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佐々木紀彦 『米国製エリートは本当にすごいのか?』 (東洋経済新報社、2011年)
『週刊東洋経済』誌の記者である著者が、休職してスタンフォードの大学院で修士号を得た2年間の留学経験をもとに、アメリカの大学教育から、留学生の生態、各国の人々の特徴、歴史を学ぶ意義、国際政治、現代の日本人論と、さまざまなことを語り尽くしている本。
話題は多岐に渡っているけれど、その基本はあくまで留学中の体験であって地に足が着いており、さらに、著者の論理的な分析と大胆な抽象化、記者としての文章の巧みさによって、読み応えのある面白い本になっている。
アメリカの大学・大学院(おそらく上位レベルの学校だけな気はするが)は、事前に大量のリーディングの課題を課した上で、授業では議論を積極的に行う。著者によると、アメリカでは、学部生でも最低480冊は本(といってももちろん学問に関連するもの)を読まされる。
大量のインプットと大量のアウトプットが「米国製エリート」の知的能力を押し上げている。自分の経験からも、この方法は、(やってる最中はかなりキツイけど、)かなり効果的だと思う。そして、この学習法が身に付くと、その後の人生において、自分なりの課題や興味を発見次第、自分自身で勝手に勉強することが可能にもなる。これこそが、一生役立つ、大学で身につけるべき能力だと思える。
翻って日本の教育では、大学入学までは受験勉強という、「“教科書”という聖典があって、それをひたすらインプット(というか丸暗記)する」という学習を行う。
思うに、このやり方の問題点は2つある。(もちろんメリットもあるけれど。) 1つは、インプットしなければいけないものがあらかじめ与えられていること。そのため、何をインプットするべきか自分で考えたり探したりする必要がなく、また、常に何かしらの「教科書」のような「正解」があると錯覚してしまう。
2つ目の問題点は、「テストによって暗記したかを確認する」という意味ではなく、「頭に入れた知識を活用する」という意味でのアウトプットの機会がないこと。そのため、頭に詰め込んだ大量の知識が後々に活かされることがなく、また、活かす場がないことにより、知識が有機的に体系化されずに個々別々のものとしてしか存在しえなくなってしまっている。(「トリビア」だとか「雑学」だとかがやたら持てはやされ、入試でもそのようなことを訊いてくるのは、そんな知識しか持てていない日本人の具体例かもしれない。)
著者の言うとおり、日本は大学受験まで必死に勉強させられるから大学では遊び、逆にアメリカでは高校の時に遊んで大学では必死に勉強するという違いがあるという面もあるのだろう。そして、これは、受験する人が多く、皆が勉強することになり、その結果平均的な学力が高くなる日本と、大学に行くエリートだけが勉強し、エリート層の知力は優れているアメリカという違いを生んでいるのかもしれない。
ただ、日本の政界や財界やマスコミなどの人々を見るにつけ、日本の大学教育もアメリカに見習うべきところは見習ってほしいと願わずにいられない。