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 ジェイムズ・G・フレイザー 『初版 金枝篇(上)(吉川信訳/ちくま学芸文庫、2003年)
 
 
 裏表紙によると、「肱掛椅子の人類学」で「資料の操作にまつわるバイアス」もあるが、「D・H・ロレンス、コンラッド、そして『地獄の黙示緑』に霊感を与えた書」でもある。「比較宗教研究」という副題が付され、1890年に出版されている。まだ上巻までしか読んでないが、上・下巻ともかなり長いから、とりあえず上巻だけのメモ、コメントを書いておこう。
 
 
 冒頭は以下の象徴的な詩から始まる。

アリキアの木々に眠る
 鏡のように穏やかな湖
 その木々のほの暗い影の中で
 治世を司るのは恐ろしい祭司
 人殺しを殺した祭司であり
 彼もまた殺されることだろう
       ――マコーリー(p19)

 この詩が表す伝説は次のようなものだ。本書全体に渡っての重要な話であるだけに、長いが引用しておこう。

ネミ(注:アリキアがある村)の聖所の中には、枝を折ってはならないある種の木が生えていた。逃亡奴隷だけが、もし可能ならば、一本の枝を折ることが許されていた。この試みに成功すれば、祭司と決闘する権利が与えられ、もし彼が祭司を殺せば、代わりに彼が森の王の称号を得、支配権を握った。伝説の主張するところによれば、この運命の枝は、アエネアスが黄泉の国への危険な旅に乗り出す前に、巫女の命により折り取った、黄泉の枝であった。(p22)

 そして、この話に王殺しの伝説が結び付く。

祭司職を志願する者は、現在の祭司を殺すことによってのみ、その職に就くことができる。そして殺してしまえば彼は、より強く狡猾な男に彼自身が殺されるときまで、その職に就いていることができる。(pp20-21)

 つまり、黄金の枝を折り取り、それから前任者の祭司を殺す、ということだ。そして、「なぜこうなのか」に答えるのが本書の目指すところである。

 その答えは様々な前提や風習を導入しながら説明されるため、複雑だ。重要なものを思いつくままに、拾い上げてみよう。

・未開社会では人間が自然に及ぼせる力の限界が認識されていなかった。そのため、人間と神々とが越えがたい深淵に引き裂かれておらず、神が人間の姿を取ることが自然であった。

・古代では、魂と身体との2つの命があり、身体が死んだ後、魂は別の場所に移動すると考えられていた。それは、人間だけでなく、動物や植物においても同様のことが信じられていた。

・したがって、樹木には神・霊が宿っているものとされる。そして、自然の中で暮らしていた人々はその樹木霊に豊穣の祈りを捧げる。(=樹木崇拝)

・また、その樹木霊は最初は木や枝により表象されていたが、次には生きた人間により表象されるようになった。具体的には、王や祭司に超自然的な力が与えられていた。

・その結果、自然の移り行きは多かれ少なかれ王や祭司の支配下にあり、悪天候や穀物の不作の責任を負わされることになった。ある意味では、王の命は木の命と緊密に関係しているということになる。

・この人間神の生命が自然の成り行きと結び付いているため、人間神が力の衰えの兆しを見せ始めたならば、それに伴って起こる自然の破局を回避する方法は、人間神を殺すことだけである。

・そのため、王位は早く投げ出したい重荷になっていた。

・ギリシアを含む西アジアとエジプトでは、アドニス、アッティス、オシリス、ディオニュソスの名のもと、植物の衰退と再生が儀式によって表現されていた。

 この植物の生長の霊である神々にまつわる儀式や風習の説明がなされるところまでが、上巻の内容である。理解し得たところだけで自分なりに解釈してつなげたために、やや論理的なつながりの分からないところもあるが、上記のような内容を莫大な量の風習の実例と書物の中の記述で証明している。
 
 
 紹介されている様々な儀式や風習は、共通点を持ちながらもバリエーションに富んでいるし、現代から見るとどれも神秘的なものであり、とても新鮮かつおもしろい。

 そして、やはりこの種の伝説や神話について知っておくことは、意識的にしろ無意識的にしろそれらを組み込んでいる話を理解するのには必須であることを実感した。上にも挙げた「王殺し」や「金の枝」の話とか以外にも、細かいところで「魂は血の中に宿る」とか「神が動物を食べるときその動物は神自身」などなど、(この本に出てくる全てが正しいわけではないだろうが)勉強になった。

 映画「地獄の黙示緑」のオープニングと話の終盤の挿入歌に使われている曲であるDOORSの「the end」の歌詞を理解するのにも役立つところがあった。もちろん、この曲の歌詞をしっかり理解するには古代の風習とも関連があるギリシア神話を知らなければならないが。
 
 
 ところで、この本を読みながら気になったのが、ヨーロッパ辺りの様々な古代の風習やギリシア神話の日本における対応物だ。天照大神とかの神話が基本的にはそれに当たるのだろうか。そうだとしたら、位置付けなどの違いはどこにあるのか。今まで全く興味のなかった日本の神話に、(依然、拒否反応もあって少しだけだが)興味がわいた。ただ、これらの神話を「社会」や「歴史」で教えるというのは、どうも適切ではない気がする。この種の話は「国語」とか「文学」に属するものだろう。

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