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中曽根 康弘著『日本の総理学』(PHP新書)を読んだ。同書は、著者の政治家、首相としての歴史を辿りながら、現代の日本社会を診断し、その病理の解決への処方箋を提示するという内容である。著者が、戦後日本の歴代首相の中で目立った多くの業績を残していることは否定できない。その信念や行動力や成果を生み出す源は一体どこにあるのか?このことに昔から興味があり、今回この本を手にとって見た。
この本で著者は自らの主張や哲学を堂々と余すところなく開陳している。そのため、その思考メカニズムの特質が見えてきたように思える。その中のいくつかを同書中の具体的な根拠を挙げながら記述していこう。
①「市民」という概念について、著者は「市民というのは、元来、フランス革命で絶対王政を倒した有産者階級を指す言葉」(p154)と述べているが、市民の概念は、確かにヘーゲル哲学やマルクス主義の文脈でブルジョアの意味で使われることもあるが、現代的には政府でも企業でもないパブリックの担い手のことを市民と呼ぶことが学問(特に政治学)の世界では一般的である。つまり、著者は学問的な新しい知識をフォローしてはいなかったようである。
②著者は一方では、愛国心とは、国、自然、固有の文化に対する愛着を保守しようという純粋かつ自然な感情の発露だと述べている。(p57)しかし他方、教育基本法に「公」という概念が抜け落ちていては「国を愛する心」など育ちようがないと発言している。(p69)愛国心は自然な感情なのか、教えないと育たないものなのか、論理的一貫性がない。
③著者の心を許した仲間である読売新聞の渡邊恒雄が、総裁選のときに田中角栄邸まで乗り込んで「ぜひ中曽根を」と頭を下げて頼んでくれたエピソードが語られている。(p38)しかし、小泉首相とマスコミの関係を述べる文脈で「政治とジャーナリズムが~一種の持たれ合いの関係になっている」(p56)とも述べている。自分はいいけど他人は駄目というのは独善的である。
④最後は、言葉を失う主張を見てみよう。学制改革について「小学校は人間生活の基本の型、~読み、書き、そろばんを教える。中学校は個人と社会や世界の関係を、高校生には志を、大学生には使命感を与えることが緊切だと思います」(p140)と。「大学生に使命感を」とは大学の勉強をしたことがあるのか疑いたくなるような時代錯誤なお話である。
他の問題点としては、日本文化を強調するのだがその内容が恣意的ではっきりしないことや、自分の主張や感情は国民皆も考えることだと思い込んでいること(特殊と普遍・多数の混同)などである。
以上のことから、著者が首相として業績をなした理由は、少なくとも、学問的な裏づけがあったからでも、論理的思考能力に優れていたからでも、冷静で客観的な判断能力があったからでも、どれでもなさそうである。逆に、これらではないがゆえに、大雑把であるため、大局的な視点でものごとを見れたことと、簡単に自己の主張を信じ込むことができたこと、これらが業績の要因ではないかという結論に至った。