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by ST25
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 今村都南雄 『官庁セクショナリズム(東京大学出版会、2006年)
 
 
 セクショナリズムを病理だとする単純な見方に対して異を唱え、色々な事例を取り上げながらセクショナリズムの多様な意味を明らかにしている本。

本書で、セクショナリズムの歴史過程、政治過程、そして組織過程について、それぞれ章を分けて考察したのは、何よりもセクショナリズムにかんする短絡的、一面的把握を拒もうとしたからである。セクショナリズムはすぐれて複合的な現象であり、短絡的、一面的に割りきってとらえることなどできはしない。ましてや、それを諸悪の根源であるかのように断定してすますことなど許されることではない。 (p210)

 とのことなのだけど、そもそも(著者が敵と見なす)「セクショナリズムを諸悪の根源」とまで考えている人(や本)はどれだけ存在するのだろうか。

 それに、この本はセクショナリズム一般について論じているけれど、おそらく、セクショナリズムを批判する人も、何でもかんでもセクショナリズムはダメと言っているのではなく、個々の状況を想定してダメと言っているのではないのだろうか。 (この点では、セクショナリズムにもダメなところはあると言っている著者と同じだ。)

 だけど、この本では、論駁対象とする具体的な「相手」について言及されていないし、取り上げられている事例も全てが「セクショナリズムの典型」とされている事例というわけではないから、結局、読んでいても空疎な感じで、新しさ、おもしろさを感じることができなかった。
 
 
 そんなわけで、これといって特に異論反論等、言いたいことはない。

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 ダニエル・H・フット 『裁判と社会――司法の「常識」再考(溜箭将之訳/NTT出版、2006年)
 
 
 アメリカの連邦裁判所ロー・クラーク、民間企業法規部、法律事務所、ロー・スクール教授を経て、現在東大教授である著者が、「日本人は訴訟が嫌いで、アメリカ人は何でも裁判沙汰にする」とか「日本の裁判所は政策判断を伴うような行動には消極的」とかいった「常識」に対して、具体例の丁寧な検討やデータを用いて反論している。

 学術書のような硬い作りではないから読みやすいし、内容もおもしろい。
 
 
 あっと驚いたことをいくつか簡単に。

・訴訟や訴訟の代替手段に関する日本・アメリカ・中国の3ヵ国についての国際比較調査では、ある紛争が発生したと想定して「訴訟か調停か相談か黙っているか」などにについての回答に3ヵ国間でほとんど差はない。日本人が特に訴訟を嫌っているわけでもないし、アメリカ人が特に訴訟を肯定しているわけでもない。

弁護士の一部を除いて、訴訟が楽しいと思う人は世界中どこをみてもほとんどいない。日本や合衆国、中国であろうと、おそらくどの国であろうと、ほとんどの人は、もしできることなら訴訟に訴えることなく物事を解決したいと望むことだろう。 (p45)

 
・例えば、交通事故に関する訴訟率は、日本ではかなり低くてアメリカではかなり高い。しかし、これは「日本人は訴訟嫌い」という文化的な要因によるものではなく、日本の予測可能性の高い裁判と裁判外紛争解決制度の存在によるものである。具体的には、時間等が高コストな裁判、和解の勧試(裁判官が判決の見通しを訴訟当事者に示唆する機会)の存在、裁判官が参照する過失相殺や損害額に関する詳細かつ明確な判断基準・算定基準の存在、事実認定における警察の実況見分の重視、交通事故相談センターといった裁判外紛争解決制度の存在、強制自賠責保険による補償額の標準化など。

こういったさまざまな制度による紛争の見通しがつきやすくなっていることを考えると、交通事故に絡む大部分の紛争が、保険制度や、当事者間の相対交渉を通じて容易に解決され得るのは、驚くに当たらない。そこで解決されない紛争についても、無料ないし低額の紛争解決サービスが存在するとともに、明確かつ詳細で画一的な判断基準が公表されていることによって、訴訟はたやすく代替されてしまうのである。こういった制度的枠組みがあれば、多くの紛争は、訴訟に頼ることなく解決され得ると期待できるだろう。 (p65)

 
・批判的に言われることの多い日本人の法意識・行動様式が、アメリカで好意的に受け取られて改革に際しての参照にされていることがある。

日本のモデル――川島(武宜)が当初紹介したものである――は、合衆国でのアプローチを転換させるにあたって一定の役割を果たした。1970年代、ADR手続きを法定するようになった際、日本での事例がかなり頻繁に参照された。日本の事例は、裁判所の負担を軽減し、より友好的な紛争解決を実現するといった、調停その他の非公式な紛争解決手続きによって得られる効果の理想像として持ち上げられた。 (p34)

 
 
 この本は川島武宜『日本人の法意識』の見方を批判している。ただ、批判に重きを置いている分だけ、日本人の法意識・行動様式に関する全体像を提示するところまでは至っていないという難点がある。

 けれど、それでも川島武宜的「常識」から、新たな「常識」を提示したことの意味は大きい。 (法学の中でもマイナーな分野で、メジャーな分野に影響も与えられない法社会学の分野では、すでに知られていたことかもしれないけど。それにしても、法社会学=法に関する実証研究の弱さは問題だ。法律の解釈において法社会学的な知識や見方は解釈の結論に影響を与え得る。)

 一つには、「日本人は伝統的に争いを好まない人種だ」という日本人論に対して疑問を提示することになる。

 その一方で、近代化のテーゼの下、権利意識の強化や、契約・法律・裁判といった公的制度を安易に持ち出すことの是非についても問題を投げかけている。

 この2つ目の問題は、逆に言えば、「法の分野における近代(化)という未完のプロジェクトは何になるのか?」と言い換えることができる。(さらにハーバーマスの言葉を使って言えば、「いかに生活世界を法律から守るのか?」ともなると思う。)

 法曹人口の倍増、裁判員制度の導入、法教育の推進といった国民の中に法律を浸透させ、また逆に法・裁判制度を国民に近づけることがなされようとしている中で、過度に法律や法的思考に縛られてしまう前に、法世界と生活世界との適切な均衡点を定めるためにも、この問題に答えることが求められる。(特に自分みたいな近代主義者に。)

 すべきことが済んだら考えなくては。

 「テクシー」 : (タクシーをもじった俗語) 自動車に乗らずに、てくてく足で歩くこと。 ( 『広辞苑』より )

 こんな言葉、初めて聞いた。
 
 
 塙花澄さんはテクティらしい。 ( 有力な情報筋より )

 こんなこと、初めて聞いた。

 アルミカンライダース・第4回公演 『東京ダイヤモンド (2007年2月13日~18日、@赤坂RED Theater)
 
 
 このブログが何かとお世話になっている塙花澄さんが出演していた舞台。

 
 
 東京を舞台に繰り広げられる“人と人とのつながり”をめぐる様々な人間模様を、オムニバス形式で描いている。

 いくつかある話の中でも中心的な話において展開されるメッセージは、“ダイヤモンドもゴミになれば、カップラーメンもダイヤモンドになる。そして、それに気付くことが大切。”というもの。

 このメッセージが、両親が離婚しそうな女子高生が東京の様々な人間模様を見て回る中で発見されていく。

 しかしながら、この舞台の見所は、“全体”ではなく、個性的なキャラクターがたくさん登場する“個々の話”である。

 その中でも話のおもしろさが飛び抜けていたのが、渋谷センター街での話とメルヘンな奥さんとその夫との食卓風景。

 両方ともおもしろかったけど、特に、夫婦の食卓風景におけるメルヘンな奥さんの演技は、「おもしろい!」だけではなくて、「すごい!」とまで感じた。

 その奥さんは、現実的なこと冷酷なことをも(メルヘンな)顔色一つ変えずに軽く言ってのける不思議系なキャラクターである。

 こういうキャラクターが出てきたとき、それが素なのか演技なのか、騙されないように注視するのがアイドルファンの習性だ。

 そんなわけで、かなり注意深く観察していたけれど、全く隙、ほころびがなかった。

 すなわち、聞いたことのない横文字がいっぱい出てくる長い台詞を言うのに、普通は台詞にばかり気を取られて油断してしまいそうなものだけど、メルヘンな表情・雰囲気を全く変わることなく保てていた。

 夫に現実的で冷酷な言葉を発するところでも同様に、全く微動だにせずメルヘンな表情・雰囲気を保てていた。

 それはもちろん、台詞が言い終わったときも、歩いたり動作をしたりするときも、完璧にメルヘンな若い奥さんだった。

 メルヘンな役をここまで演じきれる役者およびアイドルは他にはいないと言っても過言ではないと思う。

 この役者が舞台で別の役を演じるとどうなるのかは見たことがないから一般的な評価はできないけれど、それにしても、ストーリー・脚本の内容とは別に、自分がここまで純粋に演技だけを取り上げて感心するのも珍しい。

 そして、それが自分が応援している塙花澄さんだというのが嬉しい。
 
 
 さて、今回、終演後に初めて塙さんにお会いした。

 まず、客席を歩いている姿が、大袈裟な表現ではなく本当に、ふわふわ飛んでる蝶々みたいだった。

 そして、容姿・雰囲気が、これまた大袈裟な表現ではなく本当に、お人形さんみたいだった。

 だけど、これまた大袈裟な表現ではなく本当に、テクティさは全く感じられなかった。

 ヒキタクニオ 『ベリィ・タルト(文春文庫、2005年)
 
 
 元ヤクザである芸能プロ社長が、ひょんなことから出会った家出少女を見初(みそ)めてアイドルとしてデビューさせていく物語。その過程でいろいろな障害に立ち向かう。

 
 
 だけど、その少女がアイドルになろうと思う動機がとりあえずの住処を得るためというような気軽なものであるにすぎないにもかかわらず、その少女はなぜか厳しい食事制限、肉体改造、大手プロによる拉致監禁など数々の苦難に耐えていく。

 前半に出てくる厳しい食事制限、肉体改造とかになぜ耐え得たのかは分からないままだけど、どうやら、後半の拉致監禁とかに関しては、元ヤクザな事務所の社長に対して愛情の混じった全幅の信頼を寄せているからだということが明らかになる。

 ことほどさように、これから大活躍というときになって、少女はあっけなくアイドル業を辞めてしまう。

 そんなわけで、いわば、浅薄な少女のちょっとした冒険記といった趣の話で、物語としてはおもしろさも見るべきところもほとんどない。
 
 
 それに、こんな話に「ベリィ・タルト」というタイトルを付けてしまう時点で、よくありがちな、無理してお洒落ぶってる感じが出てて、古いというか、ダサいというか・・・。

 とはいえ、(タイトルの是非とは直接は関係ないけど、)一応公平を期して「ベリィ・タルト」の説明が出てくるところを引用しておこう。

アイドルは固く焼き上げたパイ生地の中にねっとりと流し込まれたカスタードクリームの海に、身を沈めかけたベリィなんだ。それも、蜜とワインで甘く煮つめられたベリィなのさ。ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキなんて優しい代物じゃない。もっと凝縮され、頭の芯が痺れるほど深くて甘いベリィのタルトなんだよ (p100)

 特に、うまくもない。
 
  
 この本は、中学生とはいえ、大人なところもあって、その感性も信頼できるアイドル・仲村みうが紹介したり薦めたりしていたから読んでみたけど、いまいちだった。アイドル仲村みうの実体験とシンクロするところはあったんだろうけど。

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