」が配分されるという、一人一票が平等に保障される民主主義に似た社会主義を提示している。そこでは、合理的個人が想定され、アクターのインセンティブなどに注意しながら、その“実現可能性”ではなく“実行可能性”が検討されている。

 分析的マルクス主義の世界に初めて接した自分にとっては新鮮な内容ばかりであった。こんなプロジェクトが密かに進められていたとは・・・。

 しかしながら、実現可能性がないことを受け入れているのなら、主流派経済学の道具立てを使うことに意味はあるのだろうか?

 あるとしたら、主流派経済学との接合がなされる限りにおいてであろう。

 しかし、3人の対談者のうち分析的マルクス主義研究者である2人が2人とも(おそらく)社会主義者であるような状況では、この研究を主流派経済学の中に生かしていくことは難しいように思える。前述のローマーが政治哲学的議論に走ってしまったのもそんなところ(実現可能性のなさ)に理由があるような気がする。

 となると、結局、誰が分析的マルクス主義を「使う」べきだということになるのだろうか?

 社会主義の実現を諦めている社会主義者か、社会主義者ではない経済学者、ということになるのか。

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