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 北田暁大 『嗤う日本の「ナショナリズム」』 (NHKブックス、2005年)
 
 
 一応読了。というのも、正直なところ第1~3章は読み進めているときにあまり内容を理解できなかったから。第4章は90年代~現代を扱っていることもあって比較的理解できた。そして、終章で1~4章のまとめもなされていて、そこで何とか1~3章の“主な”主張もおそらく理解できたと思う。
 
 
 それでも理解した範囲内で全体的な感想を言うと、個々の細かいところでは鋭くておもしろい分析もあるけれど、全体の主張としては説得力に欠ける。
 
 
 33歳にして早くも5冊もの単著を出版している新進気鋭の東大助教授(理論社会学・メディア史)である筆者の著書を読むのは初めてだったのだがちょっと期待はずれ。頭がいいことは間違いないけれど、少なくとも現時点では大澤真幸、宮台真司といった先輩社会学者にはまだまだ及ばない。(そうは言っても個人的には、彼らのような「社会学」より、『反社会学講座』的なものの方を学問的には評価しているが。)
 
 
 以下では、(自分の理解のために)少し丁寧に内容を要約してみる。その後でいくつかコメントをする。
 
 

 さて、本書の基本的な主張(1960年代~現代までの日本の「反省史」)は1~4章で行われている。以下では終章のまとめを参考・引用しながら記述していく。
 
 
 まず第1章は1960年代について。
 
 最初に、世界と自己(=主体)との関係を再帰的(反省的)に問うことを、主体が近代人であることの要件だとするギデンズの議論を援用する。その上で連合赤軍事件を取り上げて60年代を描き出そうとする。連合赤軍は「総括」、「自己批判」という用語を使って徹底した反省を行っており、その点では極めて「近代的」である。しかしながら、彼らは目的であるはずの思想(共産主義)を付随的・無内容なものとしてしまい、反省自体を目的化することで形式主義に陥った。この反省・否定の徹底という点で筆者は連合赤軍事件を「反省の時代」としての60年代を象徴する出来事として捉えている。
 
 
 続いて、第2章は1970年代について。
 
 70年代は「60年代的なるもの」への反省を介したリアクションとして捉えられる。ここではその象徴として糸井重里(PARCOの広告)、津村喬(メディア論)などが取り上げられる。彼らは、消費社会的な現実を背景に、サブカルチャーへの愛を肯定し、反省や立場を迫る思想主義に抵抗する「無反省」という反省の様式(「抵抗としての無反省」)を開拓した。これは消費社会的アイロニズムと呼ばれる。
 
 
 第3章は1980年代。
 
 80年代に入ると、70年代における60年代的なものへの「抵抗としての無反省」の「抵抗としての」という留保が抜け落ち、「無反省」(という反省)となる。つまり、消費社会やアイロニーを“戦略的に領有”する消費社会的アイロニズムから、アイロニカルであることを“制度化”する消費社会的シニシズムへという変化である。
 
 
 そして第4章は1990年代~2000年代。
 
 90年代に入り、80年代に形成されたシニカルさ(構造化・制度化されたアイロニー)を担保してくれる第三項(=第三者)が消滅したとされる。そこでは、代わりに個人間の《つながり》がその役割を果たすことになった。つまり、自己がアイロニカルであることは、自己と他者の外部にある第三項によっては保証されず、行為に接続する(=つながる)他者によって逐次承認・正当化されなくてはならないのである。そして、その他者による自己の承認を行いやすくするために導入される媒体が「ナショナリズム」や「反市民主義」といった(ロマン主義的な)ものである。換言すれば、自己の承認のため(実存主義的)に、右翼的ロマン主義的言説が利用されるということである。これを筆者はロマン主義的シニシズムと呼んでいる。

 ここでは「2ちゃん」が例として挙げられている。すなわち、2ちゃんの書き込みというのは、目的が《つながる》(=自己のアイロニカルさを承認してもらう)ことであり、《つながり》やすい会話対象として右翼的言説が用いられているということである。ここから書名の『嗤う日本の「ナショナリズム」』は来ている。(ちなみに、このような用いられ方のナショナリズムは、「だからこそ」危ないという見方(香山リカなど)と、「だから」問題ないとする見方(浅羽通明など)とに分かれるとされる。)
 
 
 この後にリチャード・ローティ=宮台真司的な戦略への批判が簡単に述べられて終わりになっている。以上が本書の主張の流れである。
 
 
 個人的な感想としては、本書は現代社会論、2ちゃんねる論としてならおもしろい一つの解釈として十分にあり得ると思う。しかし、「反省史」という試みとしては説得力がない。それは筆者が「あとがき」でも述べているように対象の選択や解釈の恣意性のためだろう。筆者は足りない点としてこれを指摘しているが、これは果たしてそんな周辺的な事柄だろうか? 例えば、連合赤軍事件や糸井重里や2ちゃんがその時代の「反省」形式を象徴するものだとなぜ言えるのだろうか? アイロニーを反省の“深化”したものとして同列に論じることに問題はないのか? また、そもそも「反省」の形態は歴史的に一方向的に進み収斂していくようなものなのであろうか? これらのような基本的な点への言及もない筆者の主張は「論証された」と言えるだろうか??? 

 これでは、自己の仮説に都合のいい事例を選び、自己に都合のいいように事例を解釈していると思われても仕方がない。
 
 
 ここで、これらのような方法論における致命的な欠陥が起こったメカニズムを蛇足ながら推測してみる。まずそもそもの筆者の問題意識は「アイロニーと感動指向の共存」(電車男)、「世界指向と実存主義の共存」(窪塚的なもの)という2つの矛盾である。そして、先にも述べたように本書は、「2ちゃん」論などとしては自分の感覚に合わないこともなく、とてもおもしろいものである。この出発点と到達点との“合致”から、現代に対する診断(結論)が先にあり、それを跡付け的に歴史を遡って過去に当てはめたとは考えられないだろうか。その結果として、過去の分析が無理のある説得力のないものになってしまったということだ。
 
 
 ここで方法論から内容の方に焦点を移し、今まで唯一肯定的に評価してきた「2ちゃん論」=現代の分析について批判してみたい。筆者は2ちゃんにおける右翼的言説はつながるための「ネタ」に過ぎず、右にも左にも振幅し得るとする。そして、右派的なものである家族会へのバッシングはその証左だとする。
 
 しかし、そもそも、2ちゃんねらーはわざわざ論争的な政治的・社会的な話題を持ち出すのだろうか? 思えば、筆者が取り上げている例で見ても、60年代の連合赤軍以来、人々は政治的・社会的なフィールドから引き下がって私的・非政治的な領域で活動している。この活動領域という点での差異について無自覚に論を進めることはできないはずだ。
 
 
 以上のように、本書は全体としては肯定的な評価は下せない。それでも、現代の分析や、現代以外のところでも細かいところではおもしろい視点があった。メモ的に少々引用しておく。
 
 

 それ(引用者注:『元気が出るテレビ』)は、同年に始まった『夕焼けニャンニャン』(フジテレビ)とともに、「お約束」の外部=「素人」の振舞いを前面化するという「メタお約束」をフォーマット化する試み、すなわちいかなる局面においても、視聴者がツッこみの位置=対象を嗤うポジションに立てるような構図を素描する実践であったのだ(pp158-159)

 
 

 《2ちゃんねる=本音を語る/マスコミ=建前に自足》という対立図式は、むしろマスコミにおける建前・実態のズレを嗤うための当事者カテゴリーを反復したものにすぎない。(中略)偽悪を装う2ちゃんねらーたちは、身も蓋もない本音を語るリアリストというよりは、「建前に隠された本音を語る」というロマン的な自己像を求めてやまないイデアリストであるように思われる(p210)

 
 
 ※もう少し引用したかったが、筆者独特の言葉使いなどのために引用しただけでは意味を取れないものが多かった。この点も読みながら感じた批判点である。若い人にしては珍しく言葉使いが難しい。硬い難しさとは違う読みにくさがある。
 
 
 冒頭で内容をあまり理解できなかったと書きながら散々批判を書いてしまった。これは、「理解できなかった」と開き直ったことによる解放感によるものと思われる。あるいは、アイロニカルであることを他人に承認してもらう必要を感じない人間の恐ろしさか―――。
 



〈前のブログでのコメント〉
 とりあえず、簡単なところから。「Studさんの年代別時代論はどうか?」ということですが、どのように時代を区切るか?は何を対象にしているのか?どういう観点から見ているのか?(例えば、反省史、広告史、日本政治、日本経済など)によって異なるのでご指摘の通り一概には言えません。

 その上で「時代精神」というものが存在するか?ですが、「時代精神」と呼べるほど統一的なものが存在するとは思えませんが、その「時代の精神的思潮」とでも言うものはあるのではないでしょうか。(これももちろん領域によって異なりますが。)

 で結局、個人的にはmoritaさんが書かれているのと同様に、「日本的な根本問題」のような時代を通して存在する問題や傾向の方が重要、というかより大きな影響を人々に与えていると思います。いつの時代にも“消費主義”や“利己主義”はありますので。

 やはりこの問題は何もないところから論じるのは無理みたいです。
commented by Stud.
posted at 2005/03/22 21:00
ナイスですねー。私もこの本を丁度読み終わった瞬間だったからです。手に取った瞬間何故か購入してしまったのです。というのは最近自分にクリエイティヴな資質があると妄信し、広告論に興味があったため、『糸井重里』の文言にやられてしまったのです。と蛇足はおいといて。

2ちゃん論≒電車男論はStudさん同様に的を得てるなと思いました。かつ、最近『反社会学』を爆笑しながら読んでしまったので、『先に結論ありき』というロジックを薄々感じていました。テリー伊藤のネタは別にどの時代でも爆笑モノでしょうにね・・・。(笑)

本書は、哲学と社会学を援用しながら社会評論という形にまとめているのですが、正直『胡散臭い』というのが率直な感想です。最初に自分の解釈枠組みを提示していない点で議論の土俵がはっきりとしないのです。ここにおいて宮台真司が明らかに上手(うわて)です。実証性という観点からも反社会学が上手です。

さて、この手の本が提供してくれている議論の観点に沿うと、Studさんの年代別時代論はどうか?という事です。まず、こういう年代別時代論に対するラベリングがそもそも意味が無いという観点もアリでしょうし、ナシならば、Studさんの時代観はなんですか?

私は、『時代精神』とひとくくりにすることが怪しい。と思います。例えば、学生運動で反省した『からこそ』糸井重里に惹かれたとも思えないし、学生運動の時に糸井重里と機能的に等価な人間が出てきたらノンポリの学生がなびいていったかもしれない。そもそも、学生運動がミスったのは活動に問題があったのではなく、私的領域の延長として公的領域を設定したという日本的な根本問題があったとも解釈できる。
と考えてくると、筆者の因果的な時代論はどーもうさんくさく、ここも東浩紀が上手だと思います。サブシステム毎に正確に実証していかないと・・・。

とまぁ長々と書いてしまったのですが、結局『戦後精神史』は何なんだ!という問題提起になりました。どうもここだけで書くのは難しいのでいいネタ本が出現する機会を期待しております。
commented by morita
posted at 2005/03/22 03:43
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