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増田悦佐 『高度経済成長は復活できる』 (文春新書、2004年)
「 この本は、日本経済の高度成長が70年代前半に終わったのは、経済成長を敵視する社会主義革命家が政権奪取に成功したからだという主張を展開する。その社会主義革命家とは、積極財政、拡大志向、そして利権政治の親玉として、社会主義的な思想信条とは対極に位置するように見える田中角栄だ。 」(p13)
という、「角栄政権社会主義革命説」を説得的に論じている本。「トンデモ本」っぽいタイトルだが、決してそんなことはない。4章と5章は妙にナイーブで「勇み足」的な話に終始しているけれど、それ以外のところの分析、論証、処方箋はどれもしっかりしているし、おもしろい。
この「角栄政権社会主義革命説」は、まず前提として、日本の高度成長が70年代前半に減速に転じた理由に関して、経済学ではメジャーな「人口移動原因説」を採っている。
「 1960年代末までの「奇蹟の高度成長」期には年間40万~60万人に達していた地方から都市圏への人口流入が、70年代半ばについにゼロまで落ちこんでしまう。そして、この地方から大都市圏への人口移動の縮小と並行して、日本経済は他の先進国並みの低成長経済へと転落する。 」(p26)
この人口移動は、特に農業部門から工業部門への人員の配置転換であり、これはすなわち、より効率的な分野への人員転換であった。
そして、この流れを止めた犯人だとされるのは田中角栄である。すなわち、「日本列島改造論」の名の下、田中角栄が地方に大量の公共事業をぶち込むことによって地方に仕事を無理やり作り、地方から都市への人口流入を止めてしまったというのだ。
「 田中角栄が、生涯を通じてこの「農村工業論」(=農村への工業の移転こそが農村の疲弊を救い、流入民の激増による大都市圏の政情不安、治安悪化をも救う理想の政策だとする主張)以上の経済認識に到達したとは考えられない。一連の「過密と過疎の同時解消」政策を推進する上で、一瞬たりとも、「都市に人が集中するのは、経済効率がいいからではないか」といった疑念に駆られた形跡はない。彼にとっては、「人口密度が高くて経済活動も活発な地域と、人口密度が低くて経済活動も停滞している地域があれば、人口の多いところから少ないところへ人間を移住させるほうが効率的だ」というのは、疑問の余地がない自明の前提だった。」(p88)
著者の主張を裏付けるデータとして、例えば、都市部住民と農村部住民との消費水準の伸び率の差(60年代後半と70年代前半との比較でも、戦前と戦後の比較でも農村の方が高い伸び率を示している)や、産業ごとの労働生産性の1975年と2000年との伸び率(建設業の生産性だけが低下している)が提示されている。
そんな田中角栄の「社会主義革命」に対して、北朝鮮の金日成が革命闘争の観点から同志的な評価を下しているというエピソードはおもしろい。
以上が、「角栄政権社会主義革命説」の骨格である。
ちなみに、最初に言った4章、5章の「勇み足」とは、例えば次のようなものである。
「 過疎化は経済的刺激に対して合理的に反応する訓練を受けた人間が多いところでしか顕在化しない。(中略)過疎化が最初に観察されたのは、奈良や和歌山とか、山陽地方といった、大都市圏に近くて住民一般が経済合理性にもとづく判断になれた地方だった。 」(p146)
この主張は、簡単に受け入れられるようなものでないにもかかわらず、論証されていない。それに、「大都市圏に近い」とは言っても大都市圏が移動可能圏内であってはならないわけだから、「近い」ことにどれだけ意味があるのか疑わしい。
ともあれ、この本の意義は、経済学、経済理論では当然とされていたこと、すなわち、地方への国費の“ばらまき”の非効率や弊害を、実例に当てはめて説明したことだろう。しかも、その「実例」というのが、「高度成長経済の終焉」という戦後日本経済の最重要事件であるのだから、そのインパクトは大きい。さらに皮肉なことに、高度成長を止めてまで実施された地方を助けるための政策が地方経済を疲弊させてしまったというのも、笑って済ませられない。
これからの地方のあり方を考えるためにも、歴史の教訓には真摯に耳を傾けたい。