[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
宮台真司 『制服少女たちの選択――After 10 Years』(朝日文庫、2006年)
1994年に単行本で出された本に、現ライターである元援交少女3人との対談、援交を追い続けている社会学者圓田浩二との対談、中森明夫による解説、文庫版あとがきを収録して文庫化したもの。
その後の宮台の本と比べると、内容、文体ともに堅くて難し目。
内容は、93~94年頃書かれたブルセラ、援交に関するものと、90年に書かれた新人類とオタクに関するものとの二部からなっている。
ブルセラ、援交、あるいは、96年の流行語大賞に入賞もした「チョベリバ」「ルーズソックス」(「援交」も入賞した)とかに代表される“コギャル・ブーム”は今となっては見る影もない。それだけに、ブルセラ、援交に関する部分は冷静に振り返るのに良い。
一方で、新人類、オタクの方は、ここ数年「オタク」がブームであるだけに時宜に適っている。それに、「オタク」が肯定的に捉えられるようになってきたという社会状況の違いは大きいにしても、人格などに関する分析はほとんど今でも通用する。
内容は多岐に渡り、興味深い指摘はたくさんあるけど、ここでは一つのことだけを書く。
まず、宮台は、当時の援助交際をする女性の生き方を主に次のような理由で肯定的に捉えていたと振り返っている。(pp157-159)
1.日本に根強いパターナリズム批判。援交少女たちは、自分の幸せは自分で決めるという姿勢であった。
2.「まったり革命」あるいは「意味から強度へ」。オウム信徒は「汚れた日常が許せなくて、輝かしい非日常を求めて一連の事件を起こした」けれど、「そうした心性を中和する」ためにも、「自己と現実との関係を微調整していく。「生きにくさ」をなんとか中和していく。そうした成熟した近代を生き抜くための新しい生き方として、援交少女をとらえられる」。
しかし、10年経って、「パターナリズム批判」ではある程度成功したとしつつも、次のように振り返っている。
「 (援交少女の生き方を肯定的に捉えていたことを)今は間違っていたと思っています。なぜかというと、何よりも援交少女たちの、特に第一世代の援交少女たちのその後を観察すると、あまり幸福になっていない例が目立つんですね。 」(p159)
つまり、「意味」とか「物語」にすがらずに(いわば)短絡的に生きていく生き方は成功しなかった、ということである。
近代主義者である自分は、かねてからそうなるだろうと思っていた。
やっぱり、「仕事=楽しみ」という稀有な状態にある人以外は、「意味」とか「物語」みたいな長期的・形而上的・精神的なものは必要だと思うのだ。
というか、宮台自身も、90年の新人類とオタクに関する文章の方では、「意味」の役割について認識している。人格システムの4つの類型ごとの〈世界〉有意味化戦略の違いについて述べているところである。
「 前二者(「バンカラ風さわやか人間」と「頭のいいニヒリスト」)は〈世界〉の有意味化と肯定的な自己イメージの獲得に成功しているのにたいして、後二者(「ネクラ的ラガード(対人関係の領域から退却する人)」と「友人ヨリカカリ人間」)は、〈世界〉の有意味化と肯定的な自己イメージの樹立に失敗している。 」(p215)
「バンカラ風さわやか人間」と「頭のいいニヒリズム」が有意味化に成功しているのは次のような共通したメカニズムによる。
「 「バンカラ風さわやか人間」は、自分をとりまく環境で何が生じているかにかかわりなく、〈世界〉は明るく有意味だ、と事実的にも規範的にも先決している。これと対照的なのが「頭のいいニヒリスト」で、〈世界〉は本質的に無意味であると、はじめから決められている。期待水準を切り下げておくことで期待はずれから身を守る例の免疫化戦略である。いずれにせよ、両者ともに、事前に〈世界〉の基本的なありようを構造化しておき、その基本的構造にそって了解を配置していく。すなわち両者の戦略は〈世界〉の「事前的構造化戦略」として、機能的に等価なのだ。この等価なやり方によって、両者の自信たっぷりの自己イメージが支えられている。 」(p213)
くどいようだけど、もう一つ具体的な説明を引用。
「 「無意味さ」という概念には注意してかかる必要がある。たとえば「人生なんて無意味さ」とあらかじめ決めてかかる「頭のいいニヒリスト」は、無意味さを生きているのだろうか。答えはノーだ。逆にかれらは、そうした先決を通じてきわめて前提の高い〈世界〉を生き、それによって自己像を温存している。ちょうど「人生はすばらしいものだ」と決めてかかる「バンカラ風さわやか人間」の営みとまったく同じ意味で、「頭のいいニヒリスト」もまた「無意味な世界」という有意味を生きているのである。 」(p220)
「意味」とか「物語」の役割、存在意義については以上の引用で十分に説明されている。
これほど、「意味」「物語」の役割や重要性を認識していた宮台が、なぜ「意味から強度へ」という「まったり革命」なんていう野蛮な生き方を奨励したのかが謎なくらいである。
その上さらに、「事前的構造化戦略」による〈世界〉の有意味化に成功していない「友人ヨリカカリ人間」と「ネクラ的ラガード」に関する記述を見ても、後の「まったり革命」の破綻が暗示されている。
「 「友人ヨリカカリ人間」はどうだろうか。かれらは「ネクラ的ラガード」同様、自己信頼が低く、情報処理能力も低い。しかしながら、「ネクラ的ラガード」とはちがって模倣的適応戦略をとるかれらは、じつは〈世界〉の不可解さ・将来の不透明さに直面することはない。模倣によって、システム単独では処理できない複雑性を、うまくやりすごしてしまっている。 」(p222)
「 まさしく無意味を生きていると思われるのが、「ネクラ的ラガード」である。データにしたがえば、〈世界〉の不可解さに直面しているのも、将来の自分の見とおしがきかないのも、断然「ネクラ的ラガード」である。いまの人生ではなく、別の人生を生きてみたいという「異世界の夢想」が圧倒的にひんぱんなのもかれらである。 」(p221)
そんなわけで、結局、〈世界〉に「意味」を見出せないのは「ネクラ的ラガード」だけということであった。
しかし、その類型のネーミングから明らかなように、彼らは「オタク」である。
「オタク」は、ある特定の分野に関しては異常な関心を示し、社会的には認められてはいなくてもそれによって生きがいを見出していける。
とすると、4つの人格類型が正しいとするならば、「一般的な人格」ないし「通常の状態」では、皆、何らかの「意味」を持っている(べき)ということになる。
つまり、「意味」を持ちえず「オタク」でもない人がいたならば、それは例外的な存在だということである。
したがって、「意味から強度へ」を推奨した「まったり革命」は、「例外的な人格」あるいは「非正常な状態」を推奨するものだったのである。
以上のように、宮台自身の分析から考えても、「まったり革命」は失敗が約束されているものであった。
やはり、「意味」とか「物語」は必要。
このことを受け入れた上で、これからは、個人がいかにして「意味」や「物語」を獲得していくのかについて、その条件や過程を追究していくことが生産的である。 (※最近の宮台の、アイロニーとしての「天皇」「アジア主義」とかについては、フォローもしていないし、よく分からないから、上のことと関係しているのかどうかについては知らないので、あしからず。)