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 市村弘正、杉田敦 『社会の喪失(中公新書、2005年)
 
 
 市村弘正自身によって書かれたドキュメンタリー映画の評論6篇を題材にした思想史学者と政治学者との対話。「社会の喪失」というタイトルを見たとき、自分の問題意識(の一つ)を上手く表してくれているような気がしたため読んでみた。

 議論の基となるドキュメンタリー映画とその論評で扱われているテーマは、薬、水俣、差別、国鉄民営化、核など。そして、その論評および本書で行われる対話における両人のスタンスは、あらゆる事物を批判的に捉えるというもの。一言で言い換えれば、「相対化」。

 その方法を少し具体的に2つほど言うと、あまりに抽象的・一般的に語られたり判断されたりするものに対しては、その語りや判断の対象とされる当事者本人の視点を提示する。また、あまりに断定的・絶対的に考えられるものに対しては、他の例を挙げて相対化する。

 前者の例としては部落民の青年の言葉がある。

「とことん虐げられたんやから、とことん優しさをもってる、温かさをもってる。それが部落民の良さやし、俺らある意味でそういう運動をこれからどんどん作っていかなあかんと思う」
 (中略)
 「本当のところ、差別なくなりたいと思うけど、部落民やめたいとは思わへんわ」(p87)

 これはあらゆる物事や人に当てはまるのではないだろうか。「辛い理不尽な経験も自分の人間形成にとっては大きな(プラスの)意味があったから良かった」という肯定的な処理である。もちろんここには、「それなら辛い経験は除去しなくていいのか?」云々、という解き難いジレンマがあるわけだが。

 また、2つの相対化の方法における後者の断定的・絶対的に語られるものに対する相対化の例としては、水俣病に対して普通の中学生が持ち出される。つまり、「世田谷の塾通いの中学生」も心の中に亀裂があるだろうし、しかもそれは報道されもしない。水俣だけを特別視することはできないということである。
 
 
 これらの相対化は、他にも、民族ごとの歴史の違いを強調する歴史修正主義や、公法と私法の二分法や、「調書史観」などに対しても鋭く切り込まれている。

 しかし、相対化という方法自体の弱点でもあるが、本書では、相対化するだけで相対化された後のオルタナティブの提示や依拠すべき基準の構築がなされていないものがしばしば見られる。

 もちろん、オルタナティブの提示や新たな基準の構築には相対化というプロセスを確実に経ることが不可欠であるから、その手伝いをしたというだけでも十分に意義のあることではある。

 しかし、これだけ徹底した相対化を行える著者たちにこそ、“徹底した相対化の後の絶対化”を試み、示してほしかった。
 
 
 
 さて、最初に「社会の喪失」に関心があると書いた。話を単純化して述べると、まず、本書の認識に従って、社会とは様々な人々が共に生きている場所であって、かつ、“純粋な生活の場”というように政治や経済と切り離して考えることができないものだとする。

 そう考えると、「社会の喪失」の状態は二つに分けることができる。それぞれの極端な形を挙げると、片方の極には、自分の人生に拘泥して他人や政治に全く無関心な人たちがいる。そして、もう片方の極には、政治を語りつつも他人や(具体的な)国民という概念が欠落した、つまりは、自己と国家を同一化して政治を語る人たちがいる。

 どちらも、「色々な人たちが共に生きる」という視点、つまり、社会が失われていると言うことができる。

 しかし、社会を喪失するには本人の傲慢だけに帰属させられない問題も多々あるように思える。

 一つ例を挙げる。「社会に出る」ということが言われるとき、往々にしてその「“社会”」とは「会社」のことである。資本の論理に従い、なおかつ上司‐部下関係が強固である封建的な“部分社会”が社会だと言えるわけがない。それを「“社会”」と呼び、「それが現実の“社会”」なんだと言って、若者を諦めさせる言説を“普通の大人”が発するとき、それはまさに資本の論理に侵されてしまっているのだ。

 「“社会”」と思われている会社に行くのに利用する満員電車の方がよっぽど社会である。見知らぬ色々な人たちと共に行動を共にしているからだ。そして、その満員電車の状況は見事なまでに日本の社会の現状を表しているように思える。

 まず、人間がモノであるかのように電車の中に押し込まれ、人ひとり分のスペースも確保されていない。また、男性が女性を抑圧するかのように性犯罪が行われている。さらに、「最近の子供はマナーがなっていない」という言説とは裏腹に最近ケータイを持ち始めた大人(老人)の方が車内で通話している。ちょっと肩がぶつかり合っただけで殺人にまで及ぶ。ただでさえスペースがないのに無理やり新聞を読もうとする。しかもその新聞の多くはスポーツ新聞。また、日経を読んでいても狭い車内で読んでいること自体で分不相応が疑われる。等々。(もちろん、多数派は問題ない人だろうが。)

 こう考えてくると、「“社会”」だと思われている会社も、それ自体は社会ではないにしても、ある意味では日本の社会の現状を表しているかもしれない。(会社人間とか、男性優位とか、封建的とか。)

 ちなみに、社会での登場人物が自分と国家だけである人たちは、ただ単に自分の弱さを隠し、補うために社会を喪失している、これまた可哀想な人たちなのである。
 
 
 このような惨状を見るに、今、社会を取り戻すという方向性が求められていることが分かる。「取り戻す」と言うと過去には存在したかのような意味になるから、より正確には社会を「作る」ということになる。
 
 
 しかし、なぜそこまでして社会を作る必要があるのか。
 
 
 なぜなら、詰まるところ、社会とは“自己を相対化する場”であるからだ。

 社会の喪失と自己の絶対化という悪循環は断ち切らなければならない。

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