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ヘルマン・ヘッセ 『車輪の下』 (高橋健二訳/新潮文庫、1951年)
色々な要素が詰まった1906年発表の自伝的青春小説。
子供の気持ちを省みることなく勉強させ型にはめ込もうとする大人たち、誰にも理解されないと感じることで至る孤独と虚無、一歩外の世界に出て出会う刺激的な未知なる人間(友達)、勉強ができることによる身の丈以上のプライドとそれとは対照的な力仕事をしてる人たちの自然な振る舞い、都会の生活に疲れふと帰りたくなる子供時代に過ごした故郷、小さい頃の友達とのまったく気兼ねすることのない関係、つい逃げ出したくなってしまうような慣れない恋愛、等々、時代は違えど今に通じる青春小説の傑作(とまで言うにはもう一歩)。
「 ああ、われはいたく疲れたり
ああ、われはいたく弱りたり 」(p153)
勉強のできる優秀な子供として周りの子供たちとは違う特別扱いを受け、エリートの道を順調に歩んでいた少年ハンスは、(色々な出来事を経て)ふと我に返り自分を見つめ直すことで、他人から与えられた目的に従うだけの自分の人生に虚しさを覚える。そして、勉強のやる気を完全に喪失し、エリートの道から弾き出される。
「 こうして早熟の少年は(中略)、現実ならぬ第二の幼年時代を味わうということになった。 」(p156)
少年には故郷があった。ハンスは、自然溢れる故郷に戻り、およそ理性的とは言い難い力仕事の世界に入る。そして、懐かしい子供の頃と同じ気持ちを味わえるそこに、魂の安らぐ場を見出す。
その荒っぽい世界で若くして荒っぽい死に方で死んでしまうハンスは、最後まで彼の個性を理解できないで嘆き悲しむ大人たちの考えとは異なり、それでも幸せだったのだろう。
理性的な生き方と野生的な生き方、都市と田舎、自由と束縛、理想と現実など、人生を歩んでいく過程で片方を捨て片方を選ばざるをえないものは多い。
捨てたものを忘れて自分が選んだものを絶対化する人もいるだろうけど、捨ててきたものを頭の片隅に残している人も多いだろう。
この小説は、そんな頭の片隅に残っている捨ててきたものたちを(ちょっと理想化した形で)思い出させてくれる。
ああ懐かしい。昔は良かったなあ。(でも捨てざるを得なかったのだ)
ところで、この新潮文庫版は古いためか訳がいまいち。日本語として意味の通りにくい文になってたり、「lover」と思われる単語を「愛人」と訳してたり。(辞書的には「愛人」に“愛する人”という意味はあるけど今では使わない。) アマゾンのレビューを見た感じ、読むなら光文社古典新訳文庫版の方が良さそう。