忍者ブログ
by ST25
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 古賀純一郎 『政治献金(岩波新書、2004年)
 
 
 政治献金について、現状の概観、歴史、贈る側の論理、受け取る側の論理、最近の手法、外国でのやり方、改革の方向性が、実例や数字を取り入れながら分かりやすく紹介されている。まさに好著。

 読んだ結論としては、結局、献金のほとんどを占める企業・団体による政治献金というのは、財界や企業が金で政策を買うための手段にすぎないということ。

 数年前から経団連は独自に政党の政策評価を行い、その評価と献金額を連動させる方法を導入した。これなどはまさに、献金を政治的な駆け引きの道具とする意図があからさまに表れた方法だと言える。にもかかわらず、経団連はいまだに政治献金を「政治寄付」と呼び、議会制民主主義の維持や企業の社会的責任(CSR)の観点から献金していると主張してはばからない。

 また、最近では経済界代表候補として政治家を擁立し始めている。自民党から参院議員に当選した近藤剛は有名である。しかし、彼は測らずも道路公団総裁になってその無能ぶりが明らかになってしまった。そもそも組織の中で出世してきた組織エリートが政治的なリーダーシップを発揮できるとは考えにくい。

 とはいえ、このように、財界が政治に影響力を行使しようとする動きが活発化していることは間違いない。そして、財政力という点では他のどんな個人も団体も寄せ付けない財界がその独占的フィールドで動くことの強さと怖さを認識しなければならない。

 しかし、だからといって、より閉鎖的な民主主義にしてしまう恐れのある、企業・団体による政治献金の禁止まで行う必要はないように思える。

 要は、財政力で圧倒的な企業・団体による献金なしには政党や政治家が政治活動を行えないような状態にさえしなければよいのである。ただ、“抜け道”的な政治献金である政治資金パーティーなしには基本的な政治活動(もちろんそれがどの程度かについては議論があるだろうが)を行うことさえ厳しい現状では、政治献金を贈ったり、パーティー券を買ったりする企業・団体が政治家の“政治生命線”を握っていることになる。これでは、政治家が財界や企業を向いて政治をするのもやむを得ない。

 無能な“小泉チルドレン”の大量発生を見て、テレビの無能なコメンテーターたちは、バカの一つ覚えのごとくみんなして「議員歳費が高すぎる」と叫んでいるが、彼らが言っていることは90年代初めの政治改革が目指した方向を押し戻そうとしているだけだ。

 ここは冷静に、事務所維持費やもう2~3人分の秘書給与など、現実を鑑みた上で、政治活動にかかる最低限の額は政党助成金などで国が支出するようにすべきだろう。もちろん、使途の公開は前提である。

 そうしない限り、金のあるもののみが政治家になれ、金があるもののみが政策に影響を及ぼせる現状が強化されるだけだ。
 
 
 さて、政治献金が結局は財界が政策を金で買うための道具にすぎないということの他に、この本を読んで気になったのが、今でも企業にとって「政治」が重要なのかということである。

 この本で紹介されている2002年の自民党に対する大口献金の数字を見ると、業界団体では、日本自動車工業会がトップで8040万円、次が日本鉄鋼連盟の8000万円、以下、東証取引参加者協会7425万円、日本電機工業会7000万円、石油連盟6000万円、不動産協会3300万円、全国信用金庫協会3000万円などと続く。また、企業別では、トヨタ6440万円、本田技研3100万円、新日本製鉄2500万円、東芝2324万円、日立2324万円、松下2324万円、前田建設2291万円などとなっている。

 石油のように政治的な環境が重要である業界や公共事業に密接に関係のある業界が献金するのは分かるが、自動車業界や電機業界が多いことには驚いた。経済摩擦が問題になっていた頃ならともかく、今でも自動車や電機といった産業は、(具体的どこで関わりがあるかは分からないが)政治と関係があるのだろう。でなければ、主張を通すための政治的道具である政治献金を一企業や一業界として行うとは考えにくい。(あるいは、財界の暗黙のルールで、企業業績に応じた献金額であるとするなら話は別だが。ちなみに、公的資金を投入した金融業界や外資は政治献金ができないから入っていない)
 
 
 しかしながら、日本の世論やマスコミの論調では、経団連をはじめとする経済界に対する信頼がかなり高いように見受けられる。どうも日本では(外国のことは知らないが)、ヒラの会社員も“企業”にアイデンティティを持つようで、その必然的な結果として、一ヒラ社員が“経営者”の立場でのみ物事を考えるようになる。しかしそうすると、安易なリストラや「働きすぎ」といった労働者にとって不利なことをも簡単に容認してしまうことになるのだ。

 そんなに、何でもかんでも、経済=市場=企業の論理で考える必要があるのだろうか。

 政治には政治の論理があり、労働者には労働者の論理がある。それを主張することは別に資本主義や会社の利潤追求を否定することにはならない。

 人権、再分配、福祉、余暇、子育て、教育など、あらゆる重要な価値は、経済=市場=企業の論理とは違う次元の、人間(として)の論理、市民(として)の論理、労働者(として)の論理、父親(として)の論理、女性(として)の論理といった、様々に存在する自己の立場や役割規定やアイデンティティや価値観から、ごくごく自然に発して良いもののはずである。しかも、一人の人間の中に様々な立場・アイデンティティがあるわけだから、衝突するあらゆる要求を調整することも、一人が一つだけの立場に固執する状態においてよりも、比較的容易に行える。
 
 
 そして、これを実現することは民主主義の深化にもつながるのではないかと思う。



〈前のブログでのコメント〉
ここのところ気持ち悪いくらいに意見が合いますね。おそらく、お互いの似かよった境遇(と最近の社会情勢)がそうさせているのでしょう(笑)
commented by Stud.◆2FSkeT6g
posted at 2005/10/15 02:59
おっしゃるとおり。企業の政治献金は全面禁止は違憲でしょうが基本的にはなんとかしたいと思ってます。
まさに、政治は数字で表す事が可能な価値と不可能な価値、客観的に比べる基準すらない事にも価値判断を下す作業をともなうと考えます。政治家の「判断力」とはそういうもんだとある人がおっしゃってました。

またまたまさに、民主主義の深化というか民主主義そのものですな。

やはり基本的な考え方は近いですな
commented by やっさん
posted at 2005/10/14 22:09
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
カレンダー
09 2024/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
最新コメント
[10/20 新免貢]
[05/08 (No Name)]
[09/09 ST25@管理人]
[09/09 (No Name)]
[07/14 ST25@管理人]
[07/04 同意見]
最新トラックバック
リンク
プロフィール
HN:
ST25
ブログ内検索
カウンター
Powered by

Copyright © [ SC School ] All rights reserved.
Special Template : 忍者ブログ de テンプレート and ブログアクセスアップ
Special Thanks : 忍者ブログ
Commercial message : [PR]