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 原武史 『滝山コミューン一九七四(講談社文庫、2010年)


 東京都東久留米市の新興巨大団地・滝山団地の住民のために開校された市立第七小学校で、筆者が小6のとき(1974年)に経験した、ある種、異様な、しかしながら、本質においてその後の教育にも受け継がれていた「学校教育」について、その内部にいたものによる詳細なノンフィクション。

 その教育は、ソビエト連邦的な「集団主義」と、全共闘世代が理想とした「戦後民主主義の実践」を徹底的に追求するものであった。

 しかし、その教育に批判的でそこにおいて疎外感を感じていた筆者が描くその実態は、「集団主義」を崇高な理念とし、そこから外れる者を敵、劣等種族とみなすファッショな空間と、上(一部の指導者、一部のクラス)から押し付けられ完全に形骸化した「民主主義」(の真似事)であり、スターリニズムの実践でしかなかった。

 それにもかかわらず、そんな教育が行われえたのは、全共闘世代の理想に燃える教師たち、何もない新たな土地にやって来てその土地で自分たちの理想通りの学校を作ろうと理想に燃えていた母親たち、そして、当時の最先端であった巨大団地に住まう児童たちが、鉄道の駅からも距離のある「陸の孤島」のような土地で国家や周辺地域からも独立して一つの共同体(コミューン)を形成していたからであると筆者は考える。


 この本を読んで恐ろしく感じるのは、そこが洗脳された人々による異様な空間になっているからというのもあるけれど、他にも、自分が受けた教育(小学・中学)でも(本書の七小ほど酷くはないにしても)同じようなことをした心当たりがあるからでもある。

 「ダメ班」を決めるほどえげつないことはしなかったけど、事あるごとに班ごとに話し合って意見を出したり、毎日班ごとにその日の反省と次の日の目標を言わされたり、気持ち悪いくらいに皆が優等生的な振る舞いをしていて気持ち悪いくらいに一体感のあるクラスがあったり、等々。 その教育の理想や原点はこの本で書かれているような教育であったのだと知って、その愚かさを再認識した。


 と思う一方で、民主主義社会における教育には形式的であっても民主主義の実践を何らかの形で取り入れる必要はあるのだろうという思いもある。

 とはいえ、戦中戦前の日本やドイツの過ち、共産主義下のソ連の過ちという歴史を知っている現代の人々はその教訓を生かすことができるのである。 その点、1974年の時点であっても戦前の日本やドイツの過ちは生かせたはずであったのに、それを生かせずにファッショなことをやってしまった本書の教師たちや母親たちは相当な過失を犯している。

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