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 高田里恵子 『グロテスクな教養(ちくま新書、2005年)
 
 
 この本は、教養の中身ではなく教養をめぐる言説(≒教養論)の方に主に焦点を当ててその歴史を大雑把に辿っている。その際のスタンスは批判的というより冷笑的だ。

 本書での筆者の「主張」は、まとまりがなく右往左往していて焦点が定まっていないように思えてしまった。そんなわけで、教養論を扱う本で重要なのはやはり「教養をどう捉えるか」であるので、以下ではその点について書いていく。

 いきなりだが、いくつかおもしろい記述を抜き出していこう。 

「二重戦略」とは、よくある現象に即して説明すると、エリートを自認しながら、あるいはエリートという自己認識をもっているからこそ、大衆文化にも馴染んでいて、秀才なのになかなか話の分かる奴との評判をとろうとする態度である。これを、われわれの例の台詞で言いなおせば、難解な哲学書を読むふりをすることは受験勝者の仲間内で、僕はたんなる受験秀才じゃないを誇示しあう方法であり、難解な哲学書なんか知らないふりをすることは、外部の世間にたいして、ぼかぁ冷たい優等生じゃありませんよと媚びる態度であった、となろう。(pp37-38)

 
 

「戦前はサラリーマンの就労人口に占める割合は10%を越えなかった。その限りサラリーマンは近代的セクターの職業として憧れの職業だった。サラリーマンの別名は「インテリ」や「知識階級」であり、都会のハイカラ階級だった」と竹内洋は説明している。/ところが、この日本の「知識階級」が、旧制高校や大学で教養の洗礼を受けているにもかかわらず、サラリーマンになってしまうと奇妙に反知性主義的な態度を取るということが問題なのである。これは、本当によく批判されることで、内容じたいよりも、指摘の頻度のほうが日本的特徴となっているくらいだ。丸山真男も「卒業とともに普遍的な教養からも急速に「卒業」してしまう。つまり職場の技術的な知識への関心に埋没する傾向があるのです」と嘆いている。(p97)

 
 

教養主義が批判されるとき、すでに見たように、ブルジョア的視点からは、身のほど知らずの上昇志向の落ち着きのなさが馬鹿にされ、庶民的存在には、自分たちを置き去りにする裏切り者のエゴイズムが非難されるのだが、マルクス主義者や全共闘学生からは、反対に、ヌクヌク自足しきって動かないことが糾弾された。(p205)

 
 
 これらはどれも教養や教養人に対して発せられる一般的な批判であろう。そして、これらはどれも教養を身に付けようとする人の行動の裏に見え隠れする卑しい内面を暴露するものでもある。

 しかし、この種のイデオロギー暴露的な批判は(本書が対象とする1970年代くらいまでの)教養の定義からして避けられない性質のものであるように思われる。本書でも教養の定義に関して以下のような記述が見られる。

われわれの教養の定義にとって重要なのは、自分自身を作りあげるのは、ほかならぬ自分自身だ。いかに生くべきかを考え、いかに生きるかを決めるのは自分自身だ、という認識である。(p17)


 つまり、「いかに生くべきか」=実存的な目的のためのものが教養であるという理解である。

 筆者も書いているように、このような自己の人格形成のための教養は現代では流行らないだろう。第一、そんな個人の内面の悩みに答えてくれる知識が、必要かつ有用なものだとして(大学の「教養過程」という名前に見られるように)“社会的にも”受け入れられるというのは異常な事態だ。

 しかし、今では教養といえば、前者の実存的側面を削ぎ落として後者の社会的有用性が前面に出るようになっている。これを端的に表す現象が哲学の没落と科学(的方法)の隆盛だ。今どきカントやらニーチェやらは専門家のみが理解できる対象だという認識が広まっているし、他の分野の本などで言及されることもあまりなくなってきたように思う。他方で、科学的な手法や分析は論壇人の前提知識となっているし、特に「教養としての経済学」という考えは世間一般でも受け入れられているように思える。

 また、個人の内面のレベルでも、実存的な悩みを解決するために教養を身に付けようとするのではなく、純粋におもしろいから教養を身に付けようという態度が一般的になってきたように思う。この転換によって、最初に引用した教養(の裏に存する卑しい精神)に対する一般的な批判はなされなくなる。

 もちろん、以上で述べてきたような「社会的に有用な科学的手法をおもしろいから身に付ける」という“新しい教養”には問題もある。

 例えば、教養をおもしろいと感じない人は、教養は身に付けるべきものだという世間的な圧力を感じることもないために、昔のように教養を身に付けようと背伸びや無理をする必要がなくなる。こうして、教養は一部の愛好家の中だけのものになってしまうのだ。これがもたらし得る問題としては、出版不況、階層固定化、民主主義の劣化、エリート主義の伸長、デマゴーグの跋扈などが考えられる。

 しかし、それでもこの“新しい教養”の方がさわやかで好ましいように思える。昔の教養本とかに見られる精神論や教訓は独りよがりでドロドロしすぎていて他人が読むと疲れるような内容になっているからだ。

 筆者も、こんなことを書いている。

自分自身で自分自身を作りあげる、と教養を定義したように、教養は、自分自身をどう見るか、他者にどう見られたいか、他者をどう見るか、ということと結びついている。そこから生まれうる、間違った自己理解と他者理解の錯綜した滑稽さは、わたしにとって、考察対象というよりも、毎日の生活のなかで直面している問題なのだ。(p233)

 自分が言いたいことと筆者がここで言わんとしていることが同じかどうかは分からないが、「滑稽さ」という表現は現代から以前の教養(的な本や言説)を見たときの適切かつ一般的な感想であることに間違いはないだろう。

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