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イマニュエル・カント 『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』 (中山元訳/光文社古典新訳文庫、2006年)
「いまの言葉」で訳すことを売りに最近創刊された「光文社古典新訳文庫」の中の1冊。
この本に収録されているのは、「啓蒙とは何か」、「世界市民という視点からみた普遍史の理念」、「人類の歴史の憶測的な起源」、「万物の終焉」、「永遠平和のために」の5編。これに、訳者によるかなり長めの解説が付いている。
「永遠平和のために」だけは読んだことがあった。他は初めて読んだ。
おもしろかったのは、「啓蒙とは何か」と「人類の歴史の憶測的な起源」。
「啓蒙とは何か」は、短いけれど啓蒙主義者カントのエッセンスが詰まった名文。「自分の理性を使う勇気をもて」と訴えている。
理性にとって肩身の狭い現代において、改めてカントが広く読まれたら嬉しいことだが、まずあり得ないだろう。
なら、もういっそのこと、ネオコンばりに“理性帝国主義”を掲げて理性による“自衛戦争”を仕掛けるべきではないだろうか?
どうせ完全には征服できないから、これぐらい激しく行ってちょうど良くなるだろう。
「人類の歴史の憶測的な起源」は、カントの啓蒙主義的な人間観・人生観を聖書が描く歴史の起源から論じているもの。
啓蒙主義者カントと、あと一歩だがまだ神を捨てきれないカントとが混ざり合っていておもしろい。(カント自身は確信を持って混ぜているのだが。)
と、なんともカントっぽくない内容の無いことを書いてしまったが、カントが描いている啓蒙主義的な人間像は、現代の市民社会(論)にとって重要である。
なぜなら、(昨日の記事で書いたように)現代市民社会論が利益団体自由主義と道を分かつためには、カントが一つの(やや極端な)型を提示しているような(理性的で共和主義的な)人間像や市民像を示さなければならないからである。
実現可能性を考えるなら、啓蒙主義や共和主義の分はかなり悪い。
しかし、困難であるからこそ逆に、「現代においてどこまで理性や啓蒙主義を擁護・主張できるのか?」という問題に立ち向かうのはおもしろい。
〈前のブログでのコメント〉
- 「自分の理性を使う勇気を持て」
激しく同意。 - commented by やっさん
- posted at 2006/10/12 17:40
- 理性帝国主義者は、ネオコンと同様、失うものも多いけどいいですか?(笑)
- commented by Stud.@webmaster
- posted at 2006/10/12 18:43
- もう失うものないですから
- commented by やっさん
- posted at 2006/10/13 00:18
- 笑笑。今はね。
- commented by Stud.◆2FSkeT6g
- posted at 2006/10/13 00:47
- 理性は異なる価値に対しては基準にならないですが、理性を放棄するのはそれとは違いますね。「考える」という作業を放棄しがちな傾向は怖いですね。
- commented by やっさん
- posted at 2006/10/13 01:14
- そういう危険な傾向は今に始まったことではないのでしょうが、教育の場で少しずつでも改善しようとしてこなかったのは痛いところです。
戦後の教育は、主流は詰め込み教育だし、左翼は平和を上から押し付ける教育だし、右翼は日本国の良いところだけを押し付ける教育だし、という惨状でした。
その場合、理性を使うのは、どの教育にであれ目前の教育に反発した場合だけだった気がします。
これを見ても、パブリックな空間、真に民主主義的な空間に直面すると、人は非理性的ではいられなくなるように思います。
だからこそ、フランス的な共和主義の理念を具現化したような仕組みを、政治や教育や(市民)社会の場に作れないかと、(最近の記事を見ても分かるとおり)考えています。 - commented by Stud.◆2FSkeT6g
- posted at 2006/10/13 02:06
- 「考えて」「言葉」にする。相手の「言葉」を「考える」。その過程によって関係なり「社会」を築くという事の徹底こそ求められていると思います。
洗脳教育との決別ですね。理性的であるとは常に戦いを要求されますね。 - commented by やっさん
- posted at 2006/10/13 08:50
そうやって築かれたのではない「社会」は、国家の原理か市場の原理に吸収されてしまって、もはや「社会」とは言えないように思います。
(※上で使ってる「社会」はハーバーマス的な用語法で、「市民社会」に近い。下で使っている“社会”は、ごく一般的な広義の意味。)
やはり、教育と社会の合致は重要です。体罰擁護論に典型ですが、教育(のルール)と社会(のルール)が乖離しているのなら、教育の意味とは一体何なのかと聞きたくなります。- commented by Stud.@webmaster
- posted at 2006/10/13 14:21