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奥菜恵 『紅い棘』 (双葉社、2008年)
奥菜恵がこれまでの色々なことを綴った自叙伝。
理想と現実の自分とのギャップに苦しんでる中高生の日記みたいで痛々しい。とても28歳(で普通とは違う経験を色々した人)が書いた文章とは思えない。「表現者として生きていきたい!」、「ありのままの自分を認めてほしい!」ばっかり。( そのくせ具体的に何を表現したいかについては語られない。)
色々な経験をしても、その都度ありきたりな言葉を安易に当てはめて(自己)満足していて、(彼女独自の)考えや言葉が全く深まっていかない。より適切な理解や言葉を見つけるより、聞き心地の良い言葉を当てはめて安易な安心と自己陶酔を満たすことで満足してしまっている。
その結果、言葉に実感がこもっているのは、元夫への怒りが爆発してる箇所とか父親への愛情が語られてる箇所とかほんのわずか。( 「あなたの幸せってお金? 肩書き? 世間体? 高級レストランに行くこと? 外車を乗り回すこと? 私はそんなの求めてない! 私はお金と結婚したんじゃない!」 p108。)
他のところは、飾り立てた言葉が空しく(痛々しく)流れていくだけで、読んでいても一人の人間の(重厚な、とまでは言わなくても、地に足の着いた)生や心を実感することができない。( 「 鏡の中に映ったへなちょこパンチの自分と目が合った。/「げっ、半べそ・・・」/その滑稽な自分の姿にちょっと笑えた。 」p15。)
そんなわけで、彼女としても本当に言いたいこと(心の中)を表現できてないんじゃないだろうか?
でも、そんな不器用なところが、奥菜恵らしさ、なのだろう。
けれど、そんな不器用さを、見つめることはおろか、(無理やり)気付こうともせず、さわやかに吹っ切れたように振る舞い活動していこうとしている奥菜恵というのは、相当に脆くて危ないと思う。
神だのスピリチュアルだのパワースポットだの愛だの酒だの芝居だのってのも全て、安易な納得・安心や全面的な依存対象を得ることで自分と向き合うことから逃げるための方便や道具として、恣意的・独善的に持ち出されるに過ぎない。( 「昇華」という一足飛びな変化を表す言葉を多用していることからも、ありのままの自分から逃げようとしている姿勢が窺える。)
深化か現状維持か、この先、彼女はどうなっていくのだろうか?
「 この一歩が自分の道であるために
内なる声に耳を傾けること
信じること 諦めないこと
この想いが私の軌跡となる 」(p11)