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扇田昭彦 『日本の現代演劇』 (岩波新書、1995年)
60年代から80年代までの日本の現代演劇の歴史を小劇場演劇を中心にまとめた本。
具体的には、文学座や俳優座などの大手劇団に代表される「新劇」を乗り越えようとした60年代に活躍した人として、唐十郎(状況劇場)、鈴木忠志(早稲田小劇場)、別役実(同)、蜷川幸雄、寺山修司(天井桟敷)などが、(著者の思い入れが強いために)全体の6割ほどを使って比較的多めに書かれている。そして、残りの4割ほどを使って、70年代の代表的人物として、つかこうへい、山崎哲などが、80年代の代表的人物として、野田秀樹、如月小春などが取り上げられている。
ちなみに、この本は95年に第1刷が出されているけれど、内容を見る限り、2003年か4年あたりに加筆されているようである。
演劇のことをよく知らない自分でも名前くらいは聞いたことのある人は(なぜか)60年代に活躍した人が多い。蜷川幸雄とか寺山修司とか。
そんな彼らが活躍していた60年代の小劇場では、実に前衛的な演劇が行われていたようである。
蜷川幸雄とか唐十郎とかを、ただの“保守的な説教オヤジ”かと思っていた自分の認識を改めさせられた。
例として、唐十郎の1966年の公演について、横尾忠則の描写から引用しておこう。
「 「『腰巻お仙』は演劇というより、一つの事件であった。文字通り演劇空間はステージをはみ出し、遥か丘の上に立つ木の上に全裸の「お仙」。パトカーの警官が公演を阻止しようとするが、唐十郎を始め、一升ビンをぶら下げた観客の澁澤龍彦、土方巽など一丸となってますますエスカレート、虚構と現実が交差する中で唐十郎は警官に向かって歌う――/早く家に帰って かかあと○○して寝ろッ・・・・/ぼくはこの演劇を、いや事件を、目の当たりで目撃しながら、芸術が犯罪に、犯罪が芸術に転化していくプロセスを肉体で感じとった。」 」(pp28-29)
今聞いてもおもしろそうな喜劇である。(もちろん、今やっても、社会的にも芸術的にも受け入れられないだろうけれど。)
それにしても、引用した唐十郎の劇なんかは典型的だけど、60年代の小劇場演劇には、“演劇であることの必然性”がものすごくあるように(この本を読む限り)感じる。
もちろん、そこには当時の社会状況が大きく影響しているのだろう。
安保闘争や全共闘といった政治的・活動的な社会状況が、皆が集いその場で演じられる“演劇という表現手段”に合っていたというのもあるだろうし、テレビや映画が(その後の発展からすれば)まだ未発達であったというのも、“娯楽としての演劇”への需要を高めていたのだろう。
しかし、いずれにしても、そんな社会状況が失われている今、“演劇であることの必然性”は一体どこにあるのだろうか?
この問題は、演劇だけに発せられる問題ではない。
例えば、映画なんて特に、テレビやDVDで視聴する人が多いという状態が自然に受け入れられているけれど、劇場で観る必然性がないのなら、映画という媒体である必然性も低いと言わざるをえない。
もちろん、演劇にしても映画にしても、「なんでか知らないけれど劇場で観ると楽しい!」と思える人にだけ向けてやっていく分には問題にはならないけど。
上で「60年代の演劇の様子を読んで~」みたいなことを書いたけど、自分の中に「演劇であることの必然性」という疑問が生まれたのは、人気のある松尾スズキの舞台なんかを観て以来だったりする。