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石埼学 『デモクラシー検定』 (大月書店、2006年)
資格・検定ブームに乗ったこの本のタイトルを本屋で見たとき、思わず「ナイス・アイディア!」だと感心してしまった。 (もちろん、「デモクラシー検定」なんてものが実際にあるわけはない。)
この本では、「多数決」、「国民主権」、「憲法」といった項目ごとに「問題文」が最初に載っていて、その後に、著者による(その「問題文」との結びつきがそれほど高くはない)「解説」が書かれている。
そんなわけで、一応「検定」らしい体裁を取ってはいるのだけれど、「検定」というせっかくのアイディアはあまり活かされていないように思う。
「検定」というと、厳格で中立公平で無機質なイメージがあるけれど、それこそが安心感、信頼感を生む源泉になっている。
にもかかわらず、この本では、「解説」が著者の個人的な主張に満ちていて、厳格や中立公平とは全く無縁の内容になってしまっている。
そのダメなところが最もよく表れているのが、ちょっと長いけど、次の文。
「 (2001年に)小泉内閣が生まれた。小泉政権の誕生の経緯というのも不思議で、自民党員しか参加しない党内の総裁選挙が、あたかも国民投票ででもあったかのように多くの人々に錯覚されてしまった。その結果として内閣発足当初から支持率が異常に高まり、それが高水準のまま維持された。自民党員ならばともかく、自分が総裁選に投票したわけでもないのに、なぜ多くの人が小泉首相を「自分たちの代表」だと思ってしまったのか。
しかも、2005年9月の総選挙では実際に多くの人が自民党に投票した。最初は錯覚だったものが、現実になってしまったのだ。小泉首相を「自分たちの代表」だと思う意識を多くの人がもった結果だが、しかし、それで何か自分が得をしたり、自分の生活がよくなったりしたのか、あるいは本当に自分の考えと小泉首相の考えが一致していたのか、といったことを、もう一度問い直してみたほうがいい。
あの選挙で自民党が圧勝して以来、社会はますますおかしな方向に動いていると私は感じているが、それは私だけだろうか。いまの状況があのときの一票の結果かもしれないと、自分の投票行動を検証し直すということもしてみるべきだろう。
「小泉首相は、いったい自分の何を代表してくれていたのか」「何を代弁してくれていたのか」と考えたとき、おそらく多くの人にとっては何もないのではないか。私たちは小泉首相のことを知っていても、小泉首相は私たち一人ひとりのことなど知らないという非対称性があることも考えてみるといいかもしれない。 」(pp50-51)
これだから憲法学者は・・・。(と一般化したくもなってくる。)
憲法学者が政治の話とかに首を突っ込むとろくなことにはならない。
他の箇所で民主主義には妥協とか諦めも重要だと言っているのに、自分の主張を正当化するとなるとこれだから・・・。(もちろん、問題点はこれだけに止まらず他にもたくさんある。)
他のところでは、重要な指摘とか、興味深い主張とかもしているし、「検定」ということを忘れて、各章の最初の「問題文」も読み飛ばして読めば、一つの読み物としてはそこそこおもしろいのだけど、さすがに酷い箇所が酷すぎる。
〈前のブログでのコメント〉
- 久しぶりに文章を読んでたまげました。筆者の「自由」かつ「大胆な想像力」は凄まじいですね。
この想像力は一般化はできないんじゃないでしょうか さすがに。 - commented by やっさん
- posted at 2006/12/09 03:29
以下補足
憲法学者は条文の解釈では、緻密で論理的で芸術的な技術を披露するのに、本当に不思議な人種です。でも、法律学者は法律に頼った議論しかできないから、こうなるのも必然と言えば必然かもしれません。となると、一般化してもあながち間違いではないかも?
議論しないと独善かつ妄想になりますな。
やっぱり議論かぁ 議論だなぁ(笑)
commented by やっさん
posted at 2006/12/09 03:31- commented by Stud.◆2FSkeT6g
- posted at 2006/12/09 03:52