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内田隆三 『社会学を学ぶ』 (ちくま新書、2005年)
すみませんが、ほとんど何を言っているのか分かりません。
最初の方(3章くらいまで)は著者の読書遍歴に関連付けられながら社会学の古典的な著作や学者について説明がされているのだが、いつの間にか何の断りもなく著者の個人史とは無関係に話が進みだしている。
タイトルからも分かるとおり、本書は「社会学入門」的な本である。実際、本書で取り上げられているのは、マルクスの物象化論、構造主義、フーコー、パーソンズなど重要な社会学者たちである。しかし、その一方で、最後の2章で柳田国男、ベンヤミンが取り上げられている。
そんな訳で、本書は一般的な「社会学の入門書」と「筆者の主張」が無自覚に(?)混同されているのだ。しかし、この混ざり具合を積極的に表現すると、帯の宣伝文句の通り「血の通った入門書」となるようだ。
それで、なぜこの本をこんなに分かりにくいと感じたのかについて2つの点から解明を試みてみたい。
一つは、その抽象性にあると思われる。つまり、様々な学者や理論が取り上げられるのだが、その主張が現実の問題とどう関連しているのかに注意が払われていないのだ。「“机上の空論”とはこういうもののことを言うのか!」と実感した。と同時に、本書で述べられる理論の現実有意性を疑わずにはいられなくなってしまう。好意的に特徴付けると、「哲学的理論」とでもなるだろうか。(これはあくまで「社会学」のはずだが。)
そしてもう一つは、筆者の表現(あるいは主張も?)が独善的なものであることだ。引用してみる。
以下では柳田国男について書かれた第7章の最後の2段落をかなり長いが全文抜き出す。
柳田の見据えた課題は、社会学の言葉でいえば、さまざまな地域の習俗を含み込みながら、この国の社会性はどのようなかたちで分節されているのかを明らかにすることであった。習俗はそのままでは多様性のなかに拡散したままであり、ひとつの社会を構成しているとは言いがたい。習俗の場が社会的な秩序に組み込まれているとき、一体何が追補され、何が省略されているのかが明らかにされねばならない。
全体は部分の総和より以上のものであり、仮想的な統合の次元を追補されている。だがこの統合の効果として、全体は部分の総和より以下のものとなり、たんなる総和よりもはるかに複雑性を縮減したエコノミーを成立させるだろう。深部の習俗から見れば、この仮想的な統合の次元に、山人の共同幻覚が、伊勢の信仰が、そして近代天皇制の文化技術が追補され、それぞれ異なるエコノミーを成立させる。つまり日本という場がさまざまな仕方で成立し、葛藤をはらみながら折り重ねられていく。習俗を成立させている小さな力の場は決して自律しているのではなく、こうした抽象的な場と干渉しながら持続しているのである。(pp210-211)
ほとんど言葉遊びだ。「それで結局、何?」と問いたくなる。何かを主張や論証しようという気があるのか疑いたくなってくる。それに、どこまでが柳田国男の主張で、どこからが筆者の解釈なのかが分かりにくい。さらに言えば、全てを正しいこととして無批判に論証なしに進めすぎだ。
さて、実は筆者がこのような分かりにくい独善的とも思える内容の本を書き上げた理由が垣間見える文章が最後の「エピローグ」に出てくる。
私は今も先生の言葉を思い出す。本質的なことが大事なんだよという言葉である。私がその言葉にどれほど誠実であったのかはわからない。だが、私が自分の出会う学生に言えるのは、やはりこの言葉しかない。そして本質的なこととは何かを自分で考えることである。(p236)
二点コメントしておきたい。
一つは、「何が本質的なことか?」という問いには答え(模範解答)がない。一つの解答を作るためには本文中にも出てくる批判のように、「超越的な存在」を前提にしなければならない。他方、「本質とは何か?」に答えるもう一つの道は自分で解答を作ることだ。
まさにここに筆者が独善に陥った原因が見て取れる。つまり、「本質」について筆者なりの基準を示すことなく社会学の諸理論を解釈しても、それは「恣意的」のそしりは免れないのだ。
それから、二つ目のコメントは、「自分で考えること」という最後の言葉について。自分で考えて、自分で納得したところで、それではただの自己満足に過ぎない。その内容について不特定多数の他者と共有しようという志向がなければこれもまた独りよがりに過ぎないのだ。
それにしても、この種の本を読むと、編集者は内容を理解できたのだろうかという疑問が沸いてくる。「ちくま新書」と言えば、加藤節『政治学を問いなおす』も全く同じような批判が当てはまる内容であった。『社会学を学ぶ』は編集担当者への謝辞が書いていないため、この2冊が同じ編集者かどうかは分からないが、結構おもしろいものもある「ちくま新書」だけに出版社レベルで何とかしてほしいものだ。