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by ST25
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 愛敬浩二 『改憲問題(ちくま新書、2006年)
 
 
 改憲へ向けた動きが本格化して以降、一般向けの新書や論壇誌に著名な憲法学者が登場することが多くなってきた。不勉強な人の間での憲法学の蓄積を無視した議論だけで改憲論議が行われるのはあまりに愚かしいことだけに、歓迎すべき傾向だと思う。そんなわけで、本書も期待して手に取ってみた。

 が、結果、〈冷戦=55年体制〉的な旧態依然とした左翼による小ざかしい改憲批判だった。

 今時、こういう、相手の瑣末な論理矛盾を指摘して喜んでいるような本は、実際の憲法論議に対して“全く”影響力を持ちえないどころか、改憲派へのシンパシーを増すことさえありうるという事実をいい加減、認識してほしいものだ。
 
 
 では、どういうところが問題か?

 まず、著者の記述の姿勢・目的が、護憲擁護と改憲批判という漠然としたものであって、憲法論議に新しい視点や一つの主張を投げかけるものではない。このために、一つ一つの論点に対する突っ込みや批判は甘いものになっているし、本全体も散漫とした印象を受ける。

 次に、その「護憲擁護と改憲批判という漠然とした」視点は、改憲派の主張には常に悪意に満ちた厳しい解釈をしている一方で、護憲派の主張には常に楽観的で甘い解釈をしている。例えば、象徴的なのが、一度改憲してしまうと権力側の歯止めが利かなくなるという最悪の場合を想定して発言する一方で、有事法制のような最悪の場合を想定した立法には現実的な脅威がないとして否定的なのである。分析におけるスタンスが一貫しないのは、学者ではなく評論家である。

 それから、その「分析におけるスタンスが一貫しない」という点と同根だが、現実を認識する力が貧困である。つまり、社会科学的な素養が欠けている。例えば、社会保障給付費や福祉の国民負担率などの“数値の比較”から「日本の社会保障のレベルは低い」とし、「アメリカとほぼ同じという状況にある」と断言している。この著者が「福祉に関する本を一冊も読んでいないのでは?」と疑わせるほどに愚かしい話だが、問題はより根深いところにある。すなわち、著者は数字の読解に置いて、経済学や社会学や政治学などの社会科学の学部一年生の最初の授業で教わりそうなレベルの失態を犯しているのだ。「現状分析」や「事実認識」や「(福祉などのレベルの)高低の判断」というのはそんなに簡単な話ではないのだ。

 全体に関わる問題点はこんなところだ。

 これだけ根本的な批判をすると、この本を読む価値はないと思われるかもしれないが、実際に読む価値はない。
 
 
 とはいえ、この本の中で一箇所、非常に感銘を受けたところがあった。それは、著者が99条が日本国憲法の中で一番好きな条文だという話のところである。同条は「公務員の憲法尊重擁護義務」の規定であるが、そこには「国民」という言葉は入っていないのだ!著者が指摘するとおり、この点、自民党や読売新聞にはしっかり考えてほしいものだ。

 ちなみに、憲法学者が書いた新書なら、個人的には、すでに何回か言ったことがあるかもしれないが、樋口陽一『個人と国家』(集英社新書)が、改憲論議を直接扱ったものではないが、憲法の持つ奥深さや重さを教えてくれてお薦めだ。
 
 
 
 さて、最後に、この本を読みながら考えた自分の憲法改正についての意見をいくつか述べておきたい。

 1.自分は、生まれてからずっとその下で生きてきた現行憲法に愛着やアイデンティティを感じている。これは、改憲派が敗戦以前の「日本」や大日本帝国憲法に愛着やアイデンティティを感じるのと同じだ。

 2.自民党や読売新聞が現行憲法の「全面改正」を行おうとしているが、「部分改正」ではなくて「全面改正」を行うということは、「押し付け憲法論」を受け入れることを(大抵の場合)意味する。

 3.自分は「押し付け憲法論」に与しない。理由は以下の通り。当時としても今から見ても“自主憲法であった”「松本試案」は内容が悪い。当時としても今から見ても「GHQ案」の方が断然内容が良い。GHQといえども日本国民の支持の得られない試案は作れなかったことを考えると、日本国民が間接的には「試案」に影響力を行使したと言える。実際、当時の日本国民の多くが「GHQ案」を支持していた。また、日本国憲法制定から60年間改正がなかったということは多くの国民が現行憲法を自主的に支持していることを表している。

 4.したがって、「全面改正」には反対する。

 5.とはいえ、軍事力の保持を禁止した9条、私学への助成を禁じた89条といった条文の「部分改正」には、その内容次第では賛成する。むしろ、改正すべきだと考える。



〈前のブログでのコメント〉
99条がなぜ国民を外しているかを権力者は学んで欲しいですね。
9条はどうかえるのですか?
commented by やっさん
posted at 2006/04/10 11:40

9条の変更は、具体的な条文は考えていませんが、「自衛のための“最小限の”戦力の保持」の明記と、「“国際協調による”平和維持活動への貢献」の追加を考えています。 
commented by Stud.@Webmaster 
posted at 2006/04/11 00:41

集団的自衛権についてはいかがお考えですか?
自民党案はそれを認めるための戦力保持の明記ですよね。 
commented by やっさん 
posted at 2006/04/11 01:33

自民党がどういう状況を想定し、どういう体制を構想しているのか承知していないのでどう答えていいのか分かりません。

というのも、集団的自衛権という概念は、9条同様にかなり手の込んだ直感に反する(政府)解釈がなされているからです。例えば、「日本の自衛のため」であるなら日本の領土外のどんな所で軍事力が行使されても個別的自衛権の行使になったりします。また、すでに起こった現実を見ても、アメリカが「自衛のため」に行ったアフガン戦争やイラク戦争への日本の「加担」は集団的自衛権の行使にならないのか疑問です。

ですので、集団的自衛権をどうするかという問いの立て方はあまり適切ではないと思っています。

ただ、集団的自衛権という言葉を素直に理解するなら、自衛権は持っているのに、個別的自衛権だけで、集団的自衛権はないというのは不可解な状態です。したがって、前提として、自分は集団的自衛権は当然に保有し、行使できると考えています。

それに、集団的自衛権という言葉の直感的・常識的な文字通りの理解から言えば、日本の防衛が日米安保条約によって日米共同で行われていることを考えれば、集団的自衛権は認めるべき(認めざるを得ない)でしょう。(これさえも政府解釈だと全て個別的自衛権の行使になるのかもしれませんが。)

ただ、もちろん、その範囲が問題になるのでしょう。

答えを簡単に言えば、アメリカ(へ)の攻撃が日本の防衛にそれなりの関わりがある場合には行使するべきということになるでしょう。したがって、イラク戦争でのアメリカ(へ)の攻撃では全く行使する必要はありません。

というか、自民党は「集団的自衛権を認めさせるために戦力保持を明記」しようとしているのですか? その論理がいまいちよく分かりません・・・。

commented by Stud.◆2FSkeT6g 
posted at 2006/04/11 04:34

そうだと思いますよ。戦力保持の意図は。個別的自衛権があって集団的自衛権がないという「不自然」が成り立つのは、現行憲法が戦力の保持を明記してないからでしょう。
ここでいう集団的自衛権とは同盟国が攻撃されたら日本も攻撃できるって事です。
自民党のいう集団的自衛権はこれじゃないんですか。
日本の安全に関われば、現行憲法でも自衛できるわけですが。政府解釈はできるんですかね。微妙やないですかね。
つまりここが限界点です。 
commented by やっさん 
posted at 2006/04/11 09:07

自衛隊もしくは軍隊の活動範囲については共有があるとは思うのですがそれをどう担保するかの議論です。
↓ 
commented by やっさん 
posted at 2006/04/11 09:11

やはり分からないのは、集団的自衛権を持つことで具体的にどういう状況に対して自衛隊の派遣を行いたいのか、です。集団的自衛権も、基本的には、所詮「自衛権」にすぎません。自分の中では、依然として議論が霧に包まれたままです。

グアムあたりの米軍が攻撃された場合に自衛隊を派遣したいのでしょうか。中国と台湾の間の紛争に米軍が参加した場合に米軍に加わりたいのでしょうか。イギリス軍のようにイラク攻撃に加わりたいのでしょうか。

それから、米軍が攻め入ったわけではなく、米軍が攻撃された場合に、「集団的自衛権」に基づいて自衛隊を派遣するのか、「国際協調による平和維持」の観点から自衛隊を派遣するのか、どちらになるのでしょうか。

もちろん、有名無実化している国際法に則れば、国際協調の枠組みが形成されるまでは集団的自衛権に基づくということになるのでしょうが、「国際法に則る」という選択を自民党(と特にアメリカ)は好まないでしょう。

ちなみに、自称「自衛のため」にアメリカが行ったイラク戦争は、結局、その開戦の根拠となった大量破壊兵器がなかったわけですから、これに自衛隊が「集団的自衛権」に基づいて参加した場合、憲法に違反する派遣だったということになる可能性が高いと思われます。となると、イラクへの派遣は「国際協調による平和維持のため」とするのが正解だと結果的にはなります。

自衛隊の活動範囲の担保の方法ですが、憲法の条文に入れる言葉の強調と、それに準じた立法ということになるでしょう。

一つは、「自衛」という言葉の強調です。集団的自衛権を認めつつも、その範囲を日本の防衛に相当の関係がある場合に限定するべきだとお思います。

もう一つは、同じく憲法の条文に入れる「国際協調」という言葉の強調です。平和維持などのための派遣の場合、それが国際協調の枠組みに基づくものであることを重視します。もちろん、国際協調であれば何でもかんでも派遣するわけではなく、日本独自の判断も必要です。

自分が具体的に考えているのは、PKF、湾岸戦争くらいまでで、ユーゴ空爆はアウトです。

ここの差を明確にできる言葉があれば、それを条文や法律に盛り込むべきでしょう。「明確な侵略」とか、「中立」とかでしょうか。 
commented by Stud.◆2FSkeT6g 
posted at 2006/04/11 15:30 

(議論結果に関するメモ)
結局、想定している制度や目的はほぼ同じだが、それを達成するための方法論=技術論=戦略において意見が違うことが判明。そして、その根元には、憲法や立憲主義をどこまで信じられるかというという点での判断の違いがあることも判明した。
commented by Stud.@Webmaster 
posted at 2006/04/12 01:08

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