[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
森岡孝二 『働きすぎの時代』 (岩波新書、2005年)
「働きすぎ」の惨状について、世界の現状、情報技術の影響、消費資本主義の影響、フリーター資本主義、ライフスタイル、といった様々な視点から包括的に描き出している。おもしろく、かつ、勉強になった。
読んでいる最中は、何度となく、左翼-マルクス主義用語を叫びたくなった。いや、心の中で叫んだ。
ただ、総務省の調査によると、日本の年間労働時間は「役員」が2408時間、「一般常雇い」が2304時間だという。また、アメリカでも、管理的・専門的・技術的職業従事者、大学卒業者、白人、といった条件を満たす人が最も労働時間が長いという。
だがそもそも、「働きすぎ」を単純に時間の関数だけで考えることはできない。職場環境や職務内容なども本来は考慮すべき関数である。
とはいえ、これを言い出したら、本人の性格や体力などあらゆる個性を考慮しなければならなくなり、何事も言えなくなってしまう。したがって、本書のように「時間」に還元するのは一つの分析の戦略としてはやむを得ないところだ。
しかし、兎にも角にも、労働者の「働きすぎ」の問題は、サービス残業、有給休暇の低取得率、無意味な労働基準法、過労死、うつ病、自殺、労働時間の二極分化、男女の役割分化などなど、様々な形であらゆる場所で実際に顕在化しているのである。
そこで思うに、結局のところ、過重労働問題の根源は、本書の中で多様な働き方に合わせた「労働の個人化」の流れを批判する文脈で述べられていることに尽きるように思える。以下の文である。
「産業や企業の別を問わず一般的に、労働時間を1週40時間、1日8時間というように制限することを「労働時間の標準化」というなら、「労働時間の個人化」というのは、文字どおりには、労働時間の基準とそれに基づく規制を緩和・撤廃して、1日あるいは1週に何時間働くかを個人の自由な意思決定に委ねることである。
しかし、文字どおりの意味での労働時間の個人化は、そもそも「一定の雇用関係のもとで労働者が使用者の指揮命令下におかれる時間」を意味する労働時間の概念とは相容れない。労働契約においては、労働者は使用者の指揮命令下で一定時間以上働くことが前提とされているので、いったん労働契約を結んだ後では、何時間働くかは決して個人の自由だとはいえない。」(pp137-138)
つまるところ、雇用者(より正確には「会社」)とその下で働く労働者(役員等を含めてもいい)との間には絶対的な権力関係が存在するということだ。このことを自覚しないままに、いくら「労働者に“権利”は与えられている」と言ったところで全く無意味なのだ。
とはいえ、資本家・経営者の搾取の問題だと単純に片付けられないのは、自ら積極的に会社や金や利益の奴隷に成り下がる“会社人間”がいるからである。この、会社にしか自分の存在意義を見出せないお寒い人たちのために周りの人たちは迷惑を被ることになる。第一に、こういう人の周り、あるいは、こういう人が作る雰囲気の中で働く非会社人間の人は有給などの権利を行使しにくくされてしまう。また、こういう会社にしか生きがいを見出せない人が、よりによって結婚し、子供を持ったりしていると、また色々な人に迷惑がかかる。
一元的な帰属はあまりに脆い生き方であるし、一つの組織の中の文化や価値に染まりすぎるのはその人自身の、そして社会の、生き方や可能性を狭めることになるし、やはり、社会の中には労働力や時間を使うべき場所は会社以外にもたくさんある。
しかし、そんな惨状に対して、筆者自身も本の最後に「試論的私見」として「働きすぎ」に対抗するための労働者、労組、企業、法律・制度のあり方を述べている。
しかし、「残業はできるだけせず、労働が過重な場合は労働組合や会社に是正を求める」というように、実現可能性が全く考慮されていないものばかりである。そして実際、筆者自身も「働きすぎ」でこの本を作ったことを「あとがき」で告白している。
ただ、本文中で紹介されている新しい試みは一つの解決策へのヒントになり得る。フルタイムとパートタイムの賃金格差を減らし、ワークシェアリングを導入するなどした「オランダ・モデル」や、クリントン政権時に労働長官だったロバート・ライシュが提案している、育児や介護を会社が負担する育児休暇などの「有給」で行うだけでなく、政府が負担することになる「税控除」でも行うというやり方などである。これらは望ましい方向性をもったアイディアであるように思える。
しかし、やはり現実的に考えて、企業の自主努力や労働者の自主救済に任せていては実効的な行いは期待できない。また、本来は労働組合が機能するのが望ましいのだが、現在の労組の組織率などを考えるとこれもあまり期待できない。
そこで、労組以外を使った解決策として、期待を込めて二つほど挙げてみたい。
一つは、労働者がどうせ有給を“取れない”ならば、いっそのこと国が祝日を増やすことである。特に、連続しての休日が正月や盆でもせいぜい3~4日である惨状を考えるなら、ゴールデンウィークを文字通り実現することは重要だ。つまり、4月29日から5月5日までを休みにすることだ。また、冗談ではなく「シルバーウィーク」(老人週間ではない)を創設することを考えてもいい。
もう一つの策は、実現可能性は高くないが実現すれば素晴らしいものである。アメリカでは、市民団体がNIKEなどの途上国での搾取の現実を暴き、不買運動などを行い、改善させるまでこぎ着けた。企業の利益最大化という選好を利用するだけに、運動が盛り上がりさえすれば効果は期待できる。
ところで、本書の欠点の一つとしては、労働時間を制限・軽減することによる企業の競争力の低下や経営難といった問題への言及が全くないことがある。もちろん、本書を読むと「働きすぎ」の問題が人の生命にまで及んでいることが明らかにされているから、筆者からすれば言うまでもないことなのかもしれない。しかし、過労死やうつ病にまで至るほどの過重労働の制限と、平均的な労働時間の増加とは、本書では一緒に議論されているがより意識的に分けて考えなければならない問題であり、労働時間の標準化を求めるのであれば企業の競争力という問題への応答は不可欠である。
しかし、兎にも角にも、「働きすぎ」のひどい惨状とその解決の困難性という現実をここまで見せつけられると、最近よく目にする、「フリーターという選択がいかに正常な感覚をもった人間によるものであるか」を思わずにはいられない。
なにせ企業とは、飛行機の突っ込んだワールドトレードセンタービルで「従業員は仕事に戻れ」という館内放送をするようなところなのだから。
>なにせ企業とは、飛行機の突っ込んだワールドトレードセンタービルで「従業員は仕事に戻れ」という館内放送をするようなところなのだから。
これは衝撃的ですね。
企業からみた労働者とは、どういうものなのかということをシンプルにあらわしているような、そんな気がします。
今は、リーマンショックなどから始まった世界的不況の影響からから、日本は、やっぱり年功序列・終身雇用がいいんだみたいなことが言われているようです。
世の中の言論というのもは、時代とともに変わっていくものなんでしょう。
生きるために働いているのに、働きすぎで死んでしまうっていうのは、悲しすぎます。
なぜ、そうなってしまうのか、ここのところを、よく考えたいものです。