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重松清 『流星ワゴン』 (講談社文庫、2005年)
重松清の小説は、以前『その日のまえに』を読んだ。話の展開は確かに上手いと思ったけれど、多くの人が頭に思い描く理想的なイメージそのままの「幸せな家族」をあたかも「現実」であるかのように登場させていて、その詐欺的、美談製造的なところが好きになれなかった。
ただ、重松作品の中で最高傑作との呼び名も高い『流星ワゴン』も一応読んでから最終的な評価を下そうと思っていた。
それで読んだ結果、なかなかの傑作だった。(ただ、女性にとってはおもしろくないかもしれない。)
この作品は、自分なりに思い切って抽象化すると、思い出すことが辛くて恥ずかしい過去を(その後の結末を全て知っている)未来の自分が追体験するという話である。理想と現実、未来と過去、思っていることと実際の行動がぶつかり合い相克する。
ここには、見たくない現実を直視する強い精神力がなければならない。人間の良い側面ばかりを描いた『その日のまえに』とは全く違っている。
だからといって、厳しい現実ばかりを描くのではなく、重松清らしい理想的なイメージそのままの人間も、厳しい現実に対峙する役割として登場している。
こうして、重松清らしいファンタジックなものが厳しくて辛い現実と合わさって、おもしろい作品になっているのである。
重松清というと、『その日のまえに』以外でも、NHKの教育特集の番組に出てコメントしても、ルポを書いても、どうも現実を見る力に欠けているようで、いわば「偽善的な平和主義者」のような人物に見える。悩みと言えば、父親としての娘との接し方くらいで。(もちろん、本人からすれば「そんなことはない」と言うだろうが。)
そんな重松清が捕えることができる「現実」とは、この小説で描かれているような「なんで自分はああしなかったのだろう!」というような誰にでもある日常的な現実くらいなものであろう。
そう考えると、『流星ワゴン』は、重松清が狭い可能性から紡ぎだせる「傑作」(ファンタジック一辺倒でない小説)を見事に探り当てたものであって、ちょっとした奇跡的な作品と言えるかもしれない。