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 久しぶりに総合雑誌(あるいは論壇誌)を買った。『論座』(朝日新聞社)の2005年4月号。買った理由はおもしろそうな記事(論文)がいくつか(3つ以上)あったから。読み終わって(もちろん全ての記事を読んだ訳ではない)思うのは「なかなかおもしろかった」ということ。珍しく買って成功だった。
 
 
 ちなみに、この号の特集は「創刊10周年記念特集 日本の言論」。
 
 
 以下では、いろいろな意味で重要だと思われる文を抜き出してコメントしていく。ただ、かなり個人的なメモのようなものになっている。その結果、無理に付した感のあるコメントも自戒の念が多い。
 
 
 ちなみに、引用を多用し、かなり内容に触れているため、自分で実際に読むのを楽しみにしている方は読まない方が良いです。
 
 

 まずは特集の最初の記事「各紙『論壇時評』担当者座談会 情緒頼みの『右』とホンネ語らぬ『左』」。各新聞で「論壇時評」を担当している参加者である金子勝、宮崎哲弥、斎藤環の三人が「論壇への期待と不満」を語るという企画。金子勝と宮崎哲弥は“論壇”の中でも特に信頼の置ける二人であり、実際、興味深くて鋭い話が各所に出てくる。いくつか抜き出してみる。
 
 

 論壇が成り立つ条件、そしてその条件がなぜ失われてしまったのかを考えないといけません。(金子、p10)

 この問題提起の後、まず書き手側について論じられ、その後に読者について話が進む。

 従来の言論誌の主たる読者層だった地方公務員や教師がもはや支え手ではなくなってしまった。(宮崎、p10)

 数十万部を売り上げていた以前からすると、総合誌の現在の状況は芳しくない。これはもちろん論壇(と呼ばれる言論空間)にも当てはまることだろう。言論の軽視・無視が拡大する状況は野蛮である。イデオローグたちの“自己満足”ではない真っ当な言論空間に関する“マーケティング”は考える必要がある。
 
 

 理念の対立軸がなくなった(中略)。いまだに構造改革派対抵抗勢力とか、社会主義対資本主義とか、ありもしない対立軸を唱える論壇誌が多いのですが、それは新しい座標軸を見つける努力をしないからです。書き手が保守化する一方で、公務員やサラリーマンも、自分たちに関係する各論になったら反対する。(金子、p10)

 「新しい座標軸(対立軸)」も考えなければならない。現状の枠組みでものを語ることの多い自分への自戒。
 
 

 つまり不幸というのは、金子勝に「これはぜひ反論しなければならない」と思わせるような、おなじくらい広い視圏を収めながら、なお見解を異にする論者が出てないことだろうね。戦後言論の最盛期には、そういう関係性っていくらでもあったわけでしょうね。(宮崎、p15)

 この後で話はグランドセオリーやピースミール・ソーシャルエンジニアリングに及ぶ。この点でも自戒。細かい点での批判なども必要であり重要だが、その背後の広い土台の構築も常に意識しなければならない。
 
 

 ホリエモンは(中略)フジサンケイグループに対し「新聞がワーワーいったり、新しい教科書を作ったりしても、世の中、変わりません」なんて身も蓋もない批判をする。中途半端なホンネ主義の保守派は、もっと突き抜けた、ラディカルなホンネ主義の挑戦を受けている!(宮崎、p22)

 左翼は、もう少し大衆のホンネの部分にアピールするレトリックを考えたほうがいい。故青木雄二氏や宮崎学氏には学ぶところ大でしょう。遠い外国の話はやめよう。大事だけどいまは胸の奥にしまっておこう。足下をこそ問題にしよう。(宮崎、pp22-23)

 これは言論における戦略の問題。先に書いた「マーケティング」とも関連する。これも常に意識、思考しなければ。
 
 

 もしかしたらサラリーマンは、月刊誌を読む代わりに、新書で世の中を知ろうとしているんじゃないか。(金子、p24)

 月刊誌から新書へというのはおもしろい。
 
 
 さて、「各紙『論壇時評』担当者座談会」からの抜き出しは以上だ。今から見るとなぜ線を引いたのか分からないところが多い・・・。しかし、要は社会に対して発言する際の戦略(およびマーケティング)の重要性をより意識化しなければならないということ。常に一段高い位置から冷静に自分の主張を見つめておきたい。
 
 
 
 
 次は、「私もひとこと言いたい」という「日本の言論界に何を思うか」について各界の言論人43人が1頁で書くという企画。43人は全体としてはやはり“左”が多いが“右”の人もきちんといる。ここでもおもしろいものを取り上げていく。
 
 
 
 まずは佐伯啓思。彼の主張は全体がおもしろいため、論の流れを要約しながら追っていく。ちなみに、引用は全てp60から

 最初に現状認識。

 「言論界」などというものは、すでにほとんど崩壊してしまった、という感が強い。

 そして、その理由について。

 ひとつは、冷戦以降の思想状況、もうひとつは現代のポストモダン的状況だ。

 より具体的には、

 第一に、社会主義の崩壊によって、これまで「論壇」を作ってきた保守・革新の対立は崩れた。(中略)リベラル・デモクラシーや公正な競争的市場経済といった基本線においては、ほとんど対立がなくなってしまったのである。

 第二に、ポストモダン的状況では、「大きな物語」は不可能と見なされ、問題を「総合的に」捉えることができない。その結果、断片化され、分割された多様な問題だけが次々と生み出され、個別問題に対する「専門家」が次々と登場する。しかも多くの場合、複数の「専門家」の見解は分かれ、調停することはできない。

 こうして彼は「時代の必然」としての「論壇の死」を宣告する。

 しかし、このあとの文が見事なのである。

 私自身のささやかな抵抗は、こうした「時代」の不条理と欺瞞をいわば「文明論」として見据えるところにある。時事的な論題といえど、われわれの生きている「現代文明」の亀裂や矛盾の表出だと思うからである。

 と。・・・華麗なる自己論破! 最後に書かれる“自己の営み”を否定するためにその前の文章を書いていたのか!
 
 
 続いては一水会顧問の鈴木邦男。彼の文章は(佐伯啓思に対するのとは異なり素直な意味で)正鵠を得たものだ。その冒頭を少々長いが引用する。

 自分は好き勝手なことを言いたい。でも批判されるのは嫌だ。又、違う意見、反対な意見は聞きたくない。読みたくない。出来るなら潰したい。・・・・・それが「言論の自由」だと思っている人が多い。冗談じゃない。そんなのは単なるエゴイズムだ。皆、誤解している。
 「言論の自由」は我慢がいるものだ。痩せ我慢だ。嫌いな者、許せない者、軽蔑すべき者の考えを認め、発表する自由を保障してやる。それが「言論の自由」だ。(中略)
民主主義は、「君の意見には反対だ。だがそれを言う自由は命をかけて守る」という言葉に表れているという。(p67)

 民主主義を多数決と曲解したり、逆に自己の表現の自由の保持だと曲解したりする浅薄な民主主義理解が広まっている。実際に自己満足の言論・報道が蔓延している。引きこもり少年を問題にする前に、社会のコミュニケーション不全をどうにかすべきだ。
 
 
 
 次は民主党政調会長の仙谷由人。政治家にしては珍しく真っ当なことを言っている。

 NHKの番組内容の改変問題は、本来ならメディアの死活にかかわる重大な問題だ。ゆえにメディアは連携して、「政治家の圧力」とされるものがあったのかどうかを検証し、あったとすれば徹底的に抗するのが当たり前だと思うが、そのような態度はまったく見られない。(p68)

 政治家というものは、言葉によって人々に自らの考えを伝え、同調を得なければならない。言葉の力を否定した瞬間に成り立たなくなる仕事だから、そこは信じていくしかない。政治こそ言葉を武器に、論理のバトルをするべきなのだ。(p68)

 社会の原理的な事柄に対する適切な理解である。この種の自覚を持つ人が増えることは重要なことだ。民主主義にとっても、コミュニケーションにとっても。
 
 
 
 次の企画に移る。「対談 憲法を撮る。」という映画作家の森達也と映画監督の是枝裕和の対談。二人はそれぞれ憲法1条と9条をテーマにドキュメンタリーを撮ることになっている。フジテレビの「NONFIX」という番組の企画である。

 ※しかし放送予定である3月9日午前2時28分には違う番組の再放送がテレビ欄には書かれている。どうやら森達也が恐れていた通り、天皇への取材が問題ありのようで放送は先延ばしされたのであろう。

 さて、この対談は二人の視点・観点が(肯定的な意味で)ジャーナリスティックな内容である。一ヶ所だけ抜き出そう。

 国家の価値観と個の感覚がこれほどに近似してしまう背景には、主語の変質がある。これもオウム以降だと思うんだけど、「被害者」が主語になって、被害者の悲しみをみんなが共有したかのような気持ちになった。でも被害者の辛さなんて、共有できません。だから加害者への憎悪ばかりを共有することになる。そして今度は「我々」、その延長で「国家」が主語になってしまう。そういった集合抽象名詞を使えば楽なんですよね。だから述語が簡単に暴走する。「許せない」というのが典型です。(森、p103)

 集合抽象名詞である主語が延長していくという見方はなかなか現状をうまく捉えているように思える。つまり、近代国家は「私」と「公」を分けている。しかし、今の日本では数多くの「私」が「国家」という単位を主語として思考しているのである。自分が国家君主にでもなったつもりで語る人のなんと多いことか。まさしく「朕は国家なり」状態。稚拙だ。
 
 
 
 次の企画は「枝野幸男民主党憲法調査会長に聞く 自民党こそ究極の護憲政党だ」というインタビュー。この中には鋭い指摘が多々見られる。以下では全て枝野幸男の発言から引用する。

 政治家はあらゆるテーマについて、国民から「どう考えるのか」「どうやって解決するんだ」と聞かれる。その際に具体的な解決策を持ち合わせていなければ、憲法のせいにするのが一番簡単だ。教育をどうするのかと言われた時、やっぱり憲法に教育をしっかりすると書かなきゃいかんと言えば、何か解決策を出しているかのような印象を与えることができる。きちんと勉強していない人ほど憲法改正を言いたがる傾向があると思う。(p108)

 見事な森前首相批判(笑) 同じことは憲法以外に、教育でも言えるだろう。思えば、森前首相はライブドアの堀江社長について「これが戦後教育の成果か」と言っていた(笑)
 

 今までの自民党型利己主義(Stud.注:選挙区への利益誘導のこと)は、自分のためと言わないで自分たちのためということでやってきた。ムラのため、会社のため・・・・。自分よりも一段大括りの組織を隠れ蓑にした利己主義の横行こそ、自民党が作ってきた今の社会の姿だ。それを変えていくためには、個人の責任をはっきりさせていかなければならない。個人が組織を隠れ蓑にしてごまかすことができないようにしていくことのほうが、モラル回復には必要だと思う。国家主義が強まれば、国のためという隠れ蓑の中で利己主義に陥る。国家を強調することは、明らかに時代に逆行している。(p109)

 先の森達也の発言と近いことも言っている。どうやら右派の魂胆はかなり暴かれてきているようだ。(そして、ここではその魂胆を見抜くに止まらずその弊害までが指摘されている。)
 

 「(三分の二を国会で形成して改正しようという気がないということを表す)自民党らしさ(Stud.注:国家や伝統の押し出し)を強調した憲法の議論を進める人たちは一番の護憲派だと、僕はそのことを徹底して言い続けますよ。旧社会党だけが憲法を変えなかった当事者ではない。彼らを巻き込むような改憲の議論をしなかったこれまでの自民党こそがむしろ主犯だと思っている。(p112)

 冷静な指摘である。と共に、民主党が憲法論議でキャスティングボードを握っていくことへの意思が感じられる政治的な発言だ。
 

 最初の国民投票でもし否決されれば、また五十年間、憲法の議論ができなくなる。投票率が確実に50%を超え、7割以上の人が賛成するという国民投票を目指さなければいけない。(p113)

 これまた冷静な指摘である。逆に言えば、この数値が無理なら国民の総意としては憲法改正は必要ないということだろう。
 
 
 
 次に移る。次は政治学者・藤原帰一による連載「映画の中のアメリカ」。第7回である今回のタイトルは「観客の逆説」。一ヶ所だけ引用する。

 安全を保証された現実は、映画を見るという、潜在的には危険な行為を観客に受け入れさせるために欠かせない条件である。
 というのも、映画は、少なくとも潜在的には観客から自由と安全を奪う芸術だからだ。映画の観客は、スクリーンに映し出される「事件」を知ることはできても、自分の手で変えることはできないからだ。観客とは、当事者として行動する自由を奪われた、ただ見るだけの存在に他ならない。
 これはつらい。目の前で人が殺されても、家が燃え上がっても、船が沈んでも、観客はなにもできない。(p222)

 藤原帰一はここからアカデミー賞の受賞作の特質を導いている。つまり、「傍観者でしかあり得ない観客の無力を操るかのような監督の悪意を見ることができる」作品(キューブリック監督『時計じかけのオレンジ』など)は選に漏れるということだ。この構図は先に述べた“「朕は国家なり」現象”と近いかもしれない。
 
 
 
 以上で終りである。最初に書いたように、「論座」今号を読み終えておもしろく、勉強になったと思ったため、いち早くメモしておこうと思ったところから書き始めたのがこの記事である。そのため、自己の主張は少なく、自戒の念が多い。この点はご了承いただきたい。
 
 
 また、思えば、金子勝・宮崎哲弥の発言に触発されて言説に戦略を持たせようと意を決したばかりではあるが、今回はそれとは無縁のものになってしまった・・・。
 

 このブログの記事では「論理」に主張の機軸を置いているものが多い。一つには読書感想文の体のものが多いからである。しかし、これは「論理を徹底させるとリベラルになる」という自分の信念に基づく一つの戦略(と呼べるほどのものか?)であるのだ。

 しかし、最近の論壇にはしっかりした方法論を持った“学問”の素養のある人が増えてきている。(金子勝、宮台真司など。ただ彼らの主張が常にその方法に則っているかは疑わしいが。また、このブログでも取り上げた小谷野敦『評論家入門』はこの観点から過去の論壇を斬ることを意図した著作である。)

 そこで、できればこれからはもう一歩先に進めたい。(ただし、考え付いたらの話だが・・・)



〈前のブログでのコメント〉
 謝謝奈央。Danke YaSan.

 「比べる基準がない」ということは、その価値を正当化するより上位の基準がない場合(「メタ的な価値」≒「正義」)と、そもそも“社会的”に正当化するべきではない(or必要がない)場合(私的な領域≒「善」)とが考えられるように思います。

 保守派の憲法論議のすごいところは、本来(近代憲法の原則)私的な領域であるはずの一個人の「善」を、社会を構成する最上位の体系的な原理であるはずの「正義」にしようとしているところです。恐ろしかー。

 「飲み会でStud.さんに指摘された点」ですか・・・。「試験中に煙草を吸いに行かずに、試験を即効で終わらせてから吸いに行け。」ということですか(笑)
commented by Stud.
posted at 2005/03/12 08:36
「比較不能な価値」とは憲法の長谷部先生がよくだす言葉です。
「あの子と一緒に生きていくべきか、一人で生きるべきか、わからない。なぜなら比べる基準がないからだ」
それにしても戦略論はまさにこの前、飲み会でstudさんに指摘された点。
考えていかなきゃならない課題です。

commented by やっさん
posted at 2005/03/11 21:29
 おもしろいですね。枝野さんの批判はおもわずうなってしまう当を得たものですね。

 現在の議論では憲法がクローズアップされがちですが、憲法を語っているということは、自由、人間の尊厳などのメタ的な価値が問題となっているということなはずです。「価値比較の可能性」自体を認識していないからこそ、いわゆる保守派の人たちはメタ価値を議論しているということも認識しないで軽く語っていられるのかもしれません。
commented by nao
posted at 2005/03/11 14:57
 なるほどー。確かに保守派の憲法論議なんかを見ると唯一“正しい”人生・人間像・価値観が全て決められている感じがします。

 ただ、彼らは自分の主張にあまりに無自覚な場合が多くて、総論としての人権とか多様性とかは認めるんでしょうね。

 それにしても、保守派の人たちは自分一人の価値観を社会に押し付けることの恥ずかしさを認識してほしいものです。先日の小泉首相の性教育の“一つの”実情へのコメントなんかは自己の体験のみに基づいて判断していて恥ずかし過ぎます(笑)
commented by Stud.
posted at 2005/03/11 04:52
比較不能な価値が「何か?」ではなく、価値比較の不可能性、それ自体を前提としているか、していないのかは根本的な対立軸になると思います。こと、わが国の現状をみるに。
commented by やっさん
posted at 2005/03/10 12:26
面白いですね。かつ納得のいく意見が多いです。明日読んでみます。

戦略論の必要性は私にも当てはまります。
仙谷さんは政治家の中でもかなり好感がもてますよね。

「比較不能な価値」の認識こそコミュニケーションにとって重要であり立憲民主主義の前提でありますが、意外にこれが対立軸である気もします。
commented by やっさん
posted at 2005/03/10 00:48
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