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 だるまちっくシアター 『ゴジラ』 (2007年3月7日~13日、@アトリエだるま座、\1800)
 
 
 演技の学校(と言うほどのものでもないか?)の日頃の成果を見せる発表会みたいなものを、ちゃんとお金を取ってお客を入れて行っているもの(だと思う)。

 「い」「ろ」「は」と3組あるうちの「ろ」組を観た。

 役者がメインだから、「話」についていちいち何か言うべきではないのかもしれないけれど言わずにはいられない。

 この『ゴジラ』という戯曲、大橋泰彦という人が作ったもので、1988年の岸田国士戯曲賞を受賞している。そして、として出版されてまでいる。

 Oh ! Really !? (日本語訳: おー!マジかっ!)

 というのも、ストーリーも設定も随所で破綻しているのだ。 (※もちろん、今回の「演出」によってそうなってしまっただけかもしれない)

 言うまでもなく、破綻とは、あの巨大なゴジラと普通の女の子との間に愛が芽生えて結婚までしようとしているという設定のことでも、ゴジラの話にウルトラマンが出てきたことでも、モスラの奥さんがピグモンであることでもない。

 破綻とは、登場人物の性格や考えの一貫性のなさ、話のつながりの欠如のことを言っている。

 例えば、ミステリー小説で、最後になって「 実はこの人にはハンドパワーがあって、だから被害者を殺せたのです 」と明かされるような類いの、前提とかルールのレベルにおける破綻である。 (※これは、矛盾をそのまま示して観客に思考を促すといったような良い意味での「破綻」では、もちろんない)

 では、いくつか例を挙げていこう。

・ ゴジラと女の子は両想いで、だからこそ結婚までしようとしているはずなのに、後半で、なぜか(その女の子のことを愛していた)ウルトラマンとゴジラが「男同士の闘い」をして、どっちがその女の子を手に入れるかを決めようとする場面が出てくる。この場面、「男同士の闘いだから」という言葉で正当化されているけれど、話の流れ上、闘う必然性がないのにいきなりこの場面が出てきて、頭の中に「?」が浮かぶ。

・ 前半、というか話のほとんどで、ゴジラはあらゆる障害を乗り越えて人間の女の子と結婚することを強く決意しているのに、(ゴジラ自身の)父親に「お前は人間の痛みが分からない」と言われただけで、最後の最後(フィナーレ)で、「人間の女の子とは結婚できない」とかいって悩み出す。フィナーレまで、ゴジラのそんな意志の弱いキャラ、知らなかった。

・ ゴジラの扱いが、あるときは「(映画の中の全長50mの本物のゴジラの)巨大さ」を話のネタにしたと思ったら、あるときはその「巨大さ」を無視して「普通の人間(舞台上の人間が演じるゴジラ)」として扱ったりと、設定にばらつきがあって、しかもそれが何の規則性もなく場面ごとに行ったり来たりしているから、舞台上のゴジラのイメージが全く固まらない。

・ 「リベラル」と自称し、若き頃、自らもオタマジャクシと恋をしていて、孫娘のゴジラとの恋にも寛容なところを見せたおばあさんが、そのすぐ後に、ゴジラが子持ちであることを知ってゴジラとの結婚に反対する。おばあさんは「リベラルなキャラ」なのか「保守的なキャラ」なのか混乱する。ちなみに、この舞台には、この「リベラル」のような政治用語が「日米安保」や「国連軍」や「レーガンとゴルバチョフ」などたくさん出てくる。けれど、文脈や使い方からして、これらの言葉を正確に理解しているとは言い難い。ただ単に、その場面に関連しそうな用語を使っているだけだと思われる。
 
 
 これでは、楽しむ以前の、内容を把握する時点でつまずいてしまう。

 That's all. (日本語訳: 以上)

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 「プレコミットメント」ですべきこととして挙げたことのうち、アイドルブログ・ランキングと綿矢りさの小説が終わらなかった。
 
 
 まず、「アイドルブログ・ランキング[2007年1月版]」は、まだ半分も終わっていない。もう本当は[2月版]も作業をしてなくてはいけない時期になっている。

 こんな惨状に鑑み、3月末に[1月版]と[2月版]を同時に完成させるべく、これからは1月分と2月分を同時に評価していくことにした。その方が効率がいい。

 その代わり、[1月版]のアップは3月末にずれ込むことになる。orz
 
 
 「綿矢りさの小説」の方は、なんてことはない。元々優先順位が高いわけではないから、時間があって気が向いたときに読んで感想を書けばいい。

 できれば4月にまでは持ち越したくはない。
 
 
 
 どうも最近、頭の中がごった返してるようでいけない。

 ゲッツ、アンド、ターン。

 アイドル研究家アイドル・あさくらはるか17語っているのを見て、自分も語らないではいられないと思っていた、ヤングジャンプ・全国女子高生制服コレクション、通称「制コレ」。 (詳しくは「全国女子高生制服コレクション―Wikipedia」を参照。)

 2月28日でネットでの投票も締め切られているけど、今更ながら3点ほど。

 
 
 最終候補に残った14名のうち、事務所に所属していないのは(ネットで検索した限り)、近藤ひでこ、ただ1人である。

 というか、事務所に所属しているだけに止まらず、DVDを出していたり、ユニットでCDを出していたり、ハロプロも参加しているフットサルをやっていたり、ブログをやっていたり、と、すでにかなり本格的にアイドル活動をしている人が結構いる。

 そして、制コレについての世間(とはいっても制コレについて知ってる時点である程度アイドルについての知識もある人たち)の感想の半分以上は、(相変わらず)このことについての批判だと言っても過言ではない。

 確かに、「ある程度のレベルも確保できるし、別に素人限定のオーディションでなくてもいい」という意見はあり得る。

 けれど、制コレに関しては、玄人すぎてはダメなのだ。

 なぜなら、本来、制コレは、制服の似合う女の子を探す「“制服”コレクション」だからである。(実際、制服姿の写真や動画で審査される。)

 高校生の制服というものは、「学校という(大人社会からしたら)かなり狭くて限定された世界に生きていること」を象徴的に表している。

 したがって、制服を着ている女の子=学校という狭い世界に生きている女の子とは、つまり、社会に出ていない女の子=素人の女の子である。ゆえに、制服が似合う女の子とは、素人でかわいい女の子、言い換えれば、初々しくて垢抜けてなく、それでいてかわいい女の子なのである。

 こういう、「初々しくて垢抜けていない」、にもかかわらず、「かわいい女の子」であるならば、有力マガジン誌を使って大々的に探す意味もあるっていうものである。

 しかし、今回の制コレの最終候補に残った女の子たちの多くは、かなりの玄人である。

 最終候補に残った女の子たちの制服姿での集合写真や動画が、(リアリティーのない赤いセーラー服のせいもあるにせよ、)エロ本みたいな安っぽさや似合ってなさを感じさせるのはこのためなのである。
 
 
 2つ目の言いたいことは、1つ目のこととも関係する。

 制コレのように一般の人が投票できるオーディションであるならば、一般の人に「投票したい=応援したい」と思わせなければならない。

 オーディションにおいて、人がどういう女の子に対して「投票したい=応援したい」と思うかと言えば、投票することに意味がある場合、すなわち、「自分が投票することで、その子がチャンスをつかめたり、夢が実現できる」と思う場合である。

 であるならば、すでにアイドルとして十分に活動している女の子ばかりのオーディションは、「一般の人が投票できるオーディション」であることの意味がかなり希薄だということになる。

 この点、一般の人たちにとっての制コレの存在意義が問われている。
 
 
 最後、3つ目は、ただ単に「自分がどの子を推すか」ということ。

 さすがに、(玄人が多いとはいえ)制コレだけに、オスカー主催の「国民的美少女コンテスト」とは違って、レベルは低くない。

 とはいえ、飛び抜けている逸材もいないだけに、選ぶのは難しい。

 しかも、写真と動画でイメージが違ったりする。

 そんな中、動画を信じて選んだのは・・・、

 「14. 南結衣」。

 ちなみに、他には、「3. 川原真琴」、「2. 水沢奈子」も良い。

 それとは別に、近年の傾向からグランプリになりそうな子を予想すると、「3. 川原真琴」、「9. 河合いよ」、「10. 飛鳥凛」あたりが有力だと思う。

 制コレはそんなに予想を大きく裏切るような選択はしないだろうけれど、果たして結果やいかに!?

 シルヴィオ・ピエルサンティ 『イタリア・マフィア(朝田今日子訳/ちくま新書、2007年)
 
 
 マフィアの行動原理や、マフィアと政治・経済・一般市民との関係や、マフィアに立ち向かう警察官・検察官など、イタリアのマフィアについて包括的に知ることができる本。

 様々なスキャンダルが伝えられるベルルスコーニが首相に選ばれる国の一面が垣間見れる。ここで描かれるイタリアの社会・政治・経済の現実は、近代国家の体をなしていない。
 
 
 最初、マフィアのルールとして 弱者は守れ/仲間は殺すな、必要ならば手を差し伸べよ/盗むな/他の男のものである女を望むな/常に態度は誠実で礼儀正しくあれ etc. (pp19-20)とか出てくるから、日本のヤクザとは大違いだなぁとか思ってたら、その後で書かれている現実は全然違うものだった。 (とはいえ、日本のヤクザとどっちがましかというのは、どんぐりの背くらべでしかない。)

 日本のヤクザとのアナロジーでは理解できない、イタリアのマフィアの特徴は(上で引用した道徳的・家庭的なルールのほかに)いくつかある。

・一般市民とのつながりが深い。そして、多くの、とまではいかないけどある程度の一般市民がマフィアに好意的でさえある。(本場シチリアでは特に。)

・政治家や警察や裁判官など公的な立場の人の中に、買収や脅迫によってマフィアに協力する人間が多い。

・反マフィアを掲げる政治家や検察官や裁判官には容赦なく脅迫を行い、しばしば殺してしまう。

・したがって、マフィアはかなりの政治権力や経済権力を握っている。

 こんなところ。
 
 
 こんな中、大袈裟な表現ではなく、かなりリアルな話として、自分や家族や親族が「殺されること」が分かっていながら反マフィアを掲げて立ち向かう検察官などが次々登場することには感銘を受ける。

 裏切り者がいるから組織に頼ることもできず、自分だけを頼りに闇の巨大権力に命を賭けて一人立ち向かうこういう人たちの方が、マフィアより「強さ」でも勝っているようにしか見えないのだが、イタリア国民やマフィアはあまり分かっていないのだろうか?
 
 
 映画『ゴッドファーザー』は、映像作品としての可能な限りの「技術」を駆使し尽くした最高傑作だと思うけど、マフィアの現状がこれでは積極的には推しにくい・・。でも、やっぱり、2番目に好きな映画の地位は簡単には変えられない。

 森嶋通夫 『血にコクリコの花咲けば(朝日文庫、2007年)
 
 
 「ノーベル経済学賞に一番近い日本人」と言われ続けていた(今はなき)経済学者の自伝、の文庫版。

 文庫化されているのを見つけて、単行本をすでに持っているけど、すかさず購入。

 3部作のうちのこの第1作では、大学に入るまでと徴兵されてから終戦までが主に語られている。
 
 
 森嶋通夫は、その妻が「解説」で用いている言葉で言えば、「プリンシプル(原理,信条)」と「インテグリティ(誠実さ)」という学究者としては特に求められる倫理観を、(学問以外の)普段の行動においても貫いている。この性格なら、後に学問で大成するのも故無きことではないのが納得できる。

 プリンシプルとインテグリティ。

 激しく共感。
 
 
 それから、同じく「解説」に出てくる、森嶋通夫がよく言っていたという言葉。

高く評価しているからこそ厳しく批判し、その反応を待っているのが分からんかなあ。どうにもならんのなら誰が嫌われてまで批判するか。 (pp293-294)

 これまた、激しく共感。

 自分がこのブログでか弱いアイドル(やその出演作)を批判したりしているのは、まさにこの気持ちから。
(※1.批判する必要がないに越したことはない)
(※2.本や政治家などに対する批判の場合はこの限りではない)
 
 
 それにしても、月1のペースで文庫化されていくのは待ちきれない・・・。分量があるわけではないんだから、3冊まとめて出して欲しかった・・・。(そりゃ、単行本を読み直せばいいわけだけど、新しく出たからこそ読む気も増してくるというものなのだ。)

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