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橋本治 『橋本治という行き方――WHAT A WAY TO GO !』 (朝日文庫、2007年)
「自分」や「作家」や「教養」などについて綴ったエッセイ。
橋本治という人は、徹頭徹尾、“自分”という視点・立場から見て考え語る。
それが、変に道徳や社会通念などに捕らわれない思考を可能にしている。
けれどその一方で、「まあ、こういう人もいるか」「まあ、こういう考えもあるね」で終わってしまって、読者を巻き込むというところまで至らない。橋本治という人間はかなり個性的で特殊な人間でもあるし。( なんせ、自分が興味を持ったことしか頭に入らない、暗記が全然できないとか言いつつ東大に入ってしまうくらいだから、どう考えたって凡人とは種類が違う。)
とはいえ、学校教育に関する経験では共有できるところがあった。
「 大学の教室で「正解なし」の「論じる」をやっていて、私は二つの呪縛から解放された。一つは、「自分のことを書く」という呪縛。もう一つは、「書くということは、それを採点する人間が持っている正解に合致させる作業である」という思い込みの呪縛。「その二つの呪縛があったから、自分は作文(=文章を書くという作業)が嫌いだったのだな」と理解した。 」(p25)
「 その初めに「自分のことを書く」が苦手だったのは、「自分自身に関する正解を先生が握っている」と思っていたからである。そうでなければ、先生は「よくできました」の五重丸をくれるはずがない。自分のことを書いて、そこに「よくできました」という評価があるのなら、自分自身に関する“正解”は、先生が握っているのである。 」(p27)
日本人のダメなところの特徴やその生産工程が凝縮された文章だ。
これでは上の意向ばかり気にするせせこましい人間しか作られない。
話を矮小化してしまうみたいで嫌だけど、こんな優等生コンクールに内閣総理大臣やら文部科学大臣やらが1等2等をつけて表彰するってのはどうなのだろうか。だいたい基準はなんなんだ。夏休みに全員に課される読書感想文はこういう一元的なヒエラルキーの存在を背後に抱えていて、それは教師を通して、まさに「正解の呪縛」というプレッシャーを子供たちに与えることになっている。
(※ 2006年のサントリー奨励賞に、なんと、『広辞苑 第5版』の感想文を書いてる中学1年生がいる。どんなこと書いてるか分からないけど、すごい。辞書の感想文を書けるってことは、あらゆる感想文が書けるという能力の証明にもなっているんじゃないだろうか。「辞書は勉強になる」「意外な発見がある」ってことが書かれているのでなければ。)