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吉岡忍 『M/世界の、憂鬱な先端』 (文藝春秋、2000年/文庫版、2003年)
1988年から1989年にかけて起こった連続幼女誘拐殺人事件の犯人である、宮崎勤という人間の真実を明らかにしたノンフィクション。
力作。
「 十年をかけ人間精神の恐るべき荒野を緻密に描きだした畢生の大作 」という、帯に書かれた宣伝文は全く大袈裟ではない。
久々に、読むのにかなりの体力を使った。
宮崎勤というと、“ロリコン”と“オタク”という二つの言葉で短絡的に「理解」されがちである。
しかし、そんな俗的なカテゴライズでは、「勃起を知らない」「その時々の流行(はや)りものへの異常な執着」「祖父の遺骨を食す」「遺体を切り刻む」といった数々の奇異な行為を理解することは到底できない。
だからといって、“奇人”や“狂人”などと、自分とは全く違う別の種類の人間だと決めつけて済ませるのも間違っている。
誰もが持っている人間の弱さ、それに、周囲の人々、生活環境、社会環境、時代背景といった様々な要因が加わることで、宮崎勤は、必然的に「作られた」。
宮崎勤の人生を深く緻密に追うことで明らかになるのは、人間の真実であり、現代社会の真実である。
異質なものを排除する人(社会)、現実(リアル)から目を背ける人(社会)、主体的な判断ができない人(社会)、他者の存在に無関心な人(社会)、あらゆるものをモノと見る人(社会)、他人を全く信頼しない人(社会)、攻撃的にしか自己表現できない人(社会)、等々。
しかし、救いは、宮崎勤自身の中から見出すことができる。
中でも重要なのが、気味の悪い「犯行声明文」の存在である。
すなわち、
「 宮崎勤の犯行声明や告白文と同様、酒鬼薔薇聖斗も書きすぎていた。なぜ彼らはこんなにも長く書いてしまうのだろう。どうして思考のクセが出てしまうほどに書きすぎてしまうのか。自分が理解されていないという不満、わかってもらいたいという欲求、おれはここにいると叫びたくなるほどの衝動。これまでこらえてきた不満と欲求と衝動が、どちらでも噴きだしている。 」(p432)
宮崎勤(及び酒鬼薔薇聖斗)の人格の閉鎖性について読み知ってきた者にとって、これほど明るい光はない。
これは、一方では、言葉や芸術を鍛えることで自己表現の能力と自己統合の能力を向上させること、他方では、あらゆる表現を否定・排除せずに受け止め、促すことという指針を与えてくれる。
それにしても、重い。
宮崎勤、酒鬼薔薇聖斗を自分のこととして引き受ける(考える)ことは、重い。
「正常な自分」とはもっとも距離があると思っていた人物が、自分とかなり似ていたことを知る戦慄、暗澹。
簡単には抜け出せなくなりそうだ。
そんな重いことを10年も続けた著者は、ただただ凄い。