[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
パオロ・マッツァリーノ 『日本列島プチ改造論』 (大和書房、2009年)
出版社のHP上で連載されていた短いコラムを100個集めたもの。
例のごとく、社会問題とかにおもしろおかしくツッコミを入れつつも、何気に物事がよく見えてるのでは?と思わせる冷静さ・冷ややかさを兼ね備えた視線が垣間見えつつも、そんなことよりやっぱり何よりおもしろい!、という特徴が、今作ではけっこうよく出ている。
読み終わった後、言われてみれば、自分のウジウジした思考はなんて愚かで滑稽だったんだ!と爽快な気持ちになれる。
マッツァリーノの本の中では、(大きな差はあるけれど一応順番では、)『反社会学講座』(ちくま文庫)に次ぐ出来。
思えば、デビュー作で見せた「統計漫談」はどこへやらという感じだけど、短いコラムだし、「データ命」の経済学者でもないから、別におもしろければ構わない。
ただ、マッツァリーノといえども誰かに反論しようと必死になって余裕がなくなるとおもしろくなくなる。 というのは『つっこみ力』(ちくま新書)で実証されているところではあるのだけれど、今回の本でもまたその悪い癖が少し出ているのは残念なところ。
それにしても、総理大臣が所信表明演説した直後に辞めちゃったり、農水大臣が顔にバンソウコー貼ってる理由をなぜか言い渋ったり、総理大臣が「未曾有」を「みぞうゆう」って読んでしまったり、少子化担当大臣が子供を作って見せたり、財務大臣がへべれけな状態(に見える状態)で国際舞台の会見に登場してきたり、という現実は、いちいち何か付け加えなくてもそれ自体でとってもおもしろい。
舞城王太郎 『スクールアタック・シンドローム』 (新潮文庫、2007年)
いかにも今風な作家の今風な小説。 収録されているのは、「スクールアタック・シンドローム」、「我が家のトトロ」、「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」の3作。
暴力の伝染、暴力の連鎖の話が中心。 ソマリアはもちろんのこと、ブッシュのアメリカとか厳罰万歳死刑万歳の今の日本の社会状況なんかをも思わせる社会派でもある。
ただ、暴力が伝染・連鎖するメカニズムや理由の洞察は、深くはない。 というか甘い。 「弱い者が恐れて武器を取る」とか「なんとなくイジメたくなる」とか「空気」とか。
そんなわけで、ほとんど、ただカオスな人たちを描いただけの小説。
ちなみに、グロさは今時の(と言ってもここ数十年くらいの)小説やらノンフィクションやら映画やらと比べたら全くどうってことない。
2月5日
・ 「渡り」を禁止するだけなのにどれだけ手間かかってんだよ・・・・。
・ そういえば、J.S.ナイが駐日大使になったねぇ。
・ 久しぶりにKICK THE CAN CREWを聴いたら、やっぱ良いね。 日本の歌手は、曲ごとでは好きなのもあるんだけど、歌手単位でも好きって言えるのは、(アイドルを除くと、)KICK~とDragon Ashとミスチルぐらいなものだ。
で、そのキック・ザ・カン・クルーの「sayonara sayonara」を聴いてて思ったんだけど、この歌、(別に死を歌ってるわけでは全然ないけど、)(自分の)葬式にいいね。 葬式は、アンダーワールドの「Born slippy」で始まって、ベートーヴェンの第九(「歓喜の歌」)をはさんで、最後はキックの「sayonara sayonara」、なんていう構成でどうだろう。 どうせ坊さんのお経なんて、棺桶の中から無意味だとバカにしてるだろうし(笑)
いやもちろん、まだ当面50年くらいは死ぬ予定はないし、葬式は基本的には生きてる側(開く側)の人のものだと思ってたりするんだけど。
スディール・ヴェンカテッシュ 『ヤバい社会学――一日だけのギャング・リーダー』 (望月衛訳/東洋経済新報社、2009年)
社会学者である著者が、シカゴ大学近くのギャングが支配するコミュニティに入り浸り、ギャングのリーダー、その手下たち、ホームレス、売春婦、ヤク売り、自治会長、住民、警察などが作り出す一般世間とは全く異なる「別世界」の様子を、彼らと交流を深めていき、生々しくレポートしている本。
そこでは、ケガ人が出て救急車を呼んでも来てくれないし、警察は来たとしても住民たちから金を巻き上げに来るぐらいなものという、日本に住む者からするとにわかには信じられないような現実が繰り広げられている。
そして、政府や警察や法律の代わりにそこを支配しているのがギャングたちだ。 彼らは、ホームレスや非合法な商売をしている人たちや不法占拠の人たちを含む「住民」たちから「税金」のようなものを強引に集め、その代わりに(ということになるのだろう)、そのコミュニティの最低限の秩序を保っている。 例えば、売春婦が立っていい場所を決めたり、売春の客が金を払わなかったら痛い目にあわせたり。
とはいえ、もちろんそこはギャングだけあって、ただでさえ貧しいそこの住民たちに対してでも、慎みや情けのようなものはほとんどない。
その他にも、生きることに必死なために起こるかなり利己的な行動があったり、その一方で住民同士の助け合いがあったり、かなり過酷で悲惨な環境下での様々な人間模様が繰り広げられている。 そして、登場する一人一人に様々な人生経験や考え方があったりする。 そんなことも筆者との交流の中で語られている。
そんなわけで、読み物としてもおもしろい。
そして、もちろん、アメリカの現実、政府のガバナンス、権力というもの、人間というものなど色々なことを教えてくれるという点でも、とても興味深くておもしろい。
短めの作品2本立ての芝居。
まず『月並みなはなし』。
(けっこうスピーディな)同じ動き、同じ台詞を同時に右半分と左半分の2ヵ所(2グループ)で演じ、たまにずらしたり、2つが1つに混じりあったりという演出は独創的だと思うし、それを見事に演じきっていた役者たちの力量はすごいと思った。
だけど、(正直言うと、)おもしろくはなかった。
タイトルが「つきなみなはなし」だから、ということでもないのだろうけど、話におもしろみがなかった。
月に行きたいいろんな人がいるだけ。 その状態が発展したり深まっていったりしないのだ。 最後のオチもなんだかなぁという感じだし。
そんなわけで、演者たちの動きと動かせ方だけで楽しませるストリートパフォーマンスを観てるみたいな、そんな印象を持った。
それから『ソヴァージュばあさん』。
ヨーロッパの片田舎の一軒の民家を舞台にした、『月並みなはなし』とは打って変わって少人数(4人)での静かな作品。
こちらは「ソヴァージュばあさん」役の菊池美里の名演に尽きる。
もはや人生に大きな希望や喜びをもつことを止め、諦念の中で静かに淡々と生きる( ているつもりだった )おばあさん。 そして、そんなおばあさんの自分でも処理しきれないような感情の昂りと困惑、そして、破滅的な自己主張。
そんなことがよく表現されていた。
男性3人は、昔のヨーロッパの軍人っぽくなく、“夏休みに避暑地に遊びに来ている現代の日本の学生たち”に見えた。 「具象」だの「ギムナジウム」だのといった使い慣れない言葉を持て余してる感じもしたし。
それにしても、話は飛ぶけど、(何回行っても)小劇場に行くたびに感じるアウェイ感が今回はいつも以上に強かったのはなんでだろう??? 眠かったからだろうか??? よくわからない。